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残響のワルツと、始まりのプレリュード
第三章:甘すぎる溺愛の檻
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キャスピアン・ラ・ヴェルハルト大公との、奇妙な関係が始まった。
彼は約束通り、私を公の婚約者としてではなく、「事業における特別なパートナー」として扱った。しかし、その実態は、帝国中の誰もが「事実上の婚約者」と見なすのに十分すぎるものだった。
翌朝、アンダルシア公爵邸に届けられたのは、巨大なガラス張りの温室だった。
「昨夜のパーティー会場のテラスで、珍しい夜来香(イエライシャン)の香りを愛でていらっしゃったでしょう。世界中の夜に咲く花を集めました。貴女だけの、秘密の庭です」
手紙には、ただそれだけが書かれていた。私が婚約破棄のショックを紛らわすために、ほんの数分、テラスで花の香りを嗅いでいたことまで、彼はお見通しだったのだ。
その翌日には、帝国一のドレス職人が、山のような生地見本と共に現れた。
「キャスピアン大公より、『セラフィナ様のこれからの人生を彩る全ての衣装を、貴女に一任する』と」
職人は目を輝かせて言った。事実上、私のお抱えになったも同然だった。
さらに、私の私室には、古今東西の書物が運び込まれた。経済学、法学、歴史書、最新の論文。
「貴女の知的好奇心を満たせるように。議論の相手は、いつでも私が務めよう」
キャスピアンからのメッセージは、いつも簡潔で、的確に私の心を射抜いた。
彼の「溺愛」は、甘いだけではなかった。
彼は私を美しい人形のように飾り立てるだけでは満足しなかったのだ。
週に三度、私たちは彼の書斎で二人きりの時間を過ごした。議題は、彼の経営する鉱山の新しい採掘技術についてだったり、新航路の開拓に関する地政学的リスクについてだったりした。
「セラフィナ。君なら、この状況をどう見る?」
彼は常に私の意見を求めた。対等なパートナーとして。
「ここの組合との交渉ですが、賃上げ要求だけが問題の本質ではないように思えます。彼らの子供たちのための学校建設を提案してはいかがでしょう。長期的な視点で見れば、それは未来の優秀な労働力への投資となります」
「……素晴らしい。その視点はなかった」
彼は心からの感嘆の声を漏らし、すぐに指示を出す。私の提案が、瞬く間に現実のものとなっていく。
その手際の良さ、決断の速さ。アラリックとは何もかもが違った。
しかし、満たされれば満たされるほど、私の心には小さな棘が刺さっていく。
これは、本当に私の力なのだろうか。
キャスピアンという、絶対的な権力と富を持つ男性の庇護の下で、安全な場所から意見を述べているだけではないのか。
彼の与えてくれる翼は、あまりに大きく、あまりに豪華で、自分の力で羽ばたいているという実感が持てなかった。
彼の甘い溺愛は、形を変えた、居心地の良い檻なのではないか。
そんなある夜、私たちは書斎でチェスを指していた。
私が巧みな罠を仕掛け、彼のキングを追い詰めた時だった。
「チェックメイトですわ、大公閣下」
「見事だ。また私の負けか」
彼は全く悔しそうでもなく、優雅に駒を倒した。
「……キャスピアン様」
「なんだい? 我が知恵の女神よ」
その甘い呼び名に、私は胸のざわつきを抑えきれなかった。
「わたくしは、貴方の女神でも、お人形でもありません」
「ほう?」
彼の青い瞳が、興味深そうに私を見つめる。
「貴方の与えてくださるもの全てに、心から感謝しています。ですが、わたくしは……自分の足で立ちたいのです。貴方が舗装してくださった道を歩くのではなく、たとえ茨の道でも、自分の力で切り拓きたい」
これは賭けだった。彼を失望させるかもしれない。彼のプライドを傷つけるかもしれない。
しかし、これ以上、彼の庇護の中に安住していては、私は私でなくなってしまう。
キャスピアンは、黙って私の言葉を聞いていた。
長い、息の詰まるような沈黙の後、彼はおもむろに立ち上がり、私の隣に来ると、ひざまずいた。
「……キャスピアン様!?」
大公が、臣下の前ですら跪くことなどありえない。
彼は私の手を取り、その額に押し当てた。
「セラフィナ……。ああ、やはり君は、私の思った通りの女性だ」
彼の声は、歓喜に打ち震えていた。
「君がその言葉を口にするのを、ずっと待っていた」
「え……?」
「君を甘やかし、全てを与えたのは、君がそれに溺れるような凡庸な女ではないと、信じていたからだ。だが、同時に試してもいた。君がこの甘い檻に満足してしまうのなら、それもまた一つの幸福の形だろうと。しかし君は、自ら檻を蹴破ろうとした」
彼は顔を上げ、その瞳はかつてないほどの熱情に燃えていた。
「セラフィナ。許してほしい。君を試すような真似をしたことを。だが、これで確信した。君こそは、私の唯一無二のパートナーだ。私と並び立ち、共に世界を見てくれる、たった一人の女性だ」
彼の告白に、私の心の棘が、すうっと溶けていくのが分かった。
彼は、私を試していた。そして私は、そのテストに合格したのだ。
これは、庇護ではない。対等な関係を築くための、彼なりの儀式だったのだ。
「……意地の悪いお方」
涙声でそう言うのが、精一杯だった。
「ああ。私は欲張りなんだ。君の全てが欲しい。その誇りも、その反骨心も、その涙さえも」
彼は立ち上がると、そっと私の涙を指で拭い、初めて、その唇を私の唇に重ねた。
それは、嵐のように激しく、それでいてどこまでも優しい、始まりのキスだった。
彼は約束通り、私を公の婚約者としてではなく、「事業における特別なパートナー」として扱った。しかし、その実態は、帝国中の誰もが「事実上の婚約者」と見なすのに十分すぎるものだった。
翌朝、アンダルシア公爵邸に届けられたのは、巨大なガラス張りの温室だった。
「昨夜のパーティー会場のテラスで、珍しい夜来香(イエライシャン)の香りを愛でていらっしゃったでしょう。世界中の夜に咲く花を集めました。貴女だけの、秘密の庭です」
手紙には、ただそれだけが書かれていた。私が婚約破棄のショックを紛らわすために、ほんの数分、テラスで花の香りを嗅いでいたことまで、彼はお見通しだったのだ。
その翌日には、帝国一のドレス職人が、山のような生地見本と共に現れた。
「キャスピアン大公より、『セラフィナ様のこれからの人生を彩る全ての衣装を、貴女に一任する』と」
職人は目を輝かせて言った。事実上、私のお抱えになったも同然だった。
さらに、私の私室には、古今東西の書物が運び込まれた。経済学、法学、歴史書、最新の論文。
「貴女の知的好奇心を満たせるように。議論の相手は、いつでも私が務めよう」
キャスピアンからのメッセージは、いつも簡潔で、的確に私の心を射抜いた。
彼の「溺愛」は、甘いだけではなかった。
彼は私を美しい人形のように飾り立てるだけでは満足しなかったのだ。
週に三度、私たちは彼の書斎で二人きりの時間を過ごした。議題は、彼の経営する鉱山の新しい採掘技術についてだったり、新航路の開拓に関する地政学的リスクについてだったりした。
「セラフィナ。君なら、この状況をどう見る?」
彼は常に私の意見を求めた。対等なパートナーとして。
「ここの組合との交渉ですが、賃上げ要求だけが問題の本質ではないように思えます。彼らの子供たちのための学校建設を提案してはいかがでしょう。長期的な視点で見れば、それは未来の優秀な労働力への投資となります」
「……素晴らしい。その視点はなかった」
彼は心からの感嘆の声を漏らし、すぐに指示を出す。私の提案が、瞬く間に現実のものとなっていく。
その手際の良さ、決断の速さ。アラリックとは何もかもが違った。
しかし、満たされれば満たされるほど、私の心には小さな棘が刺さっていく。
これは、本当に私の力なのだろうか。
キャスピアンという、絶対的な権力と富を持つ男性の庇護の下で、安全な場所から意見を述べているだけではないのか。
彼の与えてくれる翼は、あまりに大きく、あまりに豪華で、自分の力で羽ばたいているという実感が持てなかった。
彼の甘い溺愛は、形を変えた、居心地の良い檻なのではないか。
そんなある夜、私たちは書斎でチェスを指していた。
私が巧みな罠を仕掛け、彼のキングを追い詰めた時だった。
「チェックメイトですわ、大公閣下」
「見事だ。また私の負けか」
彼は全く悔しそうでもなく、優雅に駒を倒した。
「……キャスピアン様」
「なんだい? 我が知恵の女神よ」
その甘い呼び名に、私は胸のざわつきを抑えきれなかった。
「わたくしは、貴方の女神でも、お人形でもありません」
「ほう?」
彼の青い瞳が、興味深そうに私を見つめる。
「貴方の与えてくださるもの全てに、心から感謝しています。ですが、わたくしは……自分の足で立ちたいのです。貴方が舗装してくださった道を歩くのではなく、たとえ茨の道でも、自分の力で切り拓きたい」
これは賭けだった。彼を失望させるかもしれない。彼のプライドを傷つけるかもしれない。
しかし、これ以上、彼の庇護の中に安住していては、私は私でなくなってしまう。
キャスピアンは、黙って私の言葉を聞いていた。
長い、息の詰まるような沈黙の後、彼はおもむろに立ち上がり、私の隣に来ると、ひざまずいた。
「……キャスピアン様!?」
大公が、臣下の前ですら跪くことなどありえない。
彼は私の手を取り、その額に押し当てた。
「セラフィナ……。ああ、やはり君は、私の思った通りの女性だ」
彼の声は、歓喜に打ち震えていた。
「君がその言葉を口にするのを、ずっと待っていた」
「え……?」
「君を甘やかし、全てを与えたのは、君がそれに溺れるような凡庸な女ではないと、信じていたからだ。だが、同時に試してもいた。君がこの甘い檻に満足してしまうのなら、それもまた一つの幸福の形だろうと。しかし君は、自ら檻を蹴破ろうとした」
彼は顔を上げ、その瞳はかつてないほどの熱情に燃えていた。
「セラフィナ。許してほしい。君を試すような真似をしたことを。だが、これで確信した。君こそは、私の唯一無二のパートナーだ。私と並び立ち、共に世界を見てくれる、たった一人の女性だ」
彼の告白に、私の心の棘が、すうっと溶けていくのが分かった。
彼は、私を試していた。そして私は、そのテストに合格したのだ。
これは、庇護ではない。対等な関係を築くための、彼なりの儀式だったのだ。
「……意地の悪いお方」
涙声でそう言うのが、精一杯だった。
「ああ。私は欲張りなんだ。君の全てが欲しい。その誇りも、その反骨心も、その涙さえも」
彼は立ち上がると、そっと私の涙を指で拭い、初めて、その唇を私の唇に重ねた。
それは、嵐のように激しく、それでいてどこまでも優しい、始まりのキスだった。
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