婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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残響のワルツと、始まりのプレリュード

第四章:後悔のレクイエム

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一方、アラリック・フォン・ヴァイスブルク公爵は、泥沼の中にいた。
リリアナの実家であるマーグレット家からの資金援助は、彼が期待したほどのものではなかった。男爵家は確かに裕福だったが、歴史ある公爵家の負債を完全に埋め合わせるほどの力はなかったのだ。
それどころか、成金趣味の男爵は、娘が公爵夫人になったことを笠に着て、領地の運営にまで口を出す始末。

「アラリック様、もっと華やかな舞踏会を開きましょう!」「新しい離宮を建ててくだされば、父も喜びますわ!」
リリアナは悪気なくそうねだるが、その一言一句が、アラリックの心を苛んだ。
セラフィナなら、こんなことは言わなかっただろう。彼女は常に、領地の財政を把握し、無駄な支出を誰よりも嫌っていた。祝祭よりも、領民のための堤防の修繕を優先するような女だった。

そして何よりアラリックを苦しめたのは、日増しに高まるセラフィナの評判だった。
『冬の王』キャスピアン大公のパートナーとして、彼女は水を得た魚のようにその才能を開花させていた。
彼女が提案した新しい貿易協定は、停滞していた南部の経済を劇的に活性化させた。
彼女が設立を主導した孤児院と学校は、多くの貴族たちの共感を呼び、一種の社会現象にまでなっていた。
人々はもはや彼女を「婚約破棄された可哀想な令嬢」とは見ていない。「帝国を動かす、最も聡明な女性」として、尊敬と羨望の眼差しを向けていた。

ある王家の晩餐会で、アラリックは久しぶりにセラフィナの姿を見た。
キャスピアン大公の隣で、各国の要人たちと堂々と渡り合う彼女は、もはや彼の知るセラフィナではなかった。
かつて彼女が纏っていた、どこか窮屈そうな完璧さは消え、自信と喜びに満ち溢れた輝きを放っていた。それは、彼が与えることのできなかった輝きだった。

キャスピアンが、愛おしげに彼女の髪に触れる。
セラフィナが、信頼しきった笑顔で彼を見上げる。
その光景は、鋭いナイフのようにアラリックの胸を抉った。

なぜ、手放してしまったのだろう。
いや、そもそも、自分は彼女を本当に「手に入れて」いたのだろうか。
彼女の価値を、その知性も、魂の気高さも、何一つ理解していなかった。ただ、アンダルシア公爵家の後ろ盾という「価値」しか見ていなかった。
ダイヤモンドの原石を、ただの石ころだと思って捨てたのは、自分自身だったのだ。

晩餐会が終わり、彼は衝動的にセラフィナを追いかけた。
庭園で、キャスピアンと二人、月の下で語らう彼女の背中に、彼は声をかけた。
「……セラフィナ」

振り返った彼女の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、知らない人を見るような、静かな光があるだけだった。
隣のキャスピアンが、威圧的なオーラを放ち、一歩前に出る。
「ヴァイスブルク公爵。我々の時間に、何か用かね」
「……セラフィナに、一言謝りたくて」
アラリックは、絞り出すように言った。

すると、セラフィナがキャスピアンをそっと制し、アラリックに向き直った。
「謝罪など、必要ありませんわ、アラリック様」
その声は、氷のように冷たく、穏やかだった。
「私は、貴方に感謝しておりますの」
「……感謝?」

「ええ。貴方が婚約を破棄してくださったおかげで、わたくしは本当の自分を見つけることができました。自分の翼で飛ぶ自由と、心から尊敬できるパートナーを得ることができましたから」
彼女は、隣のキャスピアンを愛おしげに見上げた。
「ですから、どうかお気になさらず。貴方も、貴方が選んだ『真実の愛』とやらを、大切になさいませ」

それは、完璧なまでの、拒絶だった。
憎しみも、怒りも、憐れみすらもない。彼女の世界に、もはやアラリック・フォン・ヴァイスブルクという存在は、一片たりとも残っていなかった。
それが、何よりも彼を打ちのめした。

彼は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえ、震える声で言った。
「……すま、なかった」
それだけを言うと、逃げるようにその場を去った。
背後で、キャスピアンがセラフィナを優しく抱きしめる気配がした。

アラリックの心には、失ったものの大きさと、取り返しのつかない自分の愚かさが、レクイエムのように、いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。
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