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銀の瞳の辺境伯は、捨てられた薬師令嬢を離さない
第二章:森の邂逅と銀の瞳
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婚約破棄の騒動から数週間。わたくしは自室に籠もり、薬草に関する書物を読みふける日々を送っていた。社交界からは完全に距離を置き、父もそんなわたくしを無理に外へ連れ出そうとはしなかった。
「セレスティン。少しは外の空気を吸ってきなさい。お前の好きな森へでも行って、薬草を探してきたらどうだ?」
父は、わたくしの気持ちを誰よりも理解してくれていた。心配そうな父の言葉に甘え、わたくしは久しぶりに、領地にある広大な森へと足を運ぶことにした。
澄んだ空気、木々のざわめき、土の匂い。五感が研ぎ澄まされ、ささくれ立っていた心が穏やかになっていくのを感じる。籠を片手に、注意深く足元に目を凝らしながら、珍しい薬草を探して森の奥深くへと進んでいった。
その時だった。
微かに聞こえる、獣の唸り声と、金属がぶつかり合う音。
何事かと音のする方へ近づくと、開けた場所で、信じられない光景が繰り広げられていた。
体長3メートルはあろうかという、巨大な黒狼。その鋭い牙が、一人の男性に襲いかかろうとしていた。男性は、長い剣を構え、黒狼と対峙している。黒いマントを翻し、黒狼の攻撃を俊敏にかわす姿は、まるで闇に舞う死神のようだった。
そして、次の瞬間。男性の剣が閃光を放ち、黒狼の首筋を深々と切り裂いた。巨体が地響きを立てて倒れるのと、男性がその場に崩れ落ちたのは、ほぼ同時だった。
「……っ!」
わたくしは息を呑み、思わず駆け寄っていた。
男性は、黒狼の爪によって左腕と脇腹に深い傷を負っており、そこから流れる血が、彼の黒い衣服をさらに濃く染めていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……来るな」
顔を上げた男性の瞳を見て、わたくしは息を呑んだ。
夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、月光を閉じ込めたかのような、冷たい銀の瞳。その瞳は、厳しい警戒の色を浮かべて、わたくしを射抜いていた。
その顔立ちに見覚えがあった。社交界の噂でしか知らない、あの人だ。
『冷酷非情の辺境伯』
『戦場では血も涙もない鬼神』
カイエン・ヴェインベルク。
王国の北の国境を守る、ヴェインベルク辺境伯その人だった。なぜ、こんな南の地の、クラインフェルター領の森にいるのか。疑問が頭をよぎるが、今はそれどころではない。彼の傷は、一刻も早く手当をしなければ命に関わるほど深い。
「来るなと言っている。……俺に構うな」
「そのようなお怪我で、構わないわけにはまいりません!わたくし、薬師の心得がございます。どうか、手当をさせてください」
わたくしは彼の制止を振り切り、持っていた籠から手際よく薬草を取り出した。止血効果のあるゲラニウムの葉をすり潰し、傷口に当てていく。痛みで顔をしかめる彼を無視して、清潔な布で傷を固く縛った。
「……お前は、誰だ」
「セレスティン・フォン・クラインフェルターと申します」
「クラインフェルター……ああ、あの公爵子息に捨てられたという……」
彼の口から発せられた言葉に、胸がちくりと痛んだ。けれど、それは事実だ。
「ええ、そのセレスティンでございます。辺境伯様こそ、なぜこのような場所に?」
「……魔獣討伐の帰りだ。はぐれた個体が、ここまで流れてきていたらしい」
彼は苦々しげに答えながら、わたくしの手当を見つめていた。その銀の瞳から、少しずつ警戒の色が薄れていくのが分かった。
「……器用なものだな」
「幼い頃から、薬草に触れるのが好きでしたので」
手当を終えると、わたくしは水筒の水を彼に差し出した。彼は無言でそれを受け取り、一気に飲み干した。
「助かった。礼を言う」
「いいえ。……ですが、このままでは熱が出てしまいます。どこか、お休みになれる場所は……」
「……近くに、仮の拠点を設けてある。そこまで戻らねば」
そう言って立ち上がろうとするカイエンだったが、足元がふらつき、再び膝をついた。出血がひどすぎたのだ。
「無茶ですわ!わたくしの屋敷が、ここからそう遠くありません。どうか、そちらで……」
「断る」
彼は、きっぱりと言い放った。
「他人の情けは受けん。特に、貴族のな」
その声には、深い不信と拒絶がこもっていた。きっと、彼もまた、過去に誰かから裏切られた経験があるのだろう。その孤独が、今のわたくしには痛いほどよく分かった。
「……情けではございません。これは、取引ですわ」
「取引?」
「はい。わたくしが辺境伯様を助ける代わりに、あなた様には、わたくしの薬の実験台になっていただきます」
我ながら、とんでもないことを口走ったと思う。けれど、こうでも言わなければ、この意地っ張りな辺境伯は、ここで野垂れ死ぬことを選んでしまいそうだった。
一瞬の沈黙。
やがて、カイエンの口元に、ふっと自嘲するような笑みが浮かんだ。
「……面白い女だ。いいだろう。その取引、乗ってやる。ただし、俺のそばから離れるな。お前は今日から、俺の薬師だ」
力強い腕が、わたくしの腰を引き寄せる。驚く間もなく、彼の逞しい胸に抱きかかえられていた。
「きゃっ!?」
「騒ぐな。屋敷とやらに案内しろ」
有無を言わさぬ、覇者の命令。
冷たい銀の瞳が、すぐ間近でわたくしを見下ろしている。その瞳の奥に、ほんのわずかながら、興味とでも言うべき光が宿っているように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
こうして、わたくしとカイエン・ヴェインベルク辺境伯の、奇妙な関係が始まった。
「セレスティン。少しは外の空気を吸ってきなさい。お前の好きな森へでも行って、薬草を探してきたらどうだ?」
父は、わたくしの気持ちを誰よりも理解してくれていた。心配そうな父の言葉に甘え、わたくしは久しぶりに、領地にある広大な森へと足を運ぶことにした。
澄んだ空気、木々のざわめき、土の匂い。五感が研ぎ澄まされ、ささくれ立っていた心が穏やかになっていくのを感じる。籠を片手に、注意深く足元に目を凝らしながら、珍しい薬草を探して森の奥深くへと進んでいった。
その時だった。
微かに聞こえる、獣の唸り声と、金属がぶつかり合う音。
何事かと音のする方へ近づくと、開けた場所で、信じられない光景が繰り広げられていた。
体長3メートルはあろうかという、巨大な黒狼。その鋭い牙が、一人の男性に襲いかかろうとしていた。男性は、長い剣を構え、黒狼と対峙している。黒いマントを翻し、黒狼の攻撃を俊敏にかわす姿は、まるで闇に舞う死神のようだった。
そして、次の瞬間。男性の剣が閃光を放ち、黒狼の首筋を深々と切り裂いた。巨体が地響きを立てて倒れるのと、男性がその場に崩れ落ちたのは、ほぼ同時だった。
「……っ!」
わたくしは息を呑み、思わず駆け寄っていた。
男性は、黒狼の爪によって左腕と脇腹に深い傷を負っており、そこから流れる血が、彼の黒い衣服をさらに濃く染めていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……来るな」
顔を上げた男性の瞳を見て、わたくしは息を呑んだ。
夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、月光を閉じ込めたかのような、冷たい銀の瞳。その瞳は、厳しい警戒の色を浮かべて、わたくしを射抜いていた。
その顔立ちに見覚えがあった。社交界の噂でしか知らない、あの人だ。
『冷酷非情の辺境伯』
『戦場では血も涙もない鬼神』
カイエン・ヴェインベルク。
王国の北の国境を守る、ヴェインベルク辺境伯その人だった。なぜ、こんな南の地の、クラインフェルター領の森にいるのか。疑問が頭をよぎるが、今はそれどころではない。彼の傷は、一刻も早く手当をしなければ命に関わるほど深い。
「来るなと言っている。……俺に構うな」
「そのようなお怪我で、構わないわけにはまいりません!わたくし、薬師の心得がございます。どうか、手当をさせてください」
わたくしは彼の制止を振り切り、持っていた籠から手際よく薬草を取り出した。止血効果のあるゲラニウムの葉をすり潰し、傷口に当てていく。痛みで顔をしかめる彼を無視して、清潔な布で傷を固く縛った。
「……お前は、誰だ」
「セレスティン・フォン・クラインフェルターと申します」
「クラインフェルター……ああ、あの公爵子息に捨てられたという……」
彼の口から発せられた言葉に、胸がちくりと痛んだ。けれど、それは事実だ。
「ええ、そのセレスティンでございます。辺境伯様こそ、なぜこのような場所に?」
「……魔獣討伐の帰りだ。はぐれた個体が、ここまで流れてきていたらしい」
彼は苦々しげに答えながら、わたくしの手当を見つめていた。その銀の瞳から、少しずつ警戒の色が薄れていくのが分かった。
「……器用なものだな」
「幼い頃から、薬草に触れるのが好きでしたので」
手当を終えると、わたくしは水筒の水を彼に差し出した。彼は無言でそれを受け取り、一気に飲み干した。
「助かった。礼を言う」
「いいえ。……ですが、このままでは熱が出てしまいます。どこか、お休みになれる場所は……」
「……近くに、仮の拠点を設けてある。そこまで戻らねば」
そう言って立ち上がろうとするカイエンだったが、足元がふらつき、再び膝をついた。出血がひどすぎたのだ。
「無茶ですわ!わたくしの屋敷が、ここからそう遠くありません。どうか、そちらで……」
「断る」
彼は、きっぱりと言い放った。
「他人の情けは受けん。特に、貴族のな」
その声には、深い不信と拒絶がこもっていた。きっと、彼もまた、過去に誰かから裏切られた経験があるのだろう。その孤独が、今のわたくしには痛いほどよく分かった。
「……情けではございません。これは、取引ですわ」
「取引?」
「はい。わたくしが辺境伯様を助ける代わりに、あなた様には、わたくしの薬の実験台になっていただきます」
我ながら、とんでもないことを口走ったと思う。けれど、こうでも言わなければ、この意地っ張りな辺境伯は、ここで野垂れ死ぬことを選んでしまいそうだった。
一瞬の沈黙。
やがて、カイエンの口元に、ふっと自嘲するような笑みが浮かんだ。
「……面白い女だ。いいだろう。その取引、乗ってやる。ただし、俺のそばから離れるな。お前は今日から、俺の薬師だ」
力強い腕が、わたくしの腰を引き寄せる。驚く間もなく、彼の逞しい胸に抱きかかえられていた。
「きゃっ!?」
「騒ぐな。屋敷とやらに案内しろ」
有無を言わさぬ、覇者の命令。
冷たい銀の瞳が、すぐ間近でわたくしを見下ろしている。その瞳の奥に、ほんのわずかながら、興味とでも言うべき光が宿っているように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
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