婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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紫電の瞳に浄化の光を宿して

第一章:紫電の瞳との邂逅

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実家に戻ったわたくしを待っていたのは、慰めの言葉ではなかった。
「我が家の顔に泥を塗りおって!」
父であるクラインフェルト伯爵の怒声が、静まり返った屋敷に響き渡った。母も、姉妹も、わたくしを遠巻きに見るだけで、誰一人として味方はいなかった。婚約破棄は、個人の問題ではなく、家の不名誉。魔力を持たぬ娘は、もはや何の価値もない存在だった。

自室に閉じこもり、数日が過ぎた。食事は運ばれてくるが、喉を通らない。窓の外の明るい光が、自分の境遇を嘲笑っているように感じられた。
このままではいけない。この家には、もうわたくしの居場所はない。
ある夜、わたくしは決意した。侍女の服を借り、わずかな金銭と身の回りの品だけを鞄に詰め、夜陰に紛れて屋敷を抜け出した。行くあてなどない。ただ、この息の詰まる場所から逃げ出したかった。

平民が暮らす下町は、貴族街とは全く違う匂いがした。活気と、生活の匂い。わたくしは人目を避けるように路地裏を進んだ。これからどうすればいいのか。途方に暮れて壁に寄りかかった、その時だった。

「――そこで何をしている」

低く、落ち着いた声に、心臓が跳ねた。見上げると、そこに立っていたのは、あの夜会の夜に見かけた男だった。闇色の髪に、紫電の瞳。簡素な革の服を着ているが、その佇まいは、およそ平民とは思えなかった。

「……別に、何も」
わたくしは警戒心を露わに答えた。
男はわたくしを上から下まで値踏みするように眺め、ふっと息を吐いた。
「家出か。そんな上等な生地の服を着ていれば、すぐに面倒ごとに巻き込まれるぞ」
彼が指さしたのは、わたくしが着ている侍女服の袖口だった。確かに、一般の者が着るには上質すぎるかもしれない。

「あなたには、関係ありません」
わたくしは踵を返そうとした。しかし、男の次の言葉に、足が縫い付けられたように動かなくなった。
「クラインフェルトの令嬢が、こんな場所で油を売っているとはな」

「なぜ…それを…」
「あの夜会にいたからだ。公衆の面前で婚約破棄される様を、ご丁寧に拝見させてもらった」
彼の口調には、揶揄する響きがあった。だが、その紫の瞳は、やはりあの時のように、わたくしの本質を見透かすように真っ直ぐだった。

「……笑いたければ、笑うといいわ」
「笑う? 何をだ。見る目のない男に捨てられたことをか? それとも、お前が自分の価値に気づいていない愚かさにか?」

思わぬ言葉に、わたくしは顔を上げた。
「わたくしの…価値…?」
「ああ。お前、自分の魔力がどんなものか、理解していないだろう」

魔力。その言葉は、わたくしにとって呪いと同じだった。
「わたくしに魔力などありません。それは、国中の誰もが知っていることです」
「ふん、くだらん。そこらの魔術師が使うような、派手なだけの炎や氷が出ないから『魔力なし』か。実に短絡的だ」
男は面白そうに唇の端を吊り上げた。
「お前の魔力は、そんな陳腐なものじゃない。それは『浄化』の力だ。あらゆる魔力を鎮め、安定させる。下手に攻撃魔法を操るだけの者より、よほど稀有で、価値がある」

浄化。初めて聞く言葉だった。わたくしの力が? あの、何の役にも立たないと思われた微かな魔力が?

「信じられない、という顔だな。まあ、無理もない。その力を正しく評価できる者は、この国にはほとんどいないだろうからな」
男はそう言うと、わたくしに手を差し出した。骨張った、しかし美しい指先だった。
「俺はゼファニヤ・レンフィールド。しがない魔導具師だ。行くあてがないなら、俺の工房に来い。お前のその『価値』を、正しく使える場所を提供してやる」

ゼファニヤ・レンフィールド。聞いたことのない名前だった。魔導具師、というのも意外だった。もっと高貴な身分だと思っていた。
胡散臭い誘い。しかし、彼の紫電の瞳は、不思議な説得力を持っていた。わたくしの全てを見通し、それでもなお、価値があると言ってくれた、ただ一人の人。

「……なぜ、わたくしにそんなお言葉を?」
「面白いからだ。磨けば光るどころか、世界を照らすほどの原石が、泥の中に打ち捨てられている。それを見過ごすほど、俺は退屈しちゃいない」
悪戯っぽく笑う彼の顔に、わたくしは知らず知らずのうちに、惹きつけられていたのかもしれない。
「……お世話になります」
わたくしは、震える指で、その手を取った。ゼファニヤの手は、驚くほど温かかった。
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