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残響のワルツと、始まりのプレリュード
第一章:金鍍金の鳥籠が壊れる日
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「セラフィナ・デ・アンダルシア嬢! 君との婚約を、この場を以て破棄させてもらう!」
帝国随一の格式を誇る『黄金鏡の間』。天井のシャンデリアが振りまく光の雨が、磨き上げられた大理石の床に幾千もの星屑を映し出す、その夜会の頂点で。
私の婚約者、アラリック・フォン・ヴァイスブルク公爵の声は、まるで劇場で響く役者のそれのように、計算され尽くした明瞭さで満場の紳士淑女の耳朶を打った。
音楽が止まる。人々の囁きが止まる。世界から、音が消えた。
私の目の前には、氷のように冷たい美貌のアラリック。彼の隣には、庇護欲を掻き立てる小動物のように震えながら、しかしその瞳の奥には確かな勝利の色を宿したリリアナ・マーグレット男爵令嬢が寄り添っている。
「……アラリック様。今、何と?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。心臓は氷の手に鷲掴みにされたように痛むのに、私の背筋は鋼のようにまっすぐ伸びていた。アンダルシア公爵家の長女として、幼い頃から叩き込まれた矜持が、無様に崩れ落ちることを許さなかった。
アラリックは、私を値踏みするような目で見下ろした。その視線には、かつての熱も、慈しみも、一片たりとも残ってはいなかった。
「聞こえなかったか? 君との政略のための婚約は終わりだ。私は真実の愛を見つけた。リリアナこそ、私の魂が求める唯一の女性なのだ。彼女の純粋さこそ、冷え切った我が領地を春へと導く光となるだろう」
真実の愛。魂。光。
陳腐な言葉の羅列に、眩暈がした。アラリックがヴァイスブルク公爵領の財政難に喘ぎ、より裕福な支援者を求めていたことなど、周知の事実。そして、鉱山で財を成したマーグレット男爵家が、喉から手が出るほど貴族社会での地位を欲していたことも。
これは、「真実の愛」という甘い砂糖菓子でコーティングされた、極めて即物的な取引なのだ。
周囲の視線が、無数の針となって私に突き刺さる。同情、嘲笑、好奇心。
ああ、可哀想なセラフィナ様。完璧な公爵令嬢も、真実の愛の前では無力なのね。
そんな声が聞こえる幻聴に、奥歯を噛みしめる。
違う。これは悲劇ではない。
これは、茶番だ。
私が無表情を貫いていると、リリアナがアラリックの腕の中で、か細い声で言った。
「ごめんなさい、セラフィナ様……。アラリック様のお気持ちを、私には止めることができませんでした。でも、これが運命なのですわ」
その言葉が、私の心の最後の堰を切った。
私は、ふ、と息を吐き、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。
「ヴァイスブルク公爵。そしてマーグレット嬢。お二人の『運命』の幕開けに、心よりお祝い申し上げます」
毅然とした声が、静まり返ったホールに響く。
「アラリック様が下されたご決断、謹んでお受けいたします。これまでヴァイスブルク公爵家とアンダルシア公爵家が結んでいた全ての盟約も、これにて白紙と理解してよろしいですわね?」
私の予想外の反応に、アラリックの眉がかすかに動いた。私が泣き叫び、彼にすがりつくとでも思っていたのだろうか。
「……ああ、もちろんだ。君も理解が早くて助かる」
「当然ですわ。私はアンダルシアの娘ですから」
私は優雅なカーテシーを一つして、彼らに背を向けた。
一歩、また一歩と、出口へ向かう。背中に突き刺さる視線の数は、先ほどよりも増えている気がした。だが、もう痛みは感じなかった。
金鍍金の鳥籠は、壊れた。
ならば、あとは飛び立つだけだ。
ホールの巨大な扉が、私のために従者によって開かれる。その向こうの夜の闇へ足を踏み出そうとした、その時。
背後から、全く予期せぬ、低く、それでいてホール全体を支配するような声が響いた。
「待たれよ、セラフィナ嬢」
振り返ると、そこに立っていたのは、この国の影の支配者と噂される男。
北方の鉱山と海運を掌握し、王家すら無視できぬ莫大な富を持つ、『冬の王』。
キャスピアン・ラ・ヴェルハルト大公だった。
帝国随一の格式を誇る『黄金鏡の間』。天井のシャンデリアが振りまく光の雨が、磨き上げられた大理石の床に幾千もの星屑を映し出す、その夜会の頂点で。
私の婚約者、アラリック・フォン・ヴァイスブルク公爵の声は、まるで劇場で響く役者のそれのように、計算され尽くした明瞭さで満場の紳士淑女の耳朶を打った。
音楽が止まる。人々の囁きが止まる。世界から、音が消えた。
私の目の前には、氷のように冷たい美貌のアラリック。彼の隣には、庇護欲を掻き立てる小動物のように震えながら、しかしその瞳の奥には確かな勝利の色を宿したリリアナ・マーグレット男爵令嬢が寄り添っている。
「……アラリック様。今、何と?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。心臓は氷の手に鷲掴みにされたように痛むのに、私の背筋は鋼のようにまっすぐ伸びていた。アンダルシア公爵家の長女として、幼い頃から叩き込まれた矜持が、無様に崩れ落ちることを許さなかった。
アラリックは、私を値踏みするような目で見下ろした。その視線には、かつての熱も、慈しみも、一片たりとも残ってはいなかった。
「聞こえなかったか? 君との政略のための婚約は終わりだ。私は真実の愛を見つけた。リリアナこそ、私の魂が求める唯一の女性なのだ。彼女の純粋さこそ、冷え切った我が領地を春へと導く光となるだろう」
真実の愛。魂。光。
陳腐な言葉の羅列に、眩暈がした。アラリックがヴァイスブルク公爵領の財政難に喘ぎ、より裕福な支援者を求めていたことなど、周知の事実。そして、鉱山で財を成したマーグレット男爵家が、喉から手が出るほど貴族社会での地位を欲していたことも。
これは、「真実の愛」という甘い砂糖菓子でコーティングされた、極めて即物的な取引なのだ。
周囲の視線が、無数の針となって私に突き刺さる。同情、嘲笑、好奇心。
ああ、可哀想なセラフィナ様。完璧な公爵令嬢も、真実の愛の前では無力なのね。
そんな声が聞こえる幻聴に、奥歯を噛みしめる。
違う。これは悲劇ではない。
これは、茶番だ。
私が無表情を貫いていると、リリアナがアラリックの腕の中で、か細い声で言った。
「ごめんなさい、セラフィナ様……。アラリック様のお気持ちを、私には止めることができませんでした。でも、これが運命なのですわ」
その言葉が、私の心の最後の堰を切った。
私は、ふ、と息を吐き、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。
「ヴァイスブルク公爵。そしてマーグレット嬢。お二人の『運命』の幕開けに、心よりお祝い申し上げます」
毅然とした声が、静まり返ったホールに響く。
「アラリック様が下されたご決断、謹んでお受けいたします。これまでヴァイスブルク公爵家とアンダルシア公爵家が結んでいた全ての盟約も、これにて白紙と理解してよろしいですわね?」
私の予想外の反応に、アラリックの眉がかすかに動いた。私が泣き叫び、彼にすがりつくとでも思っていたのだろうか。
「……ああ、もちろんだ。君も理解が早くて助かる」
「当然ですわ。私はアンダルシアの娘ですから」
私は優雅なカーテシーを一つして、彼らに背を向けた。
一歩、また一歩と、出口へ向かう。背中に突き刺さる視線の数は、先ほどよりも増えている気がした。だが、もう痛みは感じなかった。
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ならば、あとは飛び立つだけだ。
ホールの巨大な扉が、私のために従者によって開かれる。その向こうの夜の闇へ足を踏み出そうとした、その時。
背後から、全く予期せぬ、低く、それでいてホール全体を支配するような声が響いた。
「待たれよ、セラフィナ嬢」
振り返ると、そこに立っていたのは、この国の影の支配者と噂される男。
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