婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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夜明けのセラフィナイト

第一章:灰色の邂逅

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夜会の喧騒から逃れ、リリアンジェは月の光だけが差し込む静かなバルコニーに辿り着いた。ここでなら、誰にも見られずに涙を流せる。そう思った瞬間、堪えていたものが堰を切ったように溢れ出した。

「うっ……ひっく……」

華やかなドレスも、綺麗に結い上げた髪も、今の彼女にとっては虚しいだけだった。カシウスに言われた「地味」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。彼のために良き妻になろうと努力してきた日々は、すべて無意味だったのだ。自分の価値を、全存在を否定されたような絶望が彼女を襲う。

どれくらいそうしていただろうか。背後で、重厚な足音が聞こえた。慌てて涙を拭うが、もう遅い。見られたくない、今の惨めな姿だけは。

「……大丈夫か」

低く、静かで、それでいて芯のある声だった。リリアンジェが恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、ゼファニヤ・ヴァルザー・グライフ公爵。黒曜石のような髪と、夜の湖を思わせる深い青の瞳を持つ、王都でも一目置かれる存在だった。

冷徹、孤高、他人に一切の興味を示さない──それが彼の評判だ。そんな彼が、なぜ自分に?

「グ、グライフ公爵様……」
「その顔では、大丈夫ではなさそうだな」

ゼファニヤは淡々とした口調で言うと、リリアンジェの前に歩み寄り、純白のハンカチを差し出した。シルクの生地には、グライフ家の紋章であるグリフォンの刺繍が施されている。

「……お気遣い、痛み入ります。ですが、お見苦しいところを……」
「見苦しいとは思わない。ただ、美しいものが壊れていくのを見るのは、あまり気分の良いものではない」

美しいもの? 私が? カシウスに地味だと言われたばかりの自分が?
リリアンジェは彼の言葉の意味がわからず、戸惑いの表情を浮かべる。

ゼファニヤは彼女がハンカチを受け取らないのを見ると、自らの手でそっと彼女の頬の涙を拭った。その指先は意外なほど温かい。

「カシウス・モンフォールの愚行は、私も見ていた。見る目のない男だ。宝石の原石をただの石ころと断じるなど、滑稽の極みだな」
「……宝石、などではございませんわ。私は、ただの……」
「そうだろうか」

ゼファニヤはリリアンジェの瞳をじっと見つめた。その深い青の瞳に吸い込まれそうで、彼女は思わず視線を逸らす。

「クラインフェルター令嬢。君は知らないだろうが、私は君を以前から知っている。君が王立施療院の薬草園に、貴重な薬草の苗を匿名で寄付していることも。君が作るポプリが、心を落ち着かせる特別な力を持っていることも」
「な……ぜ、それを……」

それは、誰にも話したことのない、彼女だけの秘密だった。貴族の令嬢が土いじりをすることは、あまり褒められたことではない。それでも、苦しむ人々の助けになればと、ひっそりと続けてきたことだった。

「知るべき人間は、知っているということだ」
ゼファニヤはそれ以上何も言わず、ただ静かに彼女の隣に立った。無理に慰めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただそこにいてくれる。その沈黙が、今のリリアンジェには何よりもありがたかった。

しばらくして、リリアンジェはようやく落ち着きを取り戻した。
「公爵様……ありがとうございました。お陰様で、少し、落ち着きました」
「ならば良い」

彼は短く答えると、夜会の会場へと戻っていく。その背中を見送りながら、リリアンジェは彼のくれたハンカチを強く握りしめた。ハンカチからは、白檀のようなどこか落ち着く香りがした。

冷徹だと噂される公爵の、予期せぬ優しさ。そして、誰も知らないはずの自分を知っていた謎。リリアンジェの心に、絶望とは違う、小さな波紋が広がっていた。
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