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CASE:3

初恋

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「きゃぁ」
 
 カップルの女の方が小さく悲鳴をあげると、男の腕を引っ張って途端に走り出す。
 
 その様子を、マリアは垂れ下がる前髪の隙間からまんまるな瞳を剥いて睨みつけていた。
 
 離れていく背中。時々ちらちらと振り返るその顔を、マリアは脳内で記憶する。
 
 
「今度会ったら、名前調べてね」
 
 
 と、目を離している束の間に。店内から目当ての彼の姿が消えていた。慌ててスマートフォンの時計を確認すると、時刻は21時02分。
 
 マリアはひとつ舌を打つと立ち上がり、早歩きでとある場所へと向かう。そうして10分も経たないうちに、再び彼の姿を見つけた。
 
 
 
 
 
 1年前の今頃、マリアは人生に失望していた。
 
 高校に入学して数週間。マリアは誰ひとりとも会話を交わさず、教室の片隅でひっそりと時間を潰す日々を過ごしていた。
 
 部活は少しばかりかじったことのある絵画の経験から、惰性で美術部へ。
 
 部員数3人。幽霊部と化した美術部に、顧問はいない。部室も廃れていて、入学してから他の部員と顔を合わせたこともなかった。
 
 マリアは陰気だった。伸ばしっぱなしの黒髪は焼き海苔のようにパサパサで、ところどころ白髪が混じる。ニキビの点々とする肌を隠すために、顔周りの露出も少ない。
 
 理由は容姿の他にも色々あったのだろうが、マリアは女子の群れには入れなかった。いや、入りたくもない、そう思っていた。ひとつの机を囲みながら、自分を着飾りわざとらしい高笑いを上げる集団なんて大嫌いだ。
 
 その思考が、口から知らぬ間にこぼれ始める。マリアはいつの日からか、クラスメイトの名前を呟いては悪態をつくようになっていた。それが、マリアと他者との溝を余計に深いものにする。
 
 
 そんなマリアにとって。早船暁人はやふねあきひとは、人生最大の救世主であった。
 
 
『ねえ、10円ある? 飲み物買うのに足りなくて』
 
 校舎2階、渡り廊下に設置された自動販売機前。両ポケットを探り、あたふたする背中を見ながら順番待ちをしていたマリアに、彼は振り返ってそう言った。
 
 マリアはつい、財布から10円玉を取り出す。
 
『ごめんね。必ず返すから。クラスどこ? っていうか、何年生? 名前は?』
 
 マリアの垂れ伸びる前髪を覗き込むようにして、暁人はニカっと爽やかに笑った。突然の会話に言葉も出ないまま、今度はマリアがあたふたする。
 
『……1年』
『え?』
『1年E組。江畑マリア』
 
 そう小声で名乗ったマリアに、暁人は嬉しそうに目を見開いた。
 
『1年って、同いじゃん。E組かあ。俺よく顔出すけどな。席どの辺?』
 
 暁人からの質問にいくつか答えているうちに、昼休み終了のチャイムが響き渡る。
 
『あ、悪い! ちゃんとお金返しにいくから! またね、マリア!』
 
 
 マリア——
 
 
 走り去る暁人の背中を見つめながら。マリアは自分の身体の芯の、奥深く固まった冷たい何かに、生温かい風が突き抜けるのを感じた。
 
 惚れてしまったのだ。彼の全てに、どうしようもなく。
 
 それから約束通り、暁人はお金を返しにわざわざマリアの教室へとやってきた。その見慣れぬやり取りに教室内はざわつき、マリアに10円を手渡して去っていく暁人には人が群がる。
 
 それからもすれ違う度に、暁人は小さいお金をマリアに借りたり、教科書を借りたり。半年も経つ頃には、暁人は自分の入っているフォークソング部と掛け持ちで、美術部にも入部届を出した。
 
 部室としては機能していない美術室。石膏や油絵具のにおいに満たされたその室内で、マリアは暁人とふたり、たわいもない会話を交わしながらキャンバスに向かっている。
 
『マリアさ、前髪あげたら? 髪もナチュラルな黒に染めてさ』
『い、今のままじゃ変かな』
『そうじゃないけど。その方が似合うのになあって』
 
 その週末、マリアは生まれて初めて美容室に行った。プツプツと枝毛の跳ねる毛先を切り揃え、少しブラウンの混じる黒色に髪を染めて。トリートメントまで施した。
 
 そして月曜日。暁人に会える放課後の美術室での時間を妄想しながら、マリアは慣れない手つきで髪をひっつめ、ゴムで縛る。
 
 登校してからずっと、マリアは周りの視線にも気づかないほどに心が浮ついていた。
 
 だがマリアはこの日、暁人には会えない。
 
 『江畑さん。ちょっといいかな』
 
 そう声をかけられて。女子数人に呼び出された先で、マリアは衝撃な事実を耳にする。
 
 
『暁人、彼女いるから。うろちょろされると困るんだよね』
 
 
 そしてこの日以降、マリアは学校へ行くことをやめたのだ。
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