【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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『あれ。どうしたの? 随分早いね。仕事は?』
 
 チャイムに気づき、玄関先に出てきた東伍は、とぼけた表情でそう言った。
 
『みずっ……と、東伍。ごめん、連絡しないで来ちゃって』
『ああ、そっか。陽子うちにスマホ忘れて行ったんだっけね』
 
 東伍が廊下を抜けて部屋の中に入っていくと、陽子は慌てて靴を脱ぎ捨てその後を追う。
 だがふと、洗面所を横目に思い立ち、トイレを借りるよう伝えてから鏡の前に立った。
 久しぶりの自分を噛み締めながら、髪を撫でる。深呼吸を何度かして、目についたメイクポーチからオレンジ色のリップを取り出すと、塗ってみた。
 ぷっくり艶めく唇。慣れ親しんだはずの顔がずいぶん綺麗になったと、陽子は浮き足立つ想いを懸命に抑えてリビングへと向かった。
 
『はい、これスマホ』
『あ、ありがとう』
 
 スマホを受け取った陽子は、ソファーの右端に腰を下ろした。
 
『それで、今日はどうしたの? 約束は明日だったよね?』
『えっと……今日、クリスマスだなって!』
『ああ、まだイブだけど』
『ご飯、つくろうかなって思ってさ』
『ご飯? へえ、珍しい。陽子、料理苦手なのに』
『たまにはいいじゃん!』
 
 突然大声を出す陽子に、東伍は一瞬たじろいだ後、くすりと笑った。
 
『なんか、いつもと雰囲気違うね。まるで子供みたいだ』
『そんなことない……わよ。ほら、買い物行こう?』
 
 陽子は東伍の腕を掴む。その逞しい感触と温度に、陽子の頬はすぐに高揚を見せた。
 
 東伍を連れ出し、駅前のスーパに出向いた陽子。東伍がカートを押し、隣に並んで肉や野菜を同じカゴに入れていくことには、なんとも言えない楽しさを覚えていた。
 
『こんな肉買って、何作るの?』
『えっとね、ビーフシチュー』
『ビーフシチュー、好きだっけ?』
 
 東伍の返しに、陽子の足が止まる。
 
『私、ずっと好きだよ。ビーフシチュー』
『そうだったんだ。あ、でもほら、ビーフストロガノフ? ああいうのは食べに行ったことがあったよね。赤ワインにもよく合うし。似たようなものか』
『ビーフ、ストロガノフ……』
 
 陽子は悲しげに眉を下げたが、東伍はその表情には気づかなかった。
 
 会計を済ませて東伍の部屋に帰った陽子は、見知らぬエプロンを身につけて、使ったこともない鍋をかき回す。
 ぐつぐつ煮える玉ねぎや人参、じゃがいもを見つめながら市販のルーに目を移し、目の前の料理が確実にビーフストロガノフでは無いことを思いながらも、できるだけ気持ちを落とさず会話をすることに努めた。
 
『陽子。ちょっといいかな』
 
 東伍は改まって、陽子に向き直す。
 
『本当は明日レストランを予約していて、その時に言おうと思っていたんだけど、せっかくこうして陽子がご飯を作ってくれたから今日言いたくなって』
『うん。なに?』
『俺たち、結婚しないか』
『え……』
『俺と結婚して欲しい』
 
 東伍のプロポーズに、鍋をかき回す陽子の手が止まった。
 気持ちが複雑で、目が泳ぐ。東伍とこうして会話することを、笑い合うことを、ましてやプロポーズなんて、夢にまで見た出来事のはずなのに。
 
 東伍が呼ぶ陽子は自分ではない。
 東伍が目に映している恋人は自分ではない。
 
 
 
 ビーフシチューを好きな陽子を知らない東伍は、陽子の好いた水野東伍とは、別人だ。
 
 
 
