20 / 82
夜明けのセラフィナイト
第一章:灰色の邂逅
しおりを挟む
夜会の喧騒から逃れ、リリアンジェは月の光だけが差し込む静かなバルコニーに辿り着いた。ここでなら、誰にも見られずに涙を流せる。そう思った瞬間、堪えていたものが堰を切ったように溢れ出した。
「うっ……ひっく……」
華やかなドレスも、綺麗に結い上げた髪も、今の彼女にとっては虚しいだけだった。カシウスに言われた「地味」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。彼のために良き妻になろうと努力してきた日々は、すべて無意味だったのだ。自分の価値を、全存在を否定されたような絶望が彼女を襲う。
どれくらいそうしていただろうか。背後で、重厚な足音が聞こえた。慌てて涙を拭うが、もう遅い。見られたくない、今の惨めな姿だけは。
「……大丈夫か」
低く、静かで、それでいて芯のある声だった。リリアンジェが恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、ゼファニヤ・ヴァルザー・グライフ公爵。黒曜石のような髪と、夜の湖を思わせる深い青の瞳を持つ、王都でも一目置かれる存在だった。
冷徹、孤高、他人に一切の興味を示さない──それが彼の評判だ。そんな彼が、なぜ自分に?
「グ、グライフ公爵様……」
「その顔では、大丈夫ではなさそうだな」
ゼファニヤは淡々とした口調で言うと、リリアンジェの前に歩み寄り、純白のハンカチを差し出した。シルクの生地には、グライフ家の紋章であるグリフォンの刺繍が施されている。
「……お気遣い、痛み入ります。ですが、お見苦しいところを……」
「見苦しいとは思わない。ただ、美しいものが壊れていくのを見るのは、あまり気分の良いものではない」
美しいもの? 私が? カシウスに地味だと言われたばかりの自分が?
リリアンジェは彼の言葉の意味がわからず、戸惑いの表情を浮かべる。
ゼファニヤは彼女がハンカチを受け取らないのを見ると、自らの手でそっと彼女の頬の涙を拭った。その指先は意外なほど温かい。
「カシウス・モンフォールの愚行は、私も見ていた。見る目のない男だ。宝石の原石をただの石ころと断じるなど、滑稽の極みだな」
「……宝石、などではございませんわ。私は、ただの……」
「そうだろうか」
ゼファニヤはリリアンジェの瞳をじっと見つめた。その深い青の瞳に吸い込まれそうで、彼女は思わず視線を逸らす。
「クラインフェルター令嬢。君は知らないだろうが、私は君を以前から知っている。君が王立施療院の薬草園に、貴重な薬草の苗を匿名で寄付していることも。君が作るポプリが、心を落ち着かせる特別な力を持っていることも」
「な……ぜ、それを……」
それは、誰にも話したことのない、彼女だけの秘密だった。貴族の令嬢が土いじりをすることは、あまり褒められたことではない。それでも、苦しむ人々の助けになればと、ひっそりと続けてきたことだった。
「知るべき人間は、知っているということだ」
ゼファニヤはそれ以上何も言わず、ただ静かに彼女の隣に立った。無理に慰めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただそこにいてくれる。その沈黙が、今のリリアンジェには何よりもありがたかった。
しばらくして、リリアンジェはようやく落ち着きを取り戻した。
「公爵様……ありがとうございました。お陰様で、少し、落ち着きました」
「ならば良い」
彼は短く答えると、夜会の会場へと戻っていく。その背中を見送りながら、リリアンジェは彼のくれたハンカチを強く握りしめた。ハンカチからは、白檀のようなどこか落ち着く香りがした。
冷徹だと噂される公爵の、予期せぬ優しさ。そして、誰も知らないはずの自分を知っていた謎。リリアンジェの心に、絶望とは違う、小さな波紋が広がっていた。
「うっ……ひっく……」
華やかなドレスも、綺麗に結い上げた髪も、今の彼女にとっては虚しいだけだった。カシウスに言われた「地味」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。彼のために良き妻になろうと努力してきた日々は、すべて無意味だったのだ。自分の価値を、全存在を否定されたような絶望が彼女を襲う。
どれくらいそうしていただろうか。背後で、重厚な足音が聞こえた。慌てて涙を拭うが、もう遅い。見られたくない、今の惨めな姿だけは。
「……大丈夫か」
低く、静かで、それでいて芯のある声だった。リリアンジェが恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、ゼファニヤ・ヴァルザー・グライフ公爵。黒曜石のような髪と、夜の湖を思わせる深い青の瞳を持つ、王都でも一目置かれる存在だった。
冷徹、孤高、他人に一切の興味を示さない──それが彼の評判だ。そんな彼が、なぜ自分に?
