【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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「じゃあ、なに? ゲノム研究で行方不明になった人たちは皆、遺体すら残されずに処理されてしまった、ってこと……?」
 
 凛子が言えば、ジンは面目が立たないそぶりで視線を落とす。
 
「そんなことを十年以上続けていて、どうして警察は何も気づかないの? あり得ない」
「それは、そもそも事件にならないからだと思います」
 
 憤りを隠せない凛子に恭一が答えた。
 
「なんで事件にならないの? 身元がない人間だって、誰かは必ず知ってるんだから探すでしょ?」
「探しても見つからないのだから意味がないんです。仮に警察に行方不明の届けを出しても、事件や事故に巻き込まれた形跡のない成人失踪者はデータベースに個人の情報を入力しておしまいです。のちにそれらしい人物が出てきたらデータと照合、警察がしてくれるのはそれくらい……小春さんの時が、そうでしたから」
「だからって! 美聖さんが残したあの資料には、少なくとも百人以上の犠牲者がいたのに!」
「日本での失踪者の数は年間約十万人。更に届出のない行方不明者だって山ほどいるはずです。そのあたりの人選は、綿密に行われたのでしょう。例え黒い噂があろうとも、研究に携わるのが鷹司製薬、そして政治に通ずる夏川昭彦。警察上層部との繋がりは勿論、その上遺体が跡形もなく消えたとなればもう、お手上げです」
 
 恭一の言葉を聞いて、陽子千紗子は愉快そうにニタリと笑う。
 
「話は済んだ? ほら、東伍。こっちにいらっしゃい。薬を飲まなきゃ、もう頭痛が限界なはずよ。一緒に睡眠導入剤でも飲んで、ぐっすり眠るといいわ。起きる頃には何もかも元の通りにしてあげるから。ソウ、準備して」
「……」
「ソウ!」
 
 陽子千紗子が怒鳴ると、小瀬は我に帰ったように慌てて動き出した。その小瀬の耳元で、陽子千紗子は囁く。

「ボサっとしないで。今度こそ成功させなきゃならない。もう猶予がないのよ」
「わ、わかってる」
 
 小瀬はそそくさと北側の通路を走って、その先の扉の向こうへと消えた。
 
「さあ、東伍。こっちよ」
「陽子」
「なあに?」
「お前じゃない。俺は今、こっちの陽子に話してる」
 
 東伍の視線の先には、泉。
 癇に障った陽子千紗子が顔を歪めるも、東伍は構うことなく話を続けた。
 
「陽子。……じゃなくて、小林さん、かな」
「水野くん」
「ごめん俺、まだよく思い出せてなくて」
「いいの。でも、もうじき私も、小春さんみたいに消えてしまう」
 
 陽子の言葉に、東伍は慌てて口を動かす。
 
「消えるって、なんで」
「水野くんキスしたでしょう」
 
 黒子ほくろのある口元が、優しく微笑みを浮かべた。
 
「私や小春さんが鷹司泉さんの中に人格を持てたのはね、水野くん。十年前、あなたが彼女にキスをしたからよ」
 
 東伍はゆるゆる首を振る。
 十年前。そんな昔に、まして当時少女の泉にキスをしたなんて——と、考えを巡らせたところで、東伍は気づいたように泉をみた。
 
「それって、海で溺れた鷹司泉を、助けたこと?」
 
 陽子は頷く。
 
「当時鷹司泉の主人格は、自身の中にエルとサクヤ、二つの人格がいることに耐えきれずに海に身を投げた。ちょうど、彼女が十四歳の頃だとサクヤは言っていたわ。その時、泉を助けるために人工呼吸を行ったことで、分裂を起こすpasmontパスモントゲノムを持った泉さんと、消滅ゲノムpasdelnaパスデルナを出現させていた水野くんとで反応が起きてしまったようなの」
 
 東伍は頭の痛みに加え驚嘆で目を見開いた。
 
「千紗子に連れてこられた斎木の森で、私は身体を千紗子に、そして人格を泉さんに分けるよう手を施された。まあ、当時は泉さんの特異体質を頼りに、私や小春さん、他にもたくさんの人格が実験によって泉さんの身体に組み込まれていたみたいでね。それも、結果はほとんど失敗。私の人格反応も、はじめは泉さんの身体に出現することはなかった。でもそれが、水野くんの人工呼吸をきっかけに反応を起こしてしまったのね。その時泉さんの主人格は一時的に引っ込み、残されたエルとサクヤで主人格を争った結果、ちょうど七年毎にしか出現できないサクヤがその場での主人格を勝ち取った。つまり、あのとき水野くんに地下扉の鍵を託したのは、サクヤだったの」
 
 サクヤ。その名前を聞いて、今まで黙っていたジンが口を開く。
 
「サクヤ……今、サクヤは七年毎にしか人格を出現できない、そう言ったよね? 僕が斎木の森の地下室から逃げ出したのは、十五の頃……今から十七年前だ」
 
 
 
 “二十四?! まさか、いくらなんでも童顔すぎるんじゃ”
 
 
 
 痛む頭の片隅に、泉の年齢に驚く自分の姿が映る。
 十七年前。それは小春が亡くなった年。
 そしてその頃、泉は七歳だった。
 
「少年だと思っていたから気づかなかったけど……僕を連れ出したのは、きみだったのか」
「サクヤは笑っていたわ。ジンは繊細で臆病なのに、時々とんでもないことをやらかすんだ、って」
 
 陽子は小春の最期と同様、青白い顔をして呼吸が荒くなり始めた。
 その様子に、陽子千紗子は笑う。
 
「確かにね。ジンは人を切り刻めるんだもの。とんでもないことをやらかすって意味では、そのサクヤって人格の言い分は正解かもしれないわ。でも、そんなこと今はどうだっていい。今は一刻も早く、水野東伍と鷹司泉を抽出機にかけてデータを吸い上げなければならないの。協力してくれる?」
 
 恭一、凛子、ジン、陽子、そして東伍。
 その場にいる全員から軽蔑の眼差しを受け取った陽子千紗子は、怯むことなく先程の提案を繰り返す。
 
「なんなの、この空気。言っておくけど選択肢はないのよ」
「その提案を断れば、俺はどうなる」
「そうね。このまま薬も飲まず、消滅ゲノムpasdelnaパスデルナが作用し続ければ、あなたの人格は今の陽子と同じく消滅の道を辿るわ。それでもいいの?」
「それはお前にとって好都合なんじゃないのか。そもそも、俺が地下に落ちたタイミングでライフラインを切ったのがお前なら、俺を殺す気だったんだろう」
「え? ああ、さっきあの子が言ってたあれ、信じたの? 言っとくけど私じゃないわよ。私がソウから聞いた話は、東伍にサプリを飲ませることを実験的にやめさせたい、それだけ。別にあなたを地下に閉じ込める必要はなかったし、あんなことになっていたとは知りもしなかったわ」
「え……」
 
 陽子千紗子の言葉に反応を示したのは凛子だった。
 
「で、でも。泉の中に陽子さんの人格があるってわかった時、陽子さんあたしに言ったよね? 水野東伍は、自分の身体を悪用した女に命を狙われている。だから淑和学院に潜入して、水野東伍を監視しながらその女を探りたいって。それって、夏川千紗子のことでしょ? だからあたしは水野っちに泉を接触させて、小瀬メンタルクリニックに誘導した。安全な場所に匿うためだって……それなのに、ライフラインは止まってしまって」
 
 凛子が目をやれば、陽子は腹を括った面持ちで口を開く。
 
「ごめんね水野くん。私なの。小瀬を唆して水道や電気を断たせ、あなたをあの地下に閉じ込めて殺そうとしたのは、私」
 
 じっと、泉を見つめる東伍。
 陽子は呼吸を整え、微笑を浮かべた。
 
「泉さんの身体の中で小林陽子としての自覚が芽生えたのは、さっき言った通りずいぶん昔の話。それから時間をかけて、泉さんの中に既に存在していたエルやサクヤと情報を共有しながら、私は毎日自分の存在を悲観して生きていたわ」
 
