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瑠璃色の瞳に誓う、永遠の愛を
第一章:偽りの夜会
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煌びやかなシャンデリアが放つ光の粒子が、磨き上げられた大理石の床に降り注ぎ、着飾った紳士淑女たちの宝石やドレスをきらめかせている。王宮の『月の間』は、今宵もまた、社交という名の華やかな戦場と化していた。
その喧騒の中心から少し離れたテラスで、リリアンナ・フォン・クラインフェルトは、夜風に細い肩を震わせていた。
「寒いのかい、リアナ」
背後からかけられた声は、氷のように冷たく、それでいて聞き慣れたものだった。彼女の婚約者、セバスティアン・フォン・ヴァルツブルク公爵子息その人である。
「セバスティアン様……。いいえ、平気ですわ」
振り返ったリリアンナの微笑みは、月の光に照らされて儚げに見えた。彼女の瑠璃色の瞳が、目の前の美しい婚約者を映す。銀糸のような髪、彫刻のように整った顔立ち、非の打ち所のない立ち居振る舞い。誰もが羨む完璧な婚約者。――ただ、そのアイスブルーの瞳が、彼女を愛情を持って見つめたことは一度もなかった。
彼らの婚約は、ヴァルツブルク公爵家の持つ強大な権力と、クラインフェルト伯爵家が近年手に入れた新航路の利権を結びつけるための、純然たる政略結婚だ。愛など、最初からどこにも存在しない。リリアンナはそれを理解していた。理解して、完璧な婚約者を演じ続けてきた。いつか、ほんの少しでも、彼が心を開いてくれる日を夢見て。
「そうか。それならいいが」
セバスティアンは興味なさそうに言うと、グラスのワインに口をつけた。会話はそれで終わりだった。いつものことだ。彼が彼女に用があるのは、社交の場で「仲睦まじい婚約者」を演じる必要がある時だけ。
その時だった。甲高い笑い声と共に、一人の女性が彼らの元へやってきた。燃えるような赤いドレスを身にまとった、イザベラ・ド・ロシュフォール男爵令嬢。彼女は、扇で口元を隠しながらも、その野心的な瞳で真っ直ぐにセバスティアンを見つめていた。
「セバスティアン様、こんなところに隠れていらっしゃったのね。皆様、お探してしてよ」
「イザベラ嬢。君こそ、今宵の主役だろう。そのドレス、実によく似合っている」
セバスティアンの口調が、リリアンナと話す時とは明らかに違う。そこには微かな熱がこもっていた。リリアンナの胸が、ちくりと痛む。
イザベラは勝ち誇ったようにリリアンナを一瞥し、セバスティアンの腕に自らの腕を絡ませた。
「まあ、お上手ですこと。ねえ、セバスティアン様、あちらで新しい楽団の演奏が始まるそうですわ。ご一緒していただけませんこと?」
「ああ、もちろんだ」
セバスティアンは、リリアンナに一言も告げずに、イザベラと共にホールの中へと消えていった。まるで、最初からリリアンナなど存在しなかったかのように。
残されたのは、冷たい夜風と、胸に広がる鈍い痛みだけだった。大丈夫、と自分に言い聞かせる。これは政略結婚なのだから。期待してはいけない。傷ついてはいけない。心を無にすれば、痛みも感じなくなるはずだ。
だが、その夜、リリアンナのささやかな希望は、無慈悲に打ち砕かれることになる。
ダンスの輪の中心で、セバスティアンは音楽の終わりと共にイザベラの腰を抱き、喝采を浴びていた。そして、彼はマイクを手に取り、すべての招待客の注目を集めると、朗々と宣言したのだ。
「皆様、ご静粛に! 今宵、この素晴らしい夜に、皆様にご報告したいことがあります」
会場がしんと静まり返る。誰もが固唾を飲んで彼の言葉を待っていた。リリアンナも、壁際で息を潜めていた。嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。
セバスティアンの視線が、一瞬、リリアンナを捉えた。その瞳には、憐憫でも罪悪感でもなく、ただ冷徹な光が宿っていた。
「私、セバスティアン・フォン・ヴァルツブルクは、リリアンナ・フォン・クラインフェルト嬢との婚約を、ただ今をもって破棄させていただきたい!」
ざわめきが波のように広がっていく。嘲笑、同情、好奇の視線が、ナイフのようにリリアンナに突き刺さった。血の気が引き、目の前が白くなる。
セバスティアンは構わず続けた。その声は、愛を語る騎士のように甘く響いた。
「私は、真実の愛を見つけたのです。私の魂が求める唯一人の女性……それは、ここにいるイザベラ・ド・ロシュフォール嬢だ!」
イザベラが、芝居がかった仕草で頬を染め、セバスティアンに寄り添う。万雷の拍手が、二人を祝福した。
リリアンナは、自分がどうやってその場に立っているのか、分からなかった。足が震え、呼吸が苦しい。世界から音が消え、ただ、心臓が砕ける音だけが聞こえた。
彼女は、誰にも気づかれないように、そっとその場を離れた。涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、背筋を伸ばし、クラインフェルト伯爵令嬢としての最後の誇りを守りながら。
屋敷に帰り着き、自室の扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。リリアンナはその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。
愛されていなかったことは知っていた。それでも、信じていたかった。いつか分かり合えると。だが、彼が与えてくれたのは、大衆の面前での、惨めで残酷な仕打ちだった。
私の三年間は、一体何だったのだろう。
瑠璃色の瞳から、大粒の涙がとめどなく流れ落ちていった。
その喧騒の中心から少し離れたテラスで、リリアンナ・フォン・クラインフェルトは、夜風に細い肩を震わせていた。
「寒いのかい、リアナ」
背後からかけられた声は、氷のように冷たく、それでいて聞き慣れたものだった。彼女の婚約者、セバスティアン・フォン・ヴァルツブルク公爵子息その人である。
「セバスティアン様……。いいえ、平気ですわ」
振り返ったリリアンナの微笑みは、月の光に照らされて儚げに見えた。彼女の瑠璃色の瞳が、目の前の美しい婚約者を映す。銀糸のような髪、彫刻のように整った顔立ち、非の打ち所のない立ち居振る舞い。誰もが羨む完璧な婚約者。――ただ、そのアイスブルーの瞳が、彼女を愛情を持って見つめたことは一度もなかった。
彼らの婚約は、ヴァルツブルク公爵家の持つ強大な権力と、クラインフェルト伯爵家が近年手に入れた新航路の利権を結びつけるための、純然たる政略結婚だ。愛など、最初からどこにも存在しない。リリアンナはそれを理解していた。理解して、完璧な婚約者を演じ続けてきた。いつか、ほんの少しでも、彼が心を開いてくれる日を夢見て。
「そうか。それならいいが」
セバスティアンは興味なさそうに言うと、グラスのワインに口をつけた。会話はそれで終わりだった。いつものことだ。彼が彼女に用があるのは、社交の場で「仲睦まじい婚約者」を演じる必要がある時だけ。
その時だった。甲高い笑い声と共に、一人の女性が彼らの元へやってきた。燃えるような赤いドレスを身にまとった、イザベラ・ド・ロシュフォール男爵令嬢。彼女は、扇で口元を隠しながらも、その野心的な瞳で真っ直ぐにセバスティアンを見つめていた。
「セバスティアン様、こんなところに隠れていらっしゃったのね。皆様、お探してしてよ」
「イザベラ嬢。君こそ、今宵の主役だろう。そのドレス、実によく似合っている」
セバスティアンの口調が、リリアンナと話す時とは明らかに違う。そこには微かな熱がこもっていた。リリアンナの胸が、ちくりと痛む。
イザベラは勝ち誇ったようにリリアンナを一瞥し、セバスティアンの腕に自らの腕を絡ませた。
「まあ、お上手ですこと。ねえ、セバスティアン様、あちらで新しい楽団の演奏が始まるそうですわ。ご一緒していただけませんこと?」
「ああ、もちろんだ」
セバスティアンは、リリアンナに一言も告げずに、イザベラと共にホールの中へと消えていった。まるで、最初からリリアンナなど存在しなかったかのように。
残されたのは、冷たい夜風と、胸に広がる鈍い痛みだけだった。大丈夫、と自分に言い聞かせる。これは政略結婚なのだから。期待してはいけない。傷ついてはいけない。心を無にすれば、痛みも感じなくなるはずだ。
だが、その夜、リリアンナのささやかな希望は、無慈悲に打ち砕かれることになる。
ダンスの輪の中心で、セバスティアンは音楽の終わりと共にイザベラの腰を抱き、喝采を浴びていた。そして、彼はマイクを手に取り、すべての招待客の注目を集めると、朗々と宣言したのだ。
「皆様、ご静粛に! 今宵、この素晴らしい夜に、皆様にご報告したいことがあります」
会場がしんと静まり返る。誰もが固唾を飲んで彼の言葉を待っていた。リリアンナも、壁際で息を潜めていた。嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。
セバスティアンの視線が、一瞬、リリアンナを捉えた。その瞳には、憐憫でも罪悪感でもなく、ただ冷徹な光が宿っていた。
「私、セバスティアン・フォン・ヴァルツブルクは、リリアンナ・フォン・クラインフェルト嬢との婚約を、ただ今をもって破棄させていただきたい!」
ざわめきが波のように広がっていく。嘲笑、同情、好奇の視線が、ナイフのようにリリアンナに突き刺さった。血の気が引き、目の前が白くなる。
セバスティアンは構わず続けた。その声は、愛を語る騎士のように甘く響いた。
「私は、真実の愛を見つけたのです。私の魂が求める唯一人の女性……それは、ここにいるイザベラ・ド・ロシュフォール嬢だ!」
イザベラが、芝居がかった仕草で頬を染め、セバスティアンに寄り添う。万雷の拍手が、二人を祝福した。
リリアンナは、自分がどうやってその場に立っているのか、分からなかった。足が震え、呼吸が苦しい。世界から音が消え、ただ、心臓が砕ける音だけが聞こえた。
彼女は、誰にも気づかれないように、そっとその場を離れた。涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、背筋を伸ばし、クラインフェルト伯爵令嬢としての最後の誇りを守りながら。
屋敷に帰り着き、自室の扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。リリアンナはその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。
愛されていなかったことは知っていた。それでも、信じていたかった。いつか分かり合えると。だが、彼が与えてくれたのは、大衆の面前での、惨めで残酷な仕打ちだった。
私の三年間は、一体何だったのだろう。
瑠璃色の瞳から、大粒の涙がとめどなく流れ落ちていった。
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