婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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夜陰の皇帝に娶られた荊姫

第二章:夜陰の抱擁

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しん、と静まり返ったホールに、カシアン皇帝の言葉が冷たく響き渡る。
私のものになれ。
それは、求婚の言葉だろうか。いや、違う。まるで、道端に落ちている美しい石を拾い上げるような、あまりにも傲慢で、一方的な宣言だった。

「…恐れながら、陛下。お言葉の意味を、測りかねます」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
カシアン皇帝は、私の動揺を楽しんでいるかのように、その美しい唇の端を微かに吊り上げた。
「言葉通りの意味だ。捨てられたのであろう? ならば、私が拾ってやろうと言っている」
「なっ…! わ、私はセラフィナを捨てたわけでは…!」
ゼフィランサスが慌てて口を挟むが、カシアン皇帝は冷たい視線の一瞥だけで彼を黙らせた。その瞳は、虫けらを見るかのごとく冷え切っていた。

「貴様は、己が手放したものの価値を理解していないらしいな。この女は、ただの氷の人形ではない。…その内には、燃え盛る炎と、決して折れぬ鋼の芯を隠し持っている。磨けば、どんな宝石よりも眩い光を放つだろう。貴様には、それを磨く才覚も資格もなかった。それだけのことだ」

皇帝の言葉に、私は息を呑んだ。
燃え盛る炎? 鋼の芯? 誰も、私のことをそのように評した者はいなかった。父でさえ、母でさえ、私を「感情の乏しい、扱いやすい娘」としか見ていなかったはずだ。この人は、なぜ。

カシアン皇帝は、白い手袋に包まれた手を、そっと私に差し出した。
「さあ、来い。セラフィナ。私と共に、ナイトレイヴン帝国へ」
その手を取れば、もう二度と故郷には戻れないだろう。家族も、友人も、全てを捨てることになる。だが、この国に、私に居場所などもうないではないか。婚約を破棄された侯爵令嬢。その烙印を押された私を、人々は憐れみ、嘲笑うだろう。

私は、目の前の男を見上げた。血のように赤い瞳。けれど、その奥に揺らめく光は、不思議と恐ろしくはなかった。むしろ、それは凍てついた私の心を溶かす、遠い灯火のようにさえ思えた。

私はゆっくりと、差し出されたその手を取った。
皇帝の手に引かれ、彼の隣に並び立つ。
「賢明な判断だ」
カシアン皇帝は満足げに頷くと、呆然と立ち尽くすゼフィランサスと、その腕の中で震えるイソベラを一瞥した。
「せいぜい、その『真実の愛』とやらを全うするがいい。だが、覚えておけ。貴様らが捨てたものが、いずれ天を衝く光となろうとも、二度と手を伸ばすことは許されぬ」

その言葉を最後に、彼は私を伴ってホールを後にした。残された人々の唖然とした視線を背中に感じながら、私は一度も振り返らなかった。



ナイトレイヴン帝国の帝都ノクターンは、私の故郷とは何もかもが違っていた。黒を基調とした荘厳な建物が立ち並び、街を行く人々は活気に満ちている。空気は澄み渡り、空はどこまでも高く青い。
私がカシアン皇帝――陛下に与えられたのは、帝城の一角にある『月影宮』と呼ばれる離宮だった。豪奢でありながら、どこか静謐で落ち着いた雰囲気に満ちている。

「ここを、お前の住まいとする。何不自由なく暮らせるよう、万事手配は済ませてある。必要なものがあれば、侍女頭のセレスに何なりと申し付けよ」
離宮の広間で、陛下はそう淡々と告げた。
「…陛下。どうして、私を?」
ずっと胸の中にあった疑問を、私は恐る恐る口にした。
「なぜ、見ず知らずの私に、これほどまでのご厚意を?」

陛下は窓辺に歩み寄り、帝都の景色を見下ろした。その背中は、あまりにも広く、そして孤独に見えた。
「言ったはずだ。お前が、気に入ったからだ」
「それだけの…理由で?」
「それだけで、十分だろう」
彼は振り返ると、私のそばまで歩み寄ってきた。その赤い瞳が、じっと私を見つめる。
「私は、欲しいと思ったものは必ず手に入れる。手段は選ばん。…だが、安心しろ。危害を加えるつもりはない。お前は私の客人だ。鳥かごの中の鳥ではない。この帝国内であれば、どこへ行こうとお前の自由だ」

そう言うと、彼は私の頬にそっと触れた。その指先は、彼の印象に反して驚くほど温かかった。
「今はただ、ゆっくりと傷を癒すがいい。セラフィナ」
私の名を呼ぶ彼の声は、夜の静寂のように優しく、私の心に染み渡っていった。

その日から、私の新たな生活が始まった。
陛下は言葉通り、私に何一つ不自由させなかった。美しいドレス、輝く宝石、山海の珍味を尽くした食事。私が少しでも書物に興味を示せば、翌日には皇室図書館の全ての蔵書が閲覧できるよう手配された。
そして何より私を驚かせたのは、陛下が毎晩のように月影宮を訪れ、私と共に夕食をとることだった。

「今日の昼間は、何をしていた?」
彼は食事をしながら、穏やかな声で尋ねる。
「皇室図書館で、古代魔法に関する文献を読んでおりました。とても興味深い記述が…」
「ほう。どんな記述だ?」
私が夢中で話す内容を、彼は決して退屈そうな顔をせず、真剣に耳を傾けてくれる。時には鋭い質問を投げかけ、私の知識をさらに引き出そうとすることもあった。

誰も興味を示さなかった私の知的好奇心を、この人は面白いと感じてくれる。それが、くすぐったく、そして嬉しかった。
ゼフィランサスは、私が本を読んでいるといつも嫌な顔をした。「女は小難しくある必要はない」と。彼が求めていたのは、彼の隣でただ微笑んでいるだけの、美しい人形だったのだ。

「陛下は…どうして、いつもお一人で食事をなさらないのですか?」
ある夜、私は思い切って尋ねてみた。
「これまでは、そうだった」
彼はワイングラスを傾けながら、静かに答えた。
「食事は、ただ生命を維持するための作業に過ぎなかった。…だが、今は違う」
彼はグラスを置き、私のことを見つめた。その赤い瞳には、今まで見たことのない熱が宿っている。
「お前と共にいると、食事が美味いと感じる。退屈な時間が、彩り豊かになる。…お前は、私の灰色の世界に、色を与えてくれた」

その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
この人は、私を必要としてくれている。
氷の人形だと、感情がないと蔑まれた私を。
その事実が、凍てついていた私の心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていくのを感じていた。
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