41 / 82
紫電の瞳に浄化の光を宿して
序章:玻璃の砕ける夜
しおりを挟む
シャンデリアの光が宝石のように降り注ぎ、着飾った貴族たちの笑い声がワルツの旋律に溶けていく。王宮の夜会は、この世の栄華を煮詰めたような甘い香りに満ちていた。その中心で、わたくし、セレスティアナ・フォン・クラインフェルトは、冷たい現実の淵に立たされていた。
「セレスティアナ! この場で君との婚約を破棄させてもらう!」
甲高い声が音楽を切り裂いた。婚約者であるリシャール・ド・ヴァロワ公爵子息が、わたくしを指さして叫ぶ。彼の金色の髪は照明を浴びて輝き、その美しい顔は軽蔑の色に歪んでいた。周囲のざわめきが、波のように引いては寄せる。すべての視線が、わたくしたち二人に突き刺さっていた。
「リシャール様、それは…どういう意味でしょうか」
努めて冷静に、わたくしは問い返した。声が震えなかったのは、奇跡に近い。
リシャールの腕には、小鳥のように可憐な令嬢が寄り添っている。桜色の髪をした、リリアーナ男爵令嬢。彼女は潤んだ瞳でわたくしを見上げ、申し訳なさそうに眉を寄せている。その仕草すら、計算され尽くした演劇の一幕のようだった。
「意味だと? わからないのか! 君のように地味で、魔力の一つもまともに持たない女が、私の隣に立つにふさわしいと思うのか?」
リシャールの言葉は、鋭い氷の礫となってわたくしの心を打つ。
「それに引き換え、リリアーナは素晴らしい! 彼女の持つ強大な魔力こそ、次代の公爵夫人、いや、いずれは王妃となるべき器の証だ!」
ああ、やはり。わたくしの魔力が乏しいことは、貴族社会では公然の秘密だった。クラインフェルト伯爵家は由緒ある家柄だが、わたくしの代になって魔力持ちが生まれなかったことは、父上の悩みの種だった。この婚約も、ヴァロワ公爵家の権勢と、クラインフェルト家の歴史を交換する取引に過ぎない。わたくしに価値がないと判断されれば、こうして簡単に捨てられる。
「リシャール様、おやめくださいまし。セレスティアナ様がお可哀想ですわ」
リリアーナが、猫なで声でリシャールを諌める。だが、その瞳の奥には、勝利の愉悦がちらついているのを、わたくしは見逃さなかった。
周囲からは、ひそひそとした囁き声が聞こえてくる。
「まあ、クラインフェルト嬢は魔力なしだものね」
「ヴァロワ様も、ようやくお気づきになったのよ」
「あんな地味な方より、リリアーナ様の方がお似合いだわ」
同情など、どこにもない。あるのは好奇と嘲笑だけ。わたくしはゆっくりと背筋を伸ばし、リシャールを、そして彼に媚びるように寄り添うリリアーナを見据えた。
「ヴァロワ公爵子息。お言葉、確かに承りました。このセレスティアナ・フォン・クラインフェルト、本日この時をもちまして、貴方様との婚約を解消させていただきます」
わたくしは、震える手で胸元のブローチ――リシャールから贈られたヴァロワ家の紋章をかたどったもの――を外し、近くのテーブルにそっと置いた。カタリ、と乾いた音が、やけに大きく響いた。
「これで、よろしいでしょう。皆様、お見苦しいところをお見せいたしました。どうぞ、夜会をお続けください」
深く、優雅に一礼する。それが、わたくしに残された最後の矜持だった。顔を上げた瞬間、遠くの柱の陰で、一人の男がこちらを静かに見つめていることに気づいた。闇に溶けるような黒髪に、まるで雷光を宿したかのような、鮮烈な紫の瞳。その視線は、他の誰とも違っていた。嘲笑でも、好奇でも、憐憫でもない。ただ、わたくしの内側を射抜くような、強い光を放っていた。
一瞬の交錯。わたくしはすぐに視線を逸らし、誰にも気づかれないよう、静かにその場を後にした。背中に突き刺さる視線を感じながらも、決して振り返らなかった。
ガラスの靴が砕けるように、わたくしの世界は、音を立てて崩れ落ちたのだ。
「セレスティアナ! この場で君との婚約を破棄させてもらう!」
甲高い声が音楽を切り裂いた。婚約者であるリシャール・ド・ヴァロワ公爵子息が、わたくしを指さして叫ぶ。彼の金色の髪は照明を浴びて輝き、その美しい顔は軽蔑の色に歪んでいた。周囲のざわめきが、波のように引いては寄せる。すべての視線が、わたくしたち二人に突き刺さっていた。
「リシャール様、それは…どういう意味でしょうか」
努めて冷静に、わたくしは問い返した。声が震えなかったのは、奇跡に近い。
リシャールの腕には、小鳥のように可憐な令嬢が寄り添っている。桜色の髪をした、リリアーナ男爵令嬢。彼女は潤んだ瞳でわたくしを見上げ、申し訳なさそうに眉を寄せている。その仕草すら、計算され尽くした演劇の一幕のようだった。
「意味だと? わからないのか! 君のように地味で、魔力の一つもまともに持たない女が、私の隣に立つにふさわしいと思うのか?」
リシャールの言葉は、鋭い氷の礫となってわたくしの心を打つ。
「それに引き換え、リリアーナは素晴らしい! 彼女の持つ強大な魔力こそ、次代の公爵夫人、いや、いずれは王妃となるべき器の証だ!」
ああ、やはり。わたくしの魔力が乏しいことは、貴族社会では公然の秘密だった。クラインフェルト伯爵家は由緒ある家柄だが、わたくしの代になって魔力持ちが生まれなかったことは、父上の悩みの種だった。この婚約も、ヴァロワ公爵家の権勢と、クラインフェルト家の歴史を交換する取引に過ぎない。わたくしに価値がないと判断されれば、こうして簡単に捨てられる。
「リシャール様、おやめくださいまし。セレスティアナ様がお可哀想ですわ」
リリアーナが、猫なで声でリシャールを諌める。だが、その瞳の奥には、勝利の愉悦がちらついているのを、わたくしは見逃さなかった。
周囲からは、ひそひそとした囁き声が聞こえてくる。
「まあ、クラインフェルト嬢は魔力なしだものね」
「ヴァロワ様も、ようやくお気づきになったのよ」
「あんな地味な方より、リリアーナ様の方がお似合いだわ」
同情など、どこにもない。あるのは好奇と嘲笑だけ。わたくしはゆっくりと背筋を伸ばし、リシャールを、そして彼に媚びるように寄り添うリリアーナを見据えた。
「ヴァロワ公爵子息。お言葉、確かに承りました。このセレスティアナ・フォン・クラインフェルト、本日この時をもちまして、貴方様との婚約を解消させていただきます」
わたくしは、震える手で胸元のブローチ――リシャールから贈られたヴァロワ家の紋章をかたどったもの――を外し、近くのテーブルにそっと置いた。カタリ、と乾いた音が、やけに大きく響いた。
「これで、よろしいでしょう。皆様、お見苦しいところをお見せいたしました。どうぞ、夜会をお続けください」
深く、優雅に一礼する。それが、わたくしに残された最後の矜持だった。顔を上げた瞬間、遠くの柱の陰で、一人の男がこちらを静かに見つめていることに気づいた。闇に溶けるような黒髪に、まるで雷光を宿したかのような、鮮烈な紫の瞳。その視線は、他の誰とも違っていた。嘲笑でも、好奇でも、憐憫でもない。ただ、わたくしの内側を射抜くような、強い光を放っていた。
一瞬の交錯。わたくしはすぐに視線を逸らし、誰にも気づかれないよう、静かにその場を後にした。背中に突き刺さる視線を感じながらも、決して振り返らなかった。
ガラスの靴が砕けるように、わたくしの世界は、音を立てて崩れ落ちたのだ。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
彼女の離縁とその波紋
豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
寵愛の花嫁は毒を愛でる~いじわる義母の陰謀を華麗にスルーして、最愛の公爵様と幸せになります~
紅葉山参
恋愛
アエナは貧しい子爵家から、国の英雄と名高いルーカス公爵の元へと嫁いだ。彼との政略結婚は、彼の底なしの優しさと、情熱的な寵愛によって、アエナにとってかけがえのない幸福となった。しかし、その幸福を妬み、毎日のように粘着質ないじめを繰り返す者が一人、それは夫の継母であるユーカ夫人である。
「たかが子爵の娘が、公爵家の奥様面など」 ユーカ様はそう言って、私に次から次へと理不尽な嫌がらせを仕掛けてくる。大切な食器を隠したり、ルーカス様に嘘の告げ口をしたり、社交界で恥をかかせようとしたり。
だが、私は決して挫けない。愛する公爵様との穏やかな日々を守るため、そして何より、彼が大切な家族と信じているユーカ様を悲しませないためにも、私はこの毒を静かに受け流すことに決めたのだ。
誰も気づかないほど巧妙に、いじめを優雅にスルーするアエナ。公爵であるあなたに心配をかけまいと、彼女は今日も微笑みを絶やさない。しかし、毒は徐々に、確実に、その濃度を増していく。ついに義母は、アエナの命に関わるような、取り返しのつかない大罪に手を染めてしまう。
愛と策略、そして運命の結末。この溺愛系ヒロインが、華麗なるスルー術で、最愛の公爵様との未来を掴み取る、痛快でロマンティックな物語の幕開けです。
夫に捨てられた私は冷酷公爵と再婚しました
香木陽灯
恋愛
伯爵夫人のマリアーヌは「夜を共に過ごす気にならない」と突然夫に告げられ、わずか五ヶ月で離縁することとなる。
これまで女癖の悪い夫に何度も不倫されても、役立たずと貶されても、文句ひとつ言わず彼を支えてきた。だがその苦労は報われることはなかった。
実家に帰っても父から不当な扱いを受けるマリアーヌ。気分転換に繰り出した街で倒れていた貴族の男性と出会い、彼を助ける。
「離縁したばかり? それは相手の見る目がなかっただけだ。良かったじゃないか。君はもう自由だ」
「自由……」
もう自由なのだとマリアーヌが気づいた矢先、両親と元夫の策略によって再婚を強いられる。相手は婚約者が逃げ出すことで有名な冷酷公爵だった。
ところが冷酷公爵と会ってみると、以前助けた男性だったのだ。
再婚を受け入れたマリアーヌは、公爵と少しずつ仲良くなっていく。
ところが公爵は王命を受け内密に仕事をしているようで……。
一方の元夫は、財政難に陥っていた。
「頼む、助けてくれ! お前は俺に恩があるだろう?」
元夫の悲痛な叫びに、マリアーヌはにっこりと微笑んだ。
「なぜかしら? 貴方を助ける気になりませんの」
※ふんわり設定です
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
あなたのことなんて、もうどうでもいいです
もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。
元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる