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【第2部】愈々
渇望
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2日後、午前11時半。
今日はよく晴れていて、気温も心地よく、水色に広がる空にゆっくりと雲が動いていた。
そんな爽やかな昼前。車の走行音がわりかし遠くに聞こえる路地裏で、俺は喉に溜まった唾を無理矢理に飲み込むと、握った扉の取っ手を勢いよく引いた。
「いらっしゃいませ。おひとりで?」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
俺は促されるままにカウンターの椅子へと腰を下ろす。
店員はひとり。サングラスに、鼻の下には細い髭。白いシャツのボタンをきっちり上まで留めて、黒い蝶ネクタイ、紺色のベストを身につけているその男が、カウンター内で背中を向けていることを確認する。それから俺は、遠慮がちに店内を見回した。
雑居ビルの地下にある喫茶店。格子のガラス戸を開ければ鈴がなり、こぢんまりとした空間にテーブル席が2つ。カウンターに4つの丸椅子が並べば、それで手一杯の広さ。
照明や、奥に見えるアンティークの振り子時計。赤茶色の革のソファ。ガラステーブル。
何度も何度も読み返した、例の本に出てくる喫茶店そのものの店内に、俺は妙な胸のざわつきを覚えた。
それは憧れのアイドルを肉眼で確認できたような、はたまた話題の映えスポットに群がる西洋かぶれを俯瞰で見ているような。
渦中に居るようで、どこか孤独——
そんなことを考えていると、背中を向いていたはずの店員の顔が真正面に迫っていた。
「ご注文は?」
「えっと、珈琲を。それから、あの……訊きたいことがあるんですけど」
「なんでしょう」
男の声は無機質だが、かと言って冷たいというわけでもない。低く角のないその言葉端に少しだけ安心した俺は、次の言葉を口に出した。
「この喫茶店に、芹さんという男性はいらっしゃいますか? それからこの本の著者である権堂薫というライターが、よくこのお店に通っていると伺ったのですが」
鞄から取り出した本を片手に、できうる限りの丁寧な物腰で尋ねた。
少しの静寂。店内の振り子時計の規則正しい歩みが鮮明になる中、カウンター越しの男は俺の顔を見つめると、俺が踏もうとしていた段取りを最も簡単にすっ飛ばしてきた。
「私、井無田と申します」
「あ……」
「その本の中身には、すでに目を通していらっしゃるので?」
「は、はい! もう何度も読みました! うまく説明できないんですけど、何故だか目が離せなくて。俺にはどうしても、この本の中身がフィクションだとは思えなかったんです。主人公の野中海里、謎の男である芹。館に集まった面々も、なにもかもが架空な気がしなくて……それで、調べました。そしたらやっぱり居たんです! 存在したんですよ、野中海里という男は!」
喋れば喋るほど、俺の興奮は加速する。
「恐喝に殺人未遂、警察が野中の行方を追っていたのが数年前。ですが結局所在は掴めず、今では完全な未解決事件として、警視庁の廃れた倉庫にその資料は眠ってしまっています。でも、この事件はそんな単純なものじゃない。現にこうして、本の中に登場する喫茶店がここにあるのですから」
どうだ! と言いたげな俺に対して。井無田と名乗った店員は、珈琲の入ったカップとソーサーをそっと俺の前に置いた。
「なるほど。それで?」
「それで、って……」
「それであなたは、いったい何を知りたいのでしょう。野中海里の行方? 本に出てきた他の契約者の情報? それとも——」
途端に空気を重くする井無田。さっきまで偏りのない振る舞いをしていた紳士が、スッと背筋を伸ばして胸を張る。
「あなたも芹と契約をなさりたい、とか」
思わぬ提案だった、と言えば嘘になるだろうか。こうなることは、2日前にファミリーレストランの従業員である七海に情報をもらった時から予測はしていた。
契約。それは自分の人生を対価に大金をもらえる制度。俺は今、自分が求めていた現実を目の前に、決断を迫られているのだ。
理性で導き出す答えは『いいえ』である。
俺はあくまでも勤めている出版社のいち社員として、職務をこなしているだけ。契約なんて、そんな不可思議な現象に現を抜かしている場合ではないし、これから自分のすべきことは取材と事実確認、それだけだ。
が、しかし。
「契約、出来るんですか?」
俺は井無田の提案に前のめりだった。というのも実際問題、この案件を取り扱いたいと上司に進言した時の表情は曇っていた。当然だ。信用に足る情報などひとつもない。まして、どこぞの無名ライターが執筆したフィクションと謳うファンタジーに、そもそも需要などないのだ。
権堂薫著『万華鏡の館』は、自費出版で200冊。そのうち売れたのは、たったの54冊だけなのだから。
今日はよく晴れていて、気温も心地よく、水色に広がる空にゆっくりと雲が動いていた。
そんな爽やかな昼前。車の走行音がわりかし遠くに聞こえる路地裏で、俺は喉に溜まった唾を無理矢理に飲み込むと、握った扉の取っ手を勢いよく引いた。
「いらっしゃいませ。おひとりで?」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
俺は促されるままにカウンターの椅子へと腰を下ろす。
店員はひとり。サングラスに、鼻の下には細い髭。白いシャツのボタンをきっちり上まで留めて、黒い蝶ネクタイ、紺色のベストを身につけているその男が、カウンター内で背中を向けていることを確認する。それから俺は、遠慮がちに店内を見回した。
雑居ビルの地下にある喫茶店。格子のガラス戸を開ければ鈴がなり、こぢんまりとした空間にテーブル席が2つ。カウンターに4つの丸椅子が並べば、それで手一杯の広さ。
照明や、奥に見えるアンティークの振り子時計。赤茶色の革のソファ。ガラステーブル。
何度も何度も読み返した、例の本に出てくる喫茶店そのものの店内に、俺は妙な胸のざわつきを覚えた。
それは憧れのアイドルを肉眼で確認できたような、はたまた話題の映えスポットに群がる西洋かぶれを俯瞰で見ているような。
渦中に居るようで、どこか孤独——
そんなことを考えていると、背中を向いていたはずの店員の顔が真正面に迫っていた。
「ご注文は?」
「えっと、珈琲を。それから、あの……訊きたいことがあるんですけど」
「なんでしょう」
男の声は無機質だが、かと言って冷たいというわけでもない。低く角のないその言葉端に少しだけ安心した俺は、次の言葉を口に出した。
「この喫茶店に、芹さんという男性はいらっしゃいますか? それからこの本の著者である権堂薫というライターが、よくこのお店に通っていると伺ったのですが」
鞄から取り出した本を片手に、できうる限りの丁寧な物腰で尋ねた。
少しの静寂。店内の振り子時計の規則正しい歩みが鮮明になる中、カウンター越しの男は俺の顔を見つめると、俺が踏もうとしていた段取りを最も簡単にすっ飛ばしてきた。
「私、井無田と申します」
「あ……」
「その本の中身には、すでに目を通していらっしゃるので?」
「は、はい! もう何度も読みました! うまく説明できないんですけど、何故だか目が離せなくて。俺にはどうしても、この本の中身がフィクションだとは思えなかったんです。主人公の野中海里、謎の男である芹。館に集まった面々も、なにもかもが架空な気がしなくて……それで、調べました。そしたらやっぱり居たんです! 存在したんですよ、野中海里という男は!」
喋れば喋るほど、俺の興奮は加速する。
「恐喝に殺人未遂、警察が野中の行方を追っていたのが数年前。ですが結局所在は掴めず、今では完全な未解決事件として、警視庁の廃れた倉庫にその資料は眠ってしまっています。でも、この事件はそんな単純なものじゃない。現にこうして、本の中に登場する喫茶店がここにあるのですから」
どうだ! と言いたげな俺に対して。井無田と名乗った店員は、珈琲の入ったカップとソーサーをそっと俺の前に置いた。
「なるほど。それで?」
「それで、って……」
「それであなたは、いったい何を知りたいのでしょう。野中海里の行方? 本に出てきた他の契約者の情報? それとも——」
途端に空気を重くする井無田。さっきまで偏りのない振る舞いをしていた紳士が、スッと背筋を伸ばして胸を張る。
「あなたも芹と契約をなさりたい、とか」
思わぬ提案だった、と言えば嘘になるだろうか。こうなることは、2日前にファミリーレストランの従業員である七海に情報をもらった時から予測はしていた。
契約。それは自分の人生を対価に大金をもらえる制度。俺は今、自分が求めていた現実を目の前に、決断を迫られているのだ。
理性で導き出す答えは『いいえ』である。
俺はあくまでも勤めている出版社のいち社員として、職務をこなしているだけ。契約なんて、そんな不可思議な現象に現を抜かしている場合ではないし、これから自分のすべきことは取材と事実確認、それだけだ。
が、しかし。
「契約、出来るんですか?」
俺は井無田の提案に前のめりだった。というのも実際問題、この案件を取り扱いたいと上司に進言した時の表情は曇っていた。当然だ。信用に足る情報などひとつもない。まして、どこぞの無名ライターが執筆したフィクションと謳うファンタジーに、そもそも需要などないのだ。
権堂薫著『万華鏡の館』は、自費出版で200冊。そのうち売れたのは、たったの54冊だけなのだから。
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