 他人の中に宿るだけの自分を、果たして命と呼べるのか。元の身体への未練、自由の効かない人生。“生きている”という表現が正しいのかも分からないまま、小林陽子は泉の中に存在し続けた。
 
「泉さんの主人格はこちらに干渉できる術を持っていなくてね。泉さんが眠ったタイミングを見計らって、私やサクヤは時々身体を動かした。サクヤは遊びのつもりだったのでしょうけど、私は自分がちゃんと存在していることを確認したかったから」
 
 そんなある日、サクヤは鷹司家の本邸でとある箱を見つける。それは例の、鍵の入った箱だった。
 
「サクヤは出来心でその箱にメモを残し、枕元に置いて眠りについたの。すると起きて箱に気づいた泉さんは、その鍵の詳細を探るようになった。今から三年前のことよ」
 
 小春の人格が泉の中に現れたのも、ちょうどその頃だった。
 ゲノム研究の詳細を泉が知るたび、陽子は自分の置かれた状況とその原因を理解する。
 そして同時に、怒りの感情が湧いた。
 
「私の身体の中身が千紗子だって、すぐに気づいた。喋り方や癖、なにより人を見下すようなあの笑顔。小さい頃から見続けてきたんだもの、確信するのにそう時間はかからなかった。悔しかった。奪われた人生はもちろん、千紗子の隣で笑うのが、水野くんであったことが一番許せなかった」
 
 陽子は小春からの情報を頼りに、泉の検診を見計らって何度かラボに潜り込んだ。
 だが当然、陽子にどうにかできる装置などあるはずもなく、手詰まりになった陽子は憤りを抱えたまま殻に閉じこもる。
 そうしてそのうち、泉に成り変わって出現する人格は、小春になることが多くなっていったのだ。
 
「私と小春さんは同じだった。私は千紗子に人生を奪われ、小春さんは千紗子の母に人生を奪われて……だから、小春さんが凛子さんや恭一さんと過ごす穏やかな時間を眺めているうちに、私はだんだんと自分の気持ちが冷めていくのを感じていた。でもね。私にもとうとう、チャンスが来るの」
 
 それは半年前。ラボに連れてこられ、診察台に横になった泉が隣を見れば、そこには数多の管を全身に繋がれた自分自身——つまり、陽子の身体をした千紗子が横になっていたのだ。
 
「部屋には二人きり。睡眠剤を導入され、主人格の泉は眠ってしまったけど、私は起きることができた。私の頭や腕にも管は沢山ついていて、その管が繋がれた画面には、見たこともない文字が羅列していたわ。意味なんてわからなかった。でも私は目一杯装置をいじって壊すつもりで操作をした。どうにでもなれと思った。そうしたことでたとえ私の人格が消え去ることになっても構わない。最悪、千紗子が死んでくれたら運が良い、そんなふうに考えた」
 
 そうして陽子が次に意識を取り戻した時。陽子の目の前に広がっていた景色は、予想だにしないものだった。
 
「元に、戻れていたの」
 
 鏡に映る自分の顔に手を伸ばす陽子。その顔貌を隅々確認するうちに涙が頬を伝い、その感覚に驚いた陽子がふと涙を拭えば、指にはしっかりと涙の滴が付着していた。
 
「奇跡が起きた。何度触っても、瞬きをしても、その感覚は私自身のもの。歩くことも、ものを掴む感触も確認した私は、隣で眠る泉さんを置いてラボを飛びだしたわ」
 
 駆けつけたい場所は一つだった。
 遠くから見るしかなかった彼の、
 好いている人が今も自分ならば、
 触れて話して、見つめて欲しい。
 夢にまで見た、好きな人の元へ。
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