婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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瑠璃色の瞳に誓う、永遠の愛を

第二章:風の丘で出会った男

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婚約破棄の醜聞は、瞬く間に王都を駆け巡った。「悲劇の令嬢」として同情する声もあったが、その多くは好奇と嘲笑に満ちていた。リリアンナは屋敷に閉じこもり、誰とも会わずに過ごした。父であるクラインフェルト伯爵は激怒し、ヴァルツブルク公爵家に抗議したが、すでにセバスティアンとイザベラの婚約が正式に発表された後では、どうすることもできなかった。

「リアナ、少し領地に戻って休みなさい。あそこなら、王都の喧騒も届くまい」

やつれた娘を見かねた母の言葉に、リリアンナは静かに頷いた。

クラインフェルト伯爵領は、王都から馬車で三日ほどの距離にある、風光明媚な田舎町だ。緩やかな丘陵地帯が広がり、羊たちが草を食むのどかな風景は、リリアンナが子供の頃から愛してやまない場所だった。

領地の屋敷で過ごす日々は、穏やかだった。しかし、リリアンナの心は依然として厚い氷に閉ざされたままだった。笑うことも、何かに興味を持つこともなく、ただ時間だけが過ぎていく。

そんなある日の午後、リリアンナはあてもなく馬を走らせていた。向かった先は、領地で一番小高い丘の上。そこからは、クラインフェルトの美しい緑の丘と、遠くにきらめく湖が一望できた。子供の頃、悲しいことがあると、いつもここに来て風に涙を乾かしてもらったものだ。

丘の頂には、一本の大きな樫の木が立っていた。リリアンナが馬を降りてその木に近づくと、先客がいることに気づいた。

木の幹に背を預け、一人の男が座っていた。日に焼けた肌、無造作に伸ばされた黒檀のような髪。服装は質素な旅人のようだったが、その佇まいにはどこか目を引くものがあった。彼は、スケッチブックを広げ、熱心に何かを描いているようだった。

リリアンナは邪魔をしないように、そっと引き返そうとした。その時、男がふと顔を上げた。

「……驚かせてしまったかな。すまない」

穏やかで、少し低い声だった。彼の瞳の色を見て、リリアンナは息をのんだ。それは、夕暮れの空を溶かし込んだような、不思議な琥珀色をしていた。

「いえ……こちらこそ、お邪魔だったでしょうか」
「いや、構わない。この丘は誰のものでもないだろう?」

男はそう言うと、人懐っこい笑みを浮かべた。その屈託のない笑顔に、リリアンナは少しだけ警戒を解いた。

「俺はカイエン。カイと呼んでくれ。旅の絵描きだ」
「リリアンナ、と申します」

身分を明かすべきか迷ったが、今はただのリリアンナでいたかった。

「リリアンナか。美しい響きだ」

カイはスケッチブックを閉じると、立ち上がった。彼はリリアンナよりも頭一つ分ほど背が高かった。

「ここの景色が気に入ってね。しばらく滞在させてもらっているんだ」
「……そう、ですか」
「君も、この丘が好きなのか?」
「ええ。子供の頃から……」

言葉を交わすうちに、リリアンナは少しずつ落ち着きを取り戻していた。カイの纏う穏やかな空気は、人の心を不思議と安らがせる力があるようだった。

「よかったら、見せていただけませんか。何を、描いていらっしゃったの?」

好奇心に負けて尋ねると、カイは少し照れたように頬を掻いた。
「大したものじゃない。ただの風景画だよ」

彼が差し出したスケッチブックには、鉛筆で描かれた丘の風景があった。それは、写真のように精密でありながら、風のそよぎや光の温かさまで伝わってくるような、生命力に満ちた絵だった。

「……素晴らしいですわ。まるで、この丘が呼吸しているみたい」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」

その日を境に、リリアンナは毎日のように丘を訪れるようになった。カイはいつも同じ樫の木の下にいて、彼女を穏やかな笑顔で迎えてくれた。

二人は多くのことを語り合った。カイは旅先で見た様々な国の話をし、リリアンナは彼女の好きな本や詩の話をした。彼といると、リリアンナは自分が「婚約破棄された哀れな令嬢」ではなく、ただの「リリアンナ」でいられるような気がした。

ある雨の日、丘へ行けなかったリリアンナは、屋敷の図書室で沈んだ気持ちで過ごしていた。すると、侍女が一人の客人を告げた。カイだった。彼は雨に濡れた髪を気にすることもなく、一輪の野薔薇を差し出した。

「君が来ないから、心配になって。丘に咲いていたんだ。雨粒がついて、宝石みたいに綺麗だったから、君に見せたくなった」

その素朴な優しさに、リリアンナの心の中の氷が、少しずつ溶けていくのを感じた。誰も彼女に花などくれなかった。セバスティアンは、義務のように高価な宝石を贈るだけだった。

「ありがとう……ございます。カイ」

彼女がその花を受け取った時、初めて心からの笑みがこぼれた。その笑顔を見たカイの琥珀色の瞳が、優しく細められる。

カイの溺愛は、静かで、だが確かな温もりをもってリリアンナを包み込んでいった。彼は高価なものを贈るわけではない。ただ、彼女が何を喜び、何を悲しむのかを、誰よりも深く理解しようとしてくれた。彼女が好きな焼き菓子を町のパン屋で買ってきたり、彼女が読みたがっていた古い詩集を遠くの村まで探しに行ってくれたり。

その一つ一つが、乾いた心に染み渡る水のように、リリアンナを満たしていった。

「カイ、あなたは何故、私にこんなに良くしてくださるの?」
ある日、リリアンナは尋ねた。湖のほとりで、二人は並んで夕日を眺めていた。

カイは彼女の問いにすぐには答えず、沈みゆく太陽を見つめていた。やがて、彼は静かに口を開いた。

「初めて丘で君を見た時、君はまるで壊れてしまいそうなガラス細工のようだった。なのに、その瞳の奥には、決して折れない強い光が宿っていた」

彼の視線が、リリアンナの瑠璃色の瞳を捉える。

「俺は、その光に惹かれたんだ。そして、君の笑顔が見たくなった。ただ、それだけだよ」

彼の真摯な言葉に、リリアンナは胸が熱くなるのを感じた。セバスティアンが一度も見てくれなかった、自分の内面。カイは、それを見つめ、愛おしいと言ってくれている。

「リリアンナ。俺は君を愛している」

あまりにも真っ直ぐな告白に、リリアンナは言葉を失った。風が二人の間を吹き抜けていく。

「身分も、過去も関係ない。ありのままの君が、好きなんだ」

リリアンナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。凍てついていた心が、ようやく春の光を浴びて溶け出した、温かい涙だった。
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