婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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夜明けのセラフィナイト

第三章:薬草の庭で芽生えるもの

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ゼファニヤからの求婚を断ってから数日。リリアンジェは、屋敷の裏手にあるガラス張りの温室にこもっていた。そこは彼女が育てている薬草園であり、唯一心が安らげる場所だった。

様々なハーブの香りが満ちる中、彼女は慣れた手つきで土をいじり、薬草の手入れをしていた。カモミール、ラベンダー、レモンバーム。指先で葉に触れると、心地よい香りが立ち上る。この香りを嗅いでいる時だけは、嫌なことを忘れられた。

不意に、温室の扉が開く音がした。振り返ると、そこに立っていたのはゼファニヤだった。
「……公爵様。どうしてここが」
「君の執事に聞いた。君が最も大切にしている場所だと」

彼はゆったりとした足取りで中へ入ってくると、興味深そうに様々な薬草を眺めた。
「見事なものだな。これほど多くの種類を、完璧な状態で育て上げるとは」
「お恥ずかしい限りです。貴族令嬢の趣味としては、あまり褒められたものではございませんので」
リリアンジェは俯きながら言った。

「誰がそんなことを決めた? 私は素晴らしいと思う。これはただの趣味ではない。深い知識と愛情がなければ、これだけのものは育てられない」
ゼファニヤは一株の植物の前で足を止め、その葉にそっと触れた。
「これは……『セラフィナイト』か。珍しい。幻の薬草とまで言われているものだ」

リリアンジェは驚いて顔を上げた。セラフィナイトは、心の傷を癒す効果があると古文書に記されているが、育成が非常に難しく、ほとんど市場に出回らない薬草だった。
「ご存知なのですか?」
「ああ。少しだけ、心得がある」

ゼファニヤは穏やかな表情で言った。いつも社交界で見せる冷たい仮面のような表情とは全く違う、柔らかな微笑みだった。リリアンジェは、初めて彼の違う一面を見た気がして、ドキリとした。

「もしよろしければ……お茶でもいかがですか。私がブレンドしたハーブティーですが」
気づけば、自然とそんな言葉が口をついていた。
「ぜひ、いただこう」

温室の一角にある小さなテーブルで、二人は向かい合って座った。リリアンジェが淹れたカモミールとリンデンのブレンドティーの湯気が、優しく立ち上る。

「……美味しい」
ゼファニヤはカップを口に運び、目を細めた。
「君の淹れる茶は、心が安らぐ。まるで魔法のようだ」
「そんな……ただの薬草の力ですわ」
「いや、君の力だ」

彼は真っ直ぐに彼女を見つめて言った。 「リリア。君に、話しておきたいことがある。私がなぜ、これほど君に執着するのか」

リリアンジェは息を呑んで、彼の次の言葉を待った。

「今から五年ほど前、私は遠征先で熱病に倒れた。王宮の侍医たちも匙を投げ、誰もが私の死を覚悟したそうだ。意識が朦朧とする中、私はある香りを嗅いだ。それは、今この温室に満ちているような、優しくて清らかな香りだった」
彼の声は、遠い過去を懐かしむように穏やかだった。

「後に聞いた話だ。私の部下の一人が、施療院で匿名で配られていたという『熱病に効くポプリ』を偶然手に入れ、私の枕元に置いたらしい。そのポプリのお陰で、私は奇跡的に一命を取り留めた。侍医たちは首を傾げるばかりだったがな」

リリアンジェは、はっとした。五年前、彼女は確かに熱病に効くと言われる薬草をブレンドし、母を通じて施療院に寄付していた。

「そのポプリを作ったのが誰なのか、私はずっと探していた。そして、ようやく突き止めたんだ。それが、クラインフェルター伯爵家の令嬢、リリアンジェ……君だったということを」

ゼファニヤは懐から、古びた小さな刺繍の袋を取り出した。それは紛れもなく、リリアンジェが作ったポプリの袋だった。

「君は私の命の恩人だ。だが、私が君を求めるのは、それだけが理由ではない。君の優しさ、聡明さ、そして誰にも知られず善行を施すその高潔な魂に、私は心から惹かれているんだ。カシウスのような男に、君を渡すことなどできるはずがなかった」

予想もしなかった告白に、リリアンジェは言葉を失った。自分のささやかな行いが、彼の命を救っていたなんて。そして、彼はその時からずっと、自分のことを見ていてくれたなんて。

「だから、リリア。もう一度だけ、チャンスをくれないか。君のその閉ざされた心を、私が必ず溶かしてみせる。君が信じられる唯一の男に、私がなってみせる」

彼の瞳には、一点の曇りもない真摯な光が宿っていた。
リリアンジェの心の中に、凍てついていた何かが、ポロリと音を立てて剥がれ落ちたような気がした。
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