婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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玻璃(はり)の庭で、龍は乙女を愛しすぎる

第一章:仮面舞踏会の夜の断罪

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星々がダイヤのように散りばめられた夜空の下、ウィンザー公爵家主催の仮面舞踏会は、その華やかさの頂点にあった。シャンデリアの光が磨き上げられた大理石の床に反射し、着飾った紳士淑女たちの宝石や絹のドレスをきらめかせる。誰もが優雅な仮面で素顔を隠し、今宵限りの別人格を演じていた。

セシリア・フォン・エルスハイムは、銀糸で繊細な蝶の刺繍が施された仮面をつけ、喧騒の中心から少し離れたバルコニーにいた。彼女の婚約者である、この国の次期宰相候補と目されるアルバス・グレイヴンガルド公爵子息が、友人たちと高らかに笑い合っているのが見える。

「セシリア」

名を呼ばれ、セシリアは振り返った。そこに立っていたのは、黄金の獅子をかたどった仮面をつけたアルバスだった。その声には、いつもセシリアを安心させる優しさはなく、氷のような冷たさが宿っていた。

「アルバス様。どうかいたしましたの?」
「ここで話がある。ちょうどいい」

アルバスはセシリアの腕を掴むと、人のいないバルコニーの隅へと乱暴に引き寄せた。彼の瞳は仮面の隙間からでもわかるほど、冷徹な光を放っていた。

「セシリア・フォン・エルスハイム。君との婚約を、今この時をもって破棄させてもらう」

セシリアの思考が、一瞬にして凍りついた。何を言われたのか理解が追いつかない。

「……何を、おっしゃって……?冗談でしょう?」
「冗談で言うと思うか?」アルバスは嘲笑を浮かべた。「君は、私の隣に立つにはあまりにも『不足』している。エルスハイム子爵家の娘というだけでは、もはや私のキャリアの助けにはならない。君のその地味な性格、気の利かない振る舞い、社交界での影響力のなさ。すべてが私の重荷だ」

言葉の一つ一つが、鋭いナイフとなってセシリアの胸を突き刺す。

「不足……私が、ですか……?」
「そうだ。私にはもっと高みを目指せるパートナーが必要なのだ。……紹介しよう、私の新しい婚約者、イザベラ・ド・ヴァロワ嬢だ」

アルバスが手招きすると、炎のように赤いドレスをまとった女性が、妖艶な黒豹の仮面をつけて現れた。イザベラはセシリアを頭のてっぺんからつま先まで見下ろし、扇の影でくすりと笑った。

「ごきげんよう、エルスハイム嬢。アルバス様からお話は伺っておりますわ。あなたでは、彼の隣は務まらないと」
「……ああ、なんてこと」

セシリアの世界が、音を立てて崩れていく。今まで信じていたすべてが、足元から崩壊していく感覚。涙が溢れそうになるのを、奥歯を噛みしめて必死にこらえた。ここで泣き崩れるのは、彼らの思う壺だ。

「アルバス様」セシリアは震える声に、ありったけの誇りを乗せた。「あなたの言う『不足』が、具体的に何を指すのか、私にはわかりかねます。しかし、もしそれが、人を裏切り、踏みつけにすることを厭わない冷酷さや、家柄という尺度でしか人を測れない浅はかさを指すのであれば、確かに私は『不足』していることでしょう」

彼女は震える手で仮面を外した。濡れた翡翠のような瞳が、まっすぐにアルバスを射抜く。

「この婚約破棄、謹んでお受けいたします。あなたのような方の隣に立ち続ければ、いずれ私の魂が穢れるところでした。感謝いたしますわ、イザベラ様。私の代わりに、その重荷を背負ってくださることに」

セシリアは完璧なカーテシー(お辞儀)をすると、背筋を伸ばしてその場を去ろうとした。アルバスの顔が驚愕と屈辱に歪むのが見えたが、もうどうでもよかった。

しかし、人々の好奇の視線が突き刺さるホールを横切る勇気は、今の彼女にはなかった。足がもつれ、近くの誰もいないテラスへと逃げ込む。冷たい夜風が、火照った頬を撫でた。

「……ひどい……」

堰を切ったように涙が溢れ、その場にうずくまった。プライドも、誇りも、今はもうない。ただ、裏切られた悲しみと絶望が、彼女の心を支配していた。

その時、背後から静かな足音が聞こえた。続いて、深く、それでいて穏やかな声が降ってきた。

「見事な切り返しだった。あれほどの屈辱を受けながら、己の尊厳を失わなかったご婦人を、私は他に知らない」

セシリアが顔を上げると、そこに一人の男が立っていた。黒い竜をかたどった、精巧で威圧的な仮面をつけている。その体格は屈強で、夜の闇に溶け込むような最高級の黒い礼服を身にまとっていた。

「……誰ですの?」
「今は、ただの傍観者だ」

男はそう言うと、懐からシルクのハンカチを取り出し、ひざまずいてセシリアに差し出した。その指は長く、節くれだっているが、動きは驚くほど優雅だった。

「お見苦しいところを……」
「涙は、弱さの証ではない。心が正直である証拠だ。だが、あのような者たちの前で流すには、あまりにもったいない」

男の声には、不思議な説得力があった。セシリアはためらいながらもハンカチを受け取り、涙を拭った。ハンカチからは、白檀のような落ち着いた香りがした。

「あなたは……すべて見ていらしたのですね」
「ああ。そして、憤慨していた」男は立ち上がり、バルコニーの欄干に寄りかかった。「獅子の仮面の男……グレイヴンガルド公爵家のアルバスだな。彼は磨けば光る原石を、自らドブに捨てた。実に愚かなことだ」

「原石……?私のことですか?私は、地味で、何の取り柄もないと……」
「彼の目は節穴だ。彼は宝石の価値を、その輝きではなく、値札で判断するタイプの人間だ。君という宝石が、どれほど希少で、磨けばどれほどの光を放つか、彼には理解できなかった」

男は仮面越しに、じっとセシリアを見つめているようだった。その視線は、品定めするようなものではなく、まるで長年探し求めていたものを見つけたかのような、熱を帯びていた。

「もし君が望むなら、私が君を磨き上げよう。世界中の誰よりも輝く宝石に。そして、君を捨てた男が、己の愚かさを生涯悔やみ続けるようにしてやろう」

その提案は、あまりにも突飛で、非現実的だった。

「……なぜ、私にそのようなことを?」
「面白いからだ」男は静かに言った。「そして、君という存在に、強く惹かれているからだ。私は、カレイド・アシュフォード。ただの事業家だ」

カレイド・アシュフォード。その名に聞き覚えはなかった。しかし、その圧倒的な存在感と、自信に満ちた態度は、彼が「ただの事業家」でないことを雄弁に物語っていた。

セシリアは混乱していた。しかし、絶望の淵にいる彼女にとって、カレイドの言葉は唯一の光のように思えた。

「私に……何ができるというのですか?」
「何もする必要はない。ただ、私にすべてを委ねればいい」カレイドは手を差し伸べた。「さあ、行きなさい。今は一人でゆっくり休むといい。迎えは、明日の朝、君の屋敷に寄越そう。今後のことは、それからだ」

彼の声には、抗うことを許さない響きがあった。セシ"リアは無意識のうちに、その大きな手に自分の手を重ねていた。カレイドは彼女の手を恭しくとると、その甲に仮面越しの唇を寄せた。

「今宵は、悪夢ではなく、新しい未来の夢を」

その言葉を残し、カレイド・アシュフォードは闇に消えた。残されたセシリアは、彼の温もりが残る自分の手と、白檀の香りがするハンカチを握りしめ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
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