「グ、グライフ公爵様……」
「その顔では、大丈夫ではなさそうだな」
ゼファニヤは淡々とした口調で言うと、リリアンジェの前に歩み寄り、純白のハンカチを差し出した。シルクの生地には、グライフ家の紋章であるグリフォンの刺繍が施されている。
「……お気遣い、痛み入ります。ですが、お見苦しいところを……」
「見苦しいとは思わない。ただ、美しいものが壊れていくのを見るのは、あまり気分の良いものではない」
美しいもの? 私が? カシウスに地味だと言われたばかりの自分が?
リリアンジェは彼の言葉の意味がわからず、戸惑いの表情を浮かべる。
ゼファニヤは彼女がハンカチを受け取らないのを見ると、自らの手でそっと彼女の頬の涙を拭った。その指先は意外なほど温かい。
「カシウス・モンフォールの愚行は、私も見ていた。見る目のない男だ。宝石の原石をただの石ころと断じるなど、滑稽の極みだな」
「……宝石、などではございませんわ。私は、ただの……」
「そうだろうか」
ゼファニヤはリリアンジェの瞳をじっと見つめた。その深い青の瞳に吸い込まれそうで、彼女は思わず視線を逸らす。
「クラインフェルター令嬢。君は知らないだろうが、私は君を以前から知っている。君が王立施療院の薬草園に、貴重な薬草の苗を匿名で寄付していることも。君が作るポプリが、心を落ち着かせる特別な力を持っていることも」
「な……ぜ、それを……」
それは、誰にも話したことのない、彼女だけの秘密だった。貴族の令嬢が土いじりをすることは、あまり褒められたことではない。それでも、苦しむ人々の助けになればと、ひっそりと続けてきたことだった。
「知るべき人間は、知っているということだ」
ゼファニヤはそれ以上何も言わず、ただ静かに彼女の隣に立った。無理に慰めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただそこにいてくれる。その沈黙が、今のリリアンジェには何よりもありがたかった。
しばらくして、リリアンジェはようやく落ち着きを取り戻した。
「公爵様……ありがとうございました。お陰様で、少し、落ち着きました」
「ならば良い」
彼は短く答えると、夜会の会場へと戻っていく。その背中を見送りながら、リリアンジェは彼のくれたハンカチを強く握りしめた。ハンカチからは、白檀のようなどこか落ち着く香りがした。
冷徹だと噂される公爵の、予期せぬ優しさ。そして、誰も知らないはずの自分を知っていた謎。リリアンジェの心に、絶望とは違う、小さな波紋が広がっていた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
寵愛の花嫁は毒を愛でる~いじわる義母の陰謀を華麗にスルーして、最愛の公爵様と幸せになります~
紅葉山参
恋愛
アエナは貧しい子爵家から、国の英雄と名高いルーカス公爵の元へと嫁いだ。彼との政略結婚は、彼の底なしの優しさと、情熱的な寵愛によって、アエナにとってかけがえのない幸福となった。しかし、その幸福を妬み、毎日のように粘着質ないじめを繰り返す者が一人、それは夫の継母であるユーカ夫人である。
「たかが子爵の娘が、公爵家の奥様面など」 ユーカ様はそう言って、私に次から次へと理不尽な嫌がらせを仕掛けてくる。大切な食器を隠したり、ルーカス様に嘘の告げ口をしたり、社交界で恥をかかせようとしたり。
だが、私は決して挫けない。愛する公爵様との穏やかな日々を守るため、そして何より、彼が大切な家族と信じているユーカ様を悲しませないためにも、私はこの毒を静かに受け流すことに決めたのだ。
誰も気づかないほど巧妙に、いじめを優雅にスルーするアエナ。公爵であるあなたに心配をかけまいと、彼女は今日も微笑みを絶やさない。しかし、毒は徐々に、確実に、その濃度を増していく。ついに義母は、アエナの命に関わるような、取り返しのつかない大罪に手を染めてしまう。
愛と策略、そして運命の結末。この溺愛系ヒロインが、華麗なるスルー術で、最愛の公爵様との未来を掴み取る、痛快でロマンティックな物語の幕開けです。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる