【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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「ねえ。わからない?」
「なんだよ」
「美和が鷹司直幸の子供として産んだ女児。彼女は一九九六生まれ、あなたと同い年よ」
「あんた、陽子が美和の産んだその女児だって言いたいのか」
「おかしな話じゃないわ。母親の癌や、斎木の森へやってきた経緯。美和のことを伝えるにはあまりにも残酷だと判断した誰かが、幼い陽子に偽りを伝えていた可能性は十分にある。美和が悪魔だろうが、子供にはなんの罪もないんだもの。当然の判断だと私は思う」
 
 過去を思い出したのか、小春は軽く目を細めた。焦点の合わない小春の瞳には、はしゃぐ子供達の姿が馳せている。
 
「ヒナタはね、昔からあなたが好きで。私のそばに寄ってきては、トウゴの話をよくしてくれたわ。明るくて優しくて、そんなヒナタをソウはずっと目で追っていて。三角関係ってやつ? 可愛かったな」
「なんだよ急に」
「あの子たちは誰ひとり悪くない。悪いのは、それを利用した人間よ。迂闊だった。美聖が研究員として働いている……それだけで、鷹司製薬は私にとって信頼にあたいする会社だと思い込んでいた。それが、間違いだったのに」
 
 小春の目には、悔しさの涙が滲んでいた。
 
「斎木の森に度々やって来たラボの人間、夏川市議。ジンの父親でさえ、皆が鷹司慶三の言いなりだった。あの子たちは被害者なの。あなただってそうよ。だから、ヒナタやソウがあなたのことを殺すなんて、あり得ない」
「……」
「信じられない?」
「あ、いや」
 
 ヒナタの正体は陽子。その意味を、東伍は必死で考えていた。
 
 あの日。東伍が陽子を名乗る鷹司泉と、陽子の身体を取り戻すために小瀬メンタルクリニックを訪れた日。あの場に、男が一人現れた。
 白髪の混じる黒髪に、色白の肌。撫で肩で華奢なその男を、当初東伍は陽子を誘拐した犯人だと考え警戒した。男は自らを小瀬と名乗り、割れた入り口のガラスを見て、警察に通報すると東伍に告げた。
 焦る東伍。だがその危機は、陽子が口にした妙な問いかけにより回避されるのだ。
 
 
 “小瀬先生。あなた昨年の十二月二十四日に、駅前のコンビニ近くで浮浪者と揉めていましたよね”
 
 
「……浮浪者」
「え?」
「去年のクリスマスイブ、小瀬という男がコンビニ前で浮浪者と揉めていたらしいんだ。俺がクリニックの地下に閉じ込められる直前、陽子がそれを指摘した途端、小瀬ってやつは顔色を変えていた。あの小瀬って男は名前の通り、小瀬メンタルクリニックの跡取りなんだろう? まあジンさん曰く医師免許は剥奪されてしまったらしいから、現実には難しいんだろうけど。なあ、あんたその男に心当たりないか?」
 
 小春の表情が固まる。
 
「あの子、まだそんなこと」
「やっぱり。小瀬って男を知ってるんだな」
小瀬颯こせはやて。あなたがクリニックの前で会ったのはたぶん彼よ。彼は泉やジンが研究に抗う一方で、逆にゲノムに興味を持ち協力の姿勢を取っているの。彼が揉めていたという浮浪者は、研究対象者として彼が見繕った検体だったんだと思うわ」
「もしかして、その小瀬颯って男が」
「ええ。彼が“ソウ”よ」
 
 
  
 
 
 ジン、ヒナタ、ソウ。
 出揃った謎の人物たちの情報を得て、東伍の頭中はさらに冴える。
 
「なあ。そのソウってやつ、今どこにいるか知ってるのか」
「知らないけれど、どうして?」
「さっきの浮浪者だよ。ソウの居場所が分れば、その浮浪者を特定して調べることができるだろう? 研究対象者は身寄りのない、行方不明の人物。警察に言って調べて貰えば、そんな馬鹿げた研究すぐに辞めさせられるんじゃ」
「それは、どうかしら」
「何がだめなんだ」
「多分もうその人、消えてる」
「だとしても。人が人を殺せば、証拠の一つや二つ出る」
「そうね。遺体が出ればね。でも、遺体が出なければ殺人は成り立たないわ。死んだかどうかを証明する方法がないんだもの」
「なんでそんなことが言い切れる? あんた、まだ何か隠してる事があるんじゃ」
 
 小春が哀しげに目を伏せた、その時。
 遥か後方で、扉の閉まる音が小さく響いた。
 
「誰か来る。きっと恭一さんと凛子よ。急がないと」
「……いや。待とう」
「え?」
「二人に訊きたいこともある。この際、全部話してもらう方がいい。このままここで、二人を待つんだ」
 
 反響する微かな足音。小さいけれど、必死にドタドタと靴底を押し付ける慌ただしさに、小春はひとつ息を呑む。
 
「だめよ。あなたは先へ進みなさい。二人は私が、足止めするから」
 
 そう言って、小春は車椅子から立ち上がった。コホコホと乾いた咳を我慢する様子は、この短時間で小春の身体に急激な変化があった事を知らせている。
 
「あんた、本当に大丈夫か?」
「ママ!」
 
 東伍は視線を小春から、声の聞こえた方向へと移した。足音と共に近づいてくる光線のように鋭い明かりが、走る振動によって上下に揺れている。
 
「水野さん、私のわがままを、聞いて? これから……これから私たち家族が話すことは、この先絶対に、誰にも、言わないで欲しいの」
 
 ママ——そう呼ばれた事で、この場にやって来た第三者が凛子であることを確信した小春は、浅い呼吸を繰り返しながら続ける。
 
「そうしてその後、出来るならば、凛子を助けてあげて欲しい。あの子を納得させて欲しいの。お願い、水野先生」
 
 小春のこの言葉で、東伍はハタと気づく。
 忘れていたのだ。
 つい数日前まで、自分が教師であったことを。
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