婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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残響のワルツと、始まりのプレリュード

第二章:冬の王のプレリュード

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キャスピアン大公は、まるで闇そのものを切り取って仕立てたような漆黒の礼装を身に纏い、喧騒の中心にありながら、彼一人の周りだけが静寂に包まれているかのような、異質な存在感を放っていた。
長くしなやかな指でワイングラスを傾けながら、その氷河のように青い瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。

彼が動く。人々が、モーセの前の海のように割れる。
彼は私の目の前まで歩み寄ると、私の手を取り、その甲にまるで長年渇望していた宝物に触れるかのように、そっと唇を寄せた。

「今宵の月は、貴女の気高さを照らすために昇っているようだ。セラフィナ嬢」
その声は、囁くように甘く、それでいて絶対的な自信に満ちていた。
「……キャスピアン大公。ごきげんよう」
私は平静を装いながらも、その予期せぬ行動に動揺を隠せなかった。社交界にほとんど顔を出さない彼が、なぜここに。そして、なぜ私に。

キャスピアンは私の手を取ったまま、侮蔑の色を隠そうともせずに、呆然と立ち尽くすアラリックを一瞥した。
「ヴァイスブルク公爵。素晴らしい演説だった。愚かさと視野の狭さを、あれほど雄弁に語れる者を私は他に知らん」
「なっ……! ラ・ヴェルハルト大公、何のつもりだ!」
アラリックが顔を赤くして叫ぶが、キャスピアンは意にも介さない。

「何のつもり、か。そうだな……」
彼は再び私に視線を戻すと、その青い瞳に熱を宿して言った。
「私は、ダイヤモンドの原石が、価値も分からぬ者の手で泥の中に捨て置かれるのを見るのが、我慢ならない性分でね」
「原石……?」
「貴女のことだ、セラフィナ嬢。貴女の聡明さ、その誇り高い魂。危機に瀕してもなお失われぬ輝き。それらは、痩せた土地を耕すことしか能のない男には過ぎた代物だ」

彼は、私を褒めている。この、帝国中の人間が見ている前で。婚約を破棄され、公衆の面前で恥をかかされたばかりの私を。
そして、その言葉はただの慰めや同情ではなかった。彼の瞳は、私の価値を正確に理解し、それを正当に評価していると告げていた。

「セラフィナ嬢。私は、君という『鳥』を飾るだけの金鍍金の鳥籠には興味がない。私が君に用意したいのは、君が望む世界のどこへでも飛んでいける、翼そのものだ」
「……翼、ですって?」
「ああ。君の知性と交渉術は、アンダルシアの温室で燻らせておくにはあまりに惜しい。私の事業、私の世界で、その力を振るってみる気はないか? もちろん、私の隣で」

それは、求婚の言葉だった。
あまりに突飛で、あまりに劇的で、あまりに……蠱惑的な。
婚約破棄の直後に、別の男からプロポーズされるなど、前代未聞だ。

「キャスピアン大公、貴方は正気ですか。私は今、醜聞の渦中にいるのですよ」
「醜聞? あれはヴァイスブルク公爵の愚行の記録であって、君の価値を何ら貶めるものではない。むしろ、君が自由になったことを神に感謝している」
「……なぜ、そこまで」
私の問いに、彼は初めて少しだけ、表情を和らげた。それはまるで、長い冬の終わりに、凍てついた大地から芽吹く若葉のような、儚くも力強い微笑みだった。

「初めて貴女を見たのは、三年前の慈善会議の席だった。領地の問題を、数字と法とロジックで淡々と、しかし誰よりも熱意をもって語る貴女の姿に、私は心を奪われた。ずっと、見ていた。アラリック・フォン・ヴァイスブルクという凡庸な男の隣で、その輝きを押し殺している貴女を」

三年前。そんな前から?
私は思い出す。父の名代として出席した会議。誰もが感情論や慣習に囚われる中、私はただ、どうすれば最も効率的に問題を解決できるか、それだけを考えてデータを基に発言した。あの時のことを、覚えていてくれた人がいたなんて。

「セラフィナ嬢。私と来るか? それとも、ここで一人、夜の闇に消えるか?」
彼は選択を迫る。
アラリックとの婚約は、安定と退屈が約束された道だった。
一人で生きる道は、自由だが、あまりに険しい茨の道だろう。
そして、キャスピアンの隣。それは、全くの未知。激しい嵐の海に漕ぎ出すようなものかもしれない。けれど……。

私の心は、決まっていた。
もう、誰かに用意された道を歩むのは終わりだ。
この手で、未来を掴む。

「……大公閣下。貴方のそのお言葉、謹んでお受けいたします」
私は、キャスピアンの手を強く握り返した。
「ただし、結婚を前提としたお付き合いから、始めさせていただけますでしょうか。わたくし、少々、性急な『運命』には懲りておりまして」
私の皮肉めいた言葉に、キャスピアンは心底楽しそうに、声を上げて笑った。

「もちろんだ、我が至高の君(マイ・ディア)。君が望むなら、百年だって待とう」

彼はそう言うと、私の手を引き、呆然と立ち尽くす人々の中を悠然と歩き始めた。
アラリックの絶望と後悔に歪んだ顔も、リリアナの信じられないといった表情も、もう私の目には映らなかった。
私の世界には、ただ、私をしっかりと支えるこの大きな手と、彼の背中の向こうに広がる、まだ見ぬ未来だけが輝いていた。
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