 スマホの画面に視線を落とすと、そこには頬を寄せ合い笑う、陽子と東伍。
 
『……生クリーム忘れた』
『え?』
『買ってくるね』
 
 東伍が引き止める声を背に、陽子は東伍のマンションを飛び出した。悔しかった。せっかく身体を取り戻せても、千紗子には敵わない現実に、陽子は腹を立てていた。
 陽子は走りながら考える。
 この先東伍と過ごして、この溝が埋まることはあるのだろうか。あのなんてことないビーフシチューも、生クリームをかければそれっぽく見えるのだろうか——
 
 陽子は震える手でスマホを操作すると、東伍にメッセージを打つ。そうして最後に送信ボタンを押した時、締め付けられるような強い頭痛が陽子を襲った。
 視界はぼやけ、だんだんと光を失っていく。
 
 
 “残念だけど陽子、それは無理よ”
 
 
 
 
 
 
「その声を最後に私の意識は途切れ、目を覚ますと、私の人格は泉さんの身体に戻っていた。それから自分の身体に人格が目覚めたことは、一度もない」
「あの日、俺のプロポーズを受けたのはきみだったのか」
 
 陽子は悲しげに俯いた。
 
「半年後、私が泉さんの身体を使って水野くんの元へと姿を現したのは、復讐よ。小春さんへの凛子さんの想いを利用して騙し、小瀬メンタルクリニックへと誘導して、水野くんを地下に閉じ込めた。あのまま千紗子のものになるくらいならいっそ……居なくなってくれたら、って」
 
 陽子は膝をつく。
 
「ごめんね、水野くん。酷い目に合わせて、私、最低だよね」
「小林……」
「でも本当、生きていてくれてよかった。でっちあげた話だったけど、嘘の私だったけど、こうしてまた私として話ができて、嬉し、かったよ」
 
 うずくまり、荒い呼吸を繰り返す陽子の背中に、東伍がそっと触れた。
 
「ごめんね、水野くん。また水野くんと一緒に、ファミレス、行きたかったな」
 
 泉は意識を失うと、小春の時と同様全身を脱力して床に伏せた。その身体を東伍が仰向けにして正せば、陽子千紗子は目を細めて首を傾げる。
 
「あーあ、やっぱ定着しないで消えちゃうの? 東伍の持つその消滅ゲノム、恐ろしいわね。でもこれでわかったでしょう? 私はあなたを殺そうとなんてしていない。むしろ、今消えて行ったあの子の方が怪物だったじゃない。まったく、私の愛した陽子はどこに行ってしまったのかしら……あ、陽子は私だったっけ」
 
 クツクツ笑う陽子千紗子を見て、東伍はつられるように顔を綻ばせた。
 
「そうだな。お前は陽子なんだろうな。鷹司慶三が始めたゲノム研究のせいで、たくさんの人の人生が狂わされた。ならばせめてその成果は、認めてやらないと報われないよな」
「あら。それはいい考え方だと思うわ」
「お前、なにをそんなに焦っているんだ」
「焦る?」
「俺や鷹司泉をこのラボに連れて来たかったのには理由があるよな? さっきの小林陽子の話、今のその身体の中には、夏川千紗子と小林陽子の人格が混在している。俺のゲノム反応で、鷹司泉の主人格ではない小林陽子の人格が消滅したのなら……今お前に俺がキスをした場合、夏川千紗子と小林陽子、どちらの人格がその身体で生き残ることができると思う?」
 
 東伍の質問に答える代わりに、陽子千紗子は鼻頭に皺を寄せて眼力を強める。
 
「人格を移したり消滅させたり、そんなことはもううんざりだ。だが今回のことを丸く収めるには、この技術やゲノムの存在は必要不可欠なんだろう」
「なにが言いたいの?」
「協力はする。でもそれは、その小林陽子の身体の中から夏川千紗子の人格が消滅してからだ」
「っっ!!」
「どうした、顔色が悪いぞ。もしかしてもう時間の問題か?」
 
 陽子千紗子の顔面から、血の気が失せていく。
 東伍の言葉の意味を理解した凛子と恭一、それからジンは、静観の意を示した。
 
 
 
 
「あ! やっと会えました、水野先生!」
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