22 / 82
夜明けのセラフィナイト
第三章:薬草の庭で芽生えるもの
しおりを挟む
ゼファニヤからの求婚を断ってから数日。リリアンジェは、屋敷の裏手にあるガラス張りの温室にこもっていた。そこは彼女が育てている薬草園であり、唯一心が安らげる場所だった。
様々なハーブの香りが満ちる中、彼女は慣れた手つきで土をいじり、薬草の手入れをしていた。カモミール、ラベンダー、レモンバーム。指先で葉に触れると、心地よい香りが立ち上る。この香りを嗅いでいる時だけは、嫌なことを忘れられた。
不意に、温室の扉が開く音がした。振り返ると、そこに立っていたのはゼファニヤだった。
「……公爵様。どうしてここが」
「君の執事に聞いた。君が最も大切にしている場所だと」
彼はゆったりとした足取りで中へ入ってくると、興味深そうに様々な薬草を眺めた。
「見事なものだな。これほど多くの種類を、完璧な状態で育て上げるとは」
「お恥ずかしい限りです。貴族令嬢の趣味としては、あまり褒められたものではございませんので」
リリアンジェは俯きながら言った。
「誰がそんなことを決めた? 私は素晴らしいと思う。これはただの趣味ではない。深い知識と愛情がなければ、これだけのものは育てられない」
ゼファニヤは一株の植物の前で足を止め、その葉にそっと触れた。
「これは……『セラフィナイト』か。珍しい。幻の薬草とまで言われているものだ」
リリアンジェは驚いて顔を上げた。セラフィナイトは、心の傷を癒す効果があると古文書に記されているが、育成が非常に難しく、ほとんど市場に出回らない薬草だった。
「ご存知なのですか?」
「ああ。少しだけ、心得がある」
ゼファニヤは穏やかな表情で言った。いつも社交界で見せる冷たい仮面のような表情とは全く違う、柔らかな微笑みだった。リリアンジェは、初めて彼の違う一面を見た気がして、ドキリとした。
「もしよろしければ……お茶でもいかがですか。私がブレンドしたハーブティーですが」
気づけば、自然とそんな言葉が口をついていた。
「ぜひ、いただこう」
温室の一角にある小さなテーブルで、二人は向かい合って座った。リリアンジェが淹れたカモミールとリンデンのブレンドティーの湯気が、優しく立ち上る。
「……美味しい」
ゼファニヤはカップを口に運び、目を細めた。
「君の淹れる茶は、心が安らぐ。まるで魔法のようだ」
「そんな……ただの薬草の力ですわ」
「いや、君の力だ」
彼は真っ直ぐに彼女を見つめて言った。 「リリア。君に、話しておきたいことがある。私がなぜ、これほど君に執着するのか」
リリアンジェは息を呑んで、彼の次の言葉を待った。
「今から五年ほど前、私は遠征先で熱病に倒れた。王宮の侍医たちも匙を投げ、誰もが私の死を覚悟したそうだ。意識が朦朧とする中、私はある香りを嗅いだ。それは、今この温室に満ちているような、優しくて清らかな香りだった」
彼の声は、遠い過去を懐かしむように穏やかだった。
「後に聞いた話だ。私の部下の一人が、施療院で匿名で配られていたという『熱病に効くポプリ』を偶然手に入れ、私の枕元に置いたらしい。そのポプリのお陰で、私は奇跡的に一命を取り留めた。侍医たちは首を傾げるばかりだったがな」
リリアンジェは、はっとした。五年前、彼女は確かに熱病に効くと言われる薬草をブレンドし、母を通じて施療院に寄付していた。
「そのポプリを作ったのが誰なのか、私はずっと探していた。そして、ようやく突き止めたんだ。それが、クラインフェルター伯爵家の令嬢、リリアンジェ……君だったということを」
ゼファニヤは懐から、古びた小さな刺繍の袋を取り出した。それは紛れもなく、リリアンジェが作ったポプリの袋だった。
「君は私の命の恩人だ。だが、私が君を求めるのは、それだけが理由ではない。君の優しさ、聡明さ、そして誰にも知られず善行を施すその高潔な魂に、私は心から惹かれているんだ。カシウスのような男に、君を渡すことなどできるはずがなかった」
予想もしなかった告白に、リリアンジェは言葉を失った。自分のささやかな行いが、彼の命を救っていたなんて。そして、彼はその時からずっと、自分のことを見ていてくれたなんて。
「だから、リリア。もう一度だけ、チャンスをくれないか。君のその閉ざされた心を、私が必ず溶かしてみせる。君が信じられる唯一の男に、私がなってみせる」
彼の瞳には、一点の曇りもない真摯な光が宿っていた。
リリアンジェの心の中に、凍てついていた何かが、ポロリと音を立てて剥がれ落ちたような気がした。
様々なハーブの香りが満ちる中、彼女は慣れた手つきで土をいじり、薬草の手入れをしていた。カモミール、ラベンダー、レモンバーム。指先で葉に触れると、心地よい香りが立ち上る。この香りを嗅いでいる時だけは、嫌なことを忘れられた。
不意に、温室の扉が開く音がした。振り返ると、そこに立っていたのはゼファニヤだった。
「……公爵様。どうしてここが」
「君の執事に聞いた。君が最も大切にしている場所だと」
彼はゆったりとした足取りで中へ入ってくると、興味深そうに様々な薬草を眺めた。
「見事なものだな。これほど多くの種類を、完璧な状態で育て上げるとは」
「お恥ずかしい限りです。貴族令嬢の趣味としては、あまり褒められたものではございませんので」
リリアンジェは俯きながら言った。
「誰がそんなことを決めた? 私は素晴らしいと思う。これはただの趣味ではない。深い知識と愛情がなければ、これだけのものは育てられない」
ゼファニヤは一株の植物の前で足を止め、その葉にそっと触れた。
「これは……『セラフィナイト』か。珍しい。幻の薬草とまで言われているものだ」
リリアンジェは驚いて顔を上げた。セラフィナイトは、心の傷を癒す効果があると古文書に記されているが、育成が非常に難しく、ほとんど市場に出回らない薬草だった。
「ご存知なのですか?」
「ああ。少しだけ、心得がある」
ゼファニヤは穏やかな表情で言った。いつも社交界で見せる冷たい仮面のような表情とは全く違う、柔らかな微笑みだった。リリアンジェは、初めて彼の違う一面を見た気がして、ドキリとした。
「もしよろしければ……お茶でもいかがですか。私がブレンドしたハーブティーですが」
気づけば、自然とそんな言葉が口をついていた。
「ぜひ、いただこう」
温室の一角にある小さなテーブルで、二人は向かい合って座った。リリアンジェが淹れたカモミールとリンデンのブレンドティーの湯気が、優しく立ち上る。
「……美味しい」
ゼファニヤはカップを口に運び、目を細めた。
「君の淹れる茶は、心が安らぐ。まるで魔法のようだ」
「そんな……ただの薬草の力ですわ」
「いや、君の力だ」
彼は真っ直ぐに彼女を見つめて言った。 「リリア。君に、話しておきたいことがある。私がなぜ、これほど君に執着するのか」
リリアンジェは息を呑んで、彼の次の言葉を待った。
「今から五年ほど前、私は遠征先で熱病に倒れた。王宮の侍医たちも匙を投げ、誰もが私の死を覚悟したそうだ。意識が朦朧とする中、私はある香りを嗅いだ。それは、今この温室に満ちているような、優しくて清らかな香りだった」
彼の声は、遠い過去を懐かしむように穏やかだった。
「後に聞いた話だ。私の部下の一人が、施療院で匿名で配られていたという『熱病に効くポプリ』を偶然手に入れ、私の枕元に置いたらしい。そのポプリのお陰で、私は奇跡的に一命を取り留めた。侍医たちは首を傾げるばかりだったがな」
リリアンジェは、はっとした。五年前、彼女は確かに熱病に効くと言われる薬草をブレンドし、母を通じて施療院に寄付していた。
「そのポプリを作ったのが誰なのか、私はずっと探していた。そして、ようやく突き止めたんだ。それが、クラインフェルター伯爵家の令嬢、リリアンジェ……君だったということを」
ゼファニヤは懐から、古びた小さな刺繍の袋を取り出した。それは紛れもなく、リリアンジェが作ったポプリの袋だった。
「君は私の命の恩人だ。だが、私が君を求めるのは、それだけが理由ではない。君の優しさ、聡明さ、そして誰にも知られず善行を施すその高潔な魂に、私は心から惹かれているんだ。カシウスのような男に、君を渡すことなどできるはずがなかった」
予想もしなかった告白に、リリアンジェは言葉を失った。自分のささやかな行いが、彼の命を救っていたなんて。そして、彼はその時からずっと、自分のことを見ていてくれたなんて。
「だから、リリア。もう一度だけ、チャンスをくれないか。君のその閉ざされた心を、私が必ず溶かしてみせる。君が信じられる唯一の男に、私がなってみせる」
彼の瞳には、一点の曇りもない真摯な光が宿っていた。
リリアンジェの心の中に、凍てついていた何かが、ポロリと音を立てて剥がれ落ちたような気がした。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
寵愛の花嫁は毒を愛でる~いじわる義母の陰謀を華麗にスルーして、最愛の公爵様と幸せになります~
紅葉山参
恋愛
アエナは貧しい子爵家から、国の英雄と名高いルーカス公爵の元へと嫁いだ。彼との政略結婚は、彼の底なしの優しさと、情熱的な寵愛によって、アエナにとってかけがえのない幸福となった。しかし、その幸福を妬み、毎日のように粘着質ないじめを繰り返す者が一人、それは夫の継母であるユーカ夫人である。
「たかが子爵の娘が、公爵家の奥様面など」 ユーカ様はそう言って、私に次から次へと理不尽な嫌がらせを仕掛けてくる。大切な食器を隠したり、ルーカス様に嘘の告げ口をしたり、社交界で恥をかかせようとしたり。
だが、私は決して挫けない。愛する公爵様との穏やかな日々を守るため、そして何より、彼が大切な家族と信じているユーカ様を悲しませないためにも、私はこの毒を静かに受け流すことに決めたのだ。
誰も気づかないほど巧妙に、いじめを優雅にスルーするアエナ。公爵であるあなたに心配をかけまいと、彼女は今日も微笑みを絶やさない。しかし、毒は徐々に、確実に、その濃度を増していく。ついに義母は、アエナの命に関わるような、取り返しのつかない大罪に手を染めてしまう。
愛と策略、そして運命の結末。この溺愛系ヒロインが、華麗なるスルー術で、最愛の公爵様との未来を掴み取る、痛快でロマンティックな物語の幕開けです。
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる