6 / 82
銀の瞳の辺境伯は、捨てられた薬師令嬢を離さない
第一章:偽りの終焉
しおりを挟む
きらびやかなシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に乱反射する。王宮の夜会は、着飾った貴族たちの喧噪と、甘美な音楽、そして芳しい花の香りで満たされていた。
その喧噪の中心で、わたくし、セレスティン・フォン・クラインフェルターは、一人立ち尽くしていた。目の前には、婚約者であるジュリアン・ド・ヴァロワ公爵子息。その隣には、彼に寄り添うように立つ、燃えるような赤いドレスをまとったイザベラ・ロッセリーニ男爵令嬢がいた。
「セレスティン、すまないが、君との婚約は破棄させてもらう」
ジュリアンの声は、氷のように冷たく、無慈悲に響き渡った。周囲のざわめきが、ぴたりと止む。好奇と侮蔑と、そしてわずかな同情の視線が、ナイフのように突き刺さる。
「君のような地味で退屈な女には、もううんざりなんだ。薬草いじりばかりしている陰気な女より、このイザベラのような華やかで情熱的な女性こそ、俺にふさわしい。そうだろ?」
彼は勝ち誇ったようにイザベラの腰を抱き寄せ、その唇にこれ見よがしにキスを落とした。イザベラは、恍惚とした表情でジュリアンを見上げ、そして勝利者の笑みをわたくしに向けた。
「そういうことですわ、クラインフェルター嬢。ジュリアン様が本当に愛しているのは、わたくしですの。あなた様は、ご自分の立場をわきまえるべきでしたわね」
ああ、やはり。
心のどこかで、ずっと前から分かっていたことだった。ジュリアンがわたくしを愛していないことも、彼が求めるものがクラインフェルター伯爵家の財産と後ろ盾であることも。彼の瞳が、わたくしを通り越して、その後ろにあるものしか見ていないことにも、気づいていた。
それでも、父が決めた婚約だったから。家のためになるのならと、自分の心を偽り続けてきた。彼が時折見せる甘い言葉や笑顔に、ほんの少しだけ期待してしまっていた愚かな自分もいた。
けれど、もう終わり。
不思議と、涙は出なかった。胸を締め付ける痛みよりも、むしろ、重い枷から解き放たれるような、奇妙な解放感が全身を包んでいた。
わたくしはゆっくりと背筋を伸ばし、震えそうになる声を抑え、できる限り穏やかに、そしてはっきりと告げた。
「ヴァロワ公爵子息。あなたのそのお言葉、確かに承りました。わたくしとの婚約破棄、謹んでお受けいたします」
予想外の反応だったのだろう。ジュリアンは一瞬、虚を突かれたような顔をした。わたくしが泣き喚き、彼にすがりつくとでも思っていたのかもしれない。
「あなた様が『真実の愛』を見つけられたのでしたら、わたくしなどがとやかく言う資格はございません。どうぞ、その愛を存分に育んでくださいませ。イザベラ嬢、あなたも。公爵子息様の隣は、さぞかし居心地が良いことでしょう」
嫌味のつもりはなかった。ただ、事実を述べたまで。けれど、それはどんな罵倒よりも、彼らのプライドを傷つけたようだった。ジュリアンの顔が怒りで赤く染まる。
「なっ……!なんだその態度は!捨てられる女のくせに、偉そうに!」
「偉そうになどしておりませんわ。ただ、これ以上、あなた方のお幸せな時間を邪魔するわけにはまいりませんので。これにて失礼いたします」
わたくしは、集まる視線から逃れるように、静かにカーテシーをしてみせると、毅然と背を向けた。一歩、また一歩と、出口へ向かう足取りは、不思議なほど軽かった。
もう、彼の顔色を窺う必要はない。
もう、好きでもないドレスを着て、興味もない会話に相槌を打つ必要もない。
これからは、自分のためだけに時間を使える。大好きな薬草の研究に、もっと没頭できる。
夜会の喧騒を背に、冷たい夜風が頬を撫でる。
セレスティン・フォン・クラインフェルターの、偽りに満ちた日々の終焉。
そして、本当の人生の始まりだった。
その喧噪の中心で、わたくし、セレスティン・フォン・クラインフェルターは、一人立ち尽くしていた。目の前には、婚約者であるジュリアン・ド・ヴァロワ公爵子息。その隣には、彼に寄り添うように立つ、燃えるような赤いドレスをまとったイザベラ・ロッセリーニ男爵令嬢がいた。
「セレスティン、すまないが、君との婚約は破棄させてもらう」
ジュリアンの声は、氷のように冷たく、無慈悲に響き渡った。周囲のざわめきが、ぴたりと止む。好奇と侮蔑と、そしてわずかな同情の視線が、ナイフのように突き刺さる。
「君のような地味で退屈な女には、もううんざりなんだ。薬草いじりばかりしている陰気な女より、このイザベラのような華やかで情熱的な女性こそ、俺にふさわしい。そうだろ?」
彼は勝ち誇ったようにイザベラの腰を抱き寄せ、その唇にこれ見よがしにキスを落とした。イザベラは、恍惚とした表情でジュリアンを見上げ、そして勝利者の笑みをわたくしに向けた。
「そういうことですわ、クラインフェルター嬢。ジュリアン様が本当に愛しているのは、わたくしですの。あなた様は、ご自分の立場をわきまえるべきでしたわね」
ああ、やはり。
心のどこかで、ずっと前から分かっていたことだった。ジュリアンがわたくしを愛していないことも、彼が求めるものがクラインフェルター伯爵家の財産と後ろ盾であることも。彼の瞳が、わたくしを通り越して、その後ろにあるものしか見ていないことにも、気づいていた。
それでも、父が決めた婚約だったから。家のためになるのならと、自分の心を偽り続けてきた。彼が時折見せる甘い言葉や笑顔に、ほんの少しだけ期待してしまっていた愚かな自分もいた。
けれど、もう終わり。
不思議と、涙は出なかった。胸を締め付ける痛みよりも、むしろ、重い枷から解き放たれるような、奇妙な解放感が全身を包んでいた。
わたくしはゆっくりと背筋を伸ばし、震えそうになる声を抑え、できる限り穏やかに、そしてはっきりと告げた。
「ヴァロワ公爵子息。あなたのそのお言葉、確かに承りました。わたくしとの婚約破棄、謹んでお受けいたします」
予想外の反応だったのだろう。ジュリアンは一瞬、虚を突かれたような顔をした。わたくしが泣き喚き、彼にすがりつくとでも思っていたのかもしれない。
「あなた様が『真実の愛』を見つけられたのでしたら、わたくしなどがとやかく言う資格はございません。どうぞ、その愛を存分に育んでくださいませ。イザベラ嬢、あなたも。公爵子息様の隣は、さぞかし居心地が良いことでしょう」
嫌味のつもりはなかった。ただ、事実を述べたまで。けれど、それはどんな罵倒よりも、彼らのプライドを傷つけたようだった。ジュリアンの顔が怒りで赤く染まる。
「なっ……!なんだその態度は!捨てられる女のくせに、偉そうに!」
「偉そうになどしておりませんわ。ただ、これ以上、あなた方のお幸せな時間を邪魔するわけにはまいりませんので。これにて失礼いたします」
わたくしは、集まる視線から逃れるように、静かにカーテシーをしてみせると、毅然と背を向けた。一歩、また一歩と、出口へ向かう足取りは、不思議なほど軽かった。
もう、彼の顔色を窺う必要はない。
もう、好きでもないドレスを着て、興味もない会話に相槌を打つ必要もない。
これからは、自分のためだけに時間を使える。大好きな薬草の研究に、もっと没頭できる。
夜会の喧騒を背に、冷たい夜風が頬を撫でる。
セレスティン・フォン・クラインフェルターの、偽りに満ちた日々の終焉。
そして、本当の人生の始まりだった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
寵愛の花嫁は毒を愛でる~いじわる義母の陰謀を華麗にスルーして、最愛の公爵様と幸せになります~
紅葉山参
恋愛
アエナは貧しい子爵家から、国の英雄と名高いルーカス公爵の元へと嫁いだ。彼との政略結婚は、彼の底なしの優しさと、情熱的な寵愛によって、アエナにとってかけがえのない幸福となった。しかし、その幸福を妬み、毎日のように粘着質ないじめを繰り返す者が一人、それは夫の継母であるユーカ夫人である。
「たかが子爵の娘が、公爵家の奥様面など」 ユーカ様はそう言って、私に次から次へと理不尽な嫌がらせを仕掛けてくる。大切な食器を隠したり、ルーカス様に嘘の告げ口をしたり、社交界で恥をかかせようとしたり。
だが、私は決して挫けない。愛する公爵様との穏やかな日々を守るため、そして何より、彼が大切な家族と信じているユーカ様を悲しませないためにも、私はこの毒を静かに受け流すことに決めたのだ。
誰も気づかないほど巧妙に、いじめを優雅にスルーするアエナ。公爵であるあなたに心配をかけまいと、彼女は今日も微笑みを絶やさない。しかし、毒は徐々に、確実に、その濃度を増していく。ついに義母は、アエナの命に関わるような、取り返しのつかない大罪に手を染めてしまう。
愛と策略、そして運命の結末。この溺愛系ヒロインが、華麗なるスルー術で、最愛の公爵様との未来を掴み取る、痛快でロマンティックな物語の幕開けです。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる