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静寂の歌姫と冷徹公爵の契約婚
第2章:静寂の公爵
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屈辱と絶望に、リリアンヌの膝が折れそうになった、その時だった。
「――随分と、下らない茶番を見せてくれる」
低く、それでいてホール全体に響き渡るような声が、全ての雑音を切り裂いた。その声の主が現れた瞬間、あれほど騒がしかった会場が、水を打ったように静まり返る。
そこに立っていたのは、ゼファー・フォン・ヴァルハイト公爵。
漆黒の髪に、凍てつくような蒼い瞳。影の王、氷の公爵とまで呼ばれ、王族さえも一目置く、この国一番の権力者。彼が夜会に姿を現すこと自体が稀であり、その存在は畏怖の対象だった。
「ヴ、ヴァルハイト公爵閣下……!?」
アレクシスが狼狽した声を上げる。ゼファーは、その美しい顔に何の感情も浮かべず、ゆっくりとリリアンヌの方へ歩みを進めた。そして、彼女の前に立つと、跪くように片膝をついたのだ。
信じられない光景に、誰もが息を呑んだ。
「リリアンヌ・クワイエット嬢。酷く怯えているようだ。私の手を取ってもらえないだろうか」
差し出されたのは、白い手袋に包まれた、大きく、節くれだった男の手。リリアンヌは、目の前で起きていることが理解できず、ただ呆然と彼を見つめるだけだった。
「……なぜ、私に?」
「なぜ、か。君が求めるなら、どんな理由でもつけてやろう。だが今は、その震えを止める方が先決だ」
ゼファーの声には、不思議な説得力があった。リリアンヌは、まるで引き寄せられるように、おそるおそるその手に自分の指を重ねる。力強く、それでいて優しい温もりが、彼女の冷え切った心をじんわりと溶かしていくようだった。
ゼファーはリリアンヌの手を取り、静かに立ち上がらせると、アレクシスとイザベラを一瞥した。その視線は、絶対零度の刃のように鋭い。
「ロシュフォールの子息。貴様の判断は、貴様の家の未来を閉ざしたも同然だ。覚えておけ」
「なっ……! それはどういう……!」
「愚か者には、いずれわかる。――そして、リリアンヌ嬢」
ゼファーは再びリリアンヌに向き直る。
「君との婚約が破棄されたというのなら、好都合だ。リリアンヌ・クワイエット嬢。私、ゼファー・フォン・ヴァルハイトが、君を新たな婚約者として迎え入れたい。否、これは決定だ」
「な……!?」
「なんですって!?」
アレクシスとイザベラだけでなく、会場にいた全ての人間が驚愕に目を見開いた。
「閣下! お待ちください! そのような……この女は、何の力もない無能なのですよ!?」
「黙れ」
ゼファーの一言で、アレクシスの言葉は途切れた。
「彼女の価値がわからぬ貴様こそが無能だ。これ以上、私の婚約者を愚弄するならば、ロシュフォール家そのものを、この国から消し去ることになるぞ」
それは、紛れもない脅迫だった。しかし、それを実行できるだけの力を、この男は持っている。アレクシスは顔面蒼白になり、それ以上何も言えなくなった。
「行くぞ、リリアンヌ」
ゼファーは、まだ状況が飲み込めていないリリアンヌの腰を抱き、ゆっくりと歩き出す。モーゼの十戒のように、人々が道を開けていく。その腕の力強さと、背中に感じる確かな温もりに、リリアンヌは意識が遠のくのを感じていた。
「――随分と、下らない茶番を見せてくれる」
低く、それでいてホール全体に響き渡るような声が、全ての雑音を切り裂いた。その声の主が現れた瞬間、あれほど騒がしかった会場が、水を打ったように静まり返る。
そこに立っていたのは、ゼファー・フォン・ヴァルハイト公爵。
漆黒の髪に、凍てつくような蒼い瞳。影の王、氷の公爵とまで呼ばれ、王族さえも一目置く、この国一番の権力者。彼が夜会に姿を現すこと自体が稀であり、その存在は畏怖の対象だった。
「ヴ、ヴァルハイト公爵閣下……!?」
アレクシスが狼狽した声を上げる。ゼファーは、その美しい顔に何の感情も浮かべず、ゆっくりとリリアンヌの方へ歩みを進めた。そして、彼女の前に立つと、跪くように片膝をついたのだ。
信じられない光景に、誰もが息を呑んだ。
「リリアンヌ・クワイエット嬢。酷く怯えているようだ。私の手を取ってもらえないだろうか」
差し出されたのは、白い手袋に包まれた、大きく、節くれだった男の手。リリアンヌは、目の前で起きていることが理解できず、ただ呆然と彼を見つめるだけだった。
「……なぜ、私に?」
「なぜ、か。君が求めるなら、どんな理由でもつけてやろう。だが今は、その震えを止める方が先決だ」
ゼファーの声には、不思議な説得力があった。リリアンヌは、まるで引き寄せられるように、おそるおそるその手に自分の指を重ねる。力強く、それでいて優しい温もりが、彼女の冷え切った心をじんわりと溶かしていくようだった。
ゼファーはリリアンヌの手を取り、静かに立ち上がらせると、アレクシスとイザベラを一瞥した。その視線は、絶対零度の刃のように鋭い。
「ロシュフォールの子息。貴様の判断は、貴様の家の未来を閉ざしたも同然だ。覚えておけ」
「なっ……! それはどういう……!」
「愚か者には、いずれわかる。――そして、リリアンヌ嬢」
ゼファーは再びリリアンヌに向き直る。
「君との婚約が破棄されたというのなら、好都合だ。リリアンヌ・クワイエット嬢。私、ゼファー・フォン・ヴァルハイトが、君を新たな婚約者として迎え入れたい。否、これは決定だ」
「な……!?」
「なんですって!?」
アレクシスとイザベラだけでなく、会場にいた全ての人間が驚愕に目を見開いた。
「閣下! お待ちください! そのような……この女は、何の力もない無能なのですよ!?」
「黙れ」
ゼファーの一言で、アレクシスの言葉は途切れた。
「彼女の価値がわからぬ貴様こそが無能だ。これ以上、私の婚約者を愚弄するならば、ロシュフォール家そのものを、この国から消し去ることになるぞ」
それは、紛れもない脅迫だった。しかし、それを実行できるだけの力を、この男は持っている。アレクシスは顔面蒼白になり、それ以上何も言えなくなった。
「行くぞ、リリアンヌ」
ゼファーは、まだ状況が飲み込めていないリリアンヌの腰を抱き、ゆっくりと歩き出す。モーゼの十戒のように、人々が道を開けていく。その腕の力強さと、背中に感じる確かな温もりに、リリアンヌは意識が遠のくのを感じていた。
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