婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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忘れられた歌姫と隻眼の公爵の契約婚約

第二章:公爵領での日々、そして甘い溺愛

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フィロメーラがゼファニアスと共に彼の領地、ヴァーミリオン公爵領に足を踏み入れたのは、数日後のことだった。王都の華やかさとは対照的に、領地全体が灰色の靄に覆われているような、沈んだ空気に満ちていた。しかし、荘厳な城と、そこで働く人々は、皆一様に礼儀正しくフィロメーラを迎え入れた。

そして、フィロメーラの『偽りの婚約者』としての日々が始まった。それは、驚きと戸惑いの連続だった。

「フィロメーラ。君のために、いくつか服を用意させた。好きなものを選ぶといい」

案内された部屋には、最新のデザインのドレスが、色とりどりに何十着も並べられていた。クラインシュミット家では到底考えられない光景だった。

「こ、こんなにたくさん……」
「君は私の婚約者だ。みすぼらしい格好はさせられない。それから、宝石もだ」

まるで高価な砂糖菓子でも見せるかのように、彼は巨大な宝石箱を開けてみせた。陽光を反射してきらめくダイヤモンド、深く燃えるようなルビー、静かな湖面のようなサファイア。

「君の瞳の色には、このアクアマリンが似合うだろう」

そう言って、ゼファニアスがごく自然にフィロメーラの首にネックレスをかけてくれる。その指先が肌に触れただけで、心臓が大きく跳ねた。

彼の『溺愛』は、物質的なものだけにとどまらなかった。
フィロメーラが少しでも眉を曇らせれば、「何か悩み事か?」とすぐに気づき、話を聞こうとする。彼女が本を読んでいれば、いつの間にか隣に座り、静かに同じ時間を共有する。

「ここは領地で最も景色のいい場所だ。君の心が少しでも晴れるかと思ってな」

そう言って連れてこられたのは、広大な湖を見渡せる丘の上だった。彼は、フィロメーラの声を取り戻すために、あらゆる手を尽くしてくれた。最高の音楽教師を呼び、世界中から集めた美しい音色を奏でる楽器を揃え、喉に良いとされるハーブティーを毎日欠かさず用意させた。

「無理に歌う必要はない。君が、ただ心穏やかに過ごしてくれることが、今は一番だ」

その過保護なまでの優しさに、フィロメーラの心は戸惑いでいっぱいだった。これは契約のはずだ。彼は私の『歌声』という力を求めているだけのはず。なのに、なぜこんなにも大切に扱ってくれるのだろう。

最初は遠巻きに見ていた城の使用人たちも、フィロメーラの穏やかで心優しい人柄と、そんな彼女を宝物のように扱う公爵の姿を見るうちに、次第に心を開いていった。

「フィロメーラ様、温かいミルクはいかがですか?眠れない夜に効きますよ」
「フィロメーラ様、中庭に珍しい花が咲きました。ご覧になりますか?」

彼らの温かさに触れるたび、フィロメーラの心の中の氷が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
カシアンに言われた「出来損ない」という言葉。社交界で浴びせられた嘲笑。それらが、遠い過去の出来事のように思えてくる。
ここにいてもいいのだ、と。生まれて初めて、そう思えた。

ある夜、フィロメーラは眠れずに城のバルコニーに出ていた。
「眠れないのか?」
背後から、いつの間にかゼファニアスが立っていた。彼も同じように、眠れぬ夜を過ごしていたのかもしれない。

「公爵様は、なぜ……私に、こんなにも優しくしてくださるのですか? 私は、まだ何もお返しできていないのに」

フィロメーラの問いに、ゼファニアスは夜空を見上げたまま答えた。

「見返りを求めて、君に優しくしているわけではない。……いや、訂正しよう。見返りはあるな」
「見返り……?」
「君が、笑ってくれることだ」

彼はフィロメーラに向き直ると、その眼帯のない瞳で、まっすぐに見つめた。
「君がここで穏やかに過ごし、心からの笑顔を見せてくれること。それが、今の私にとって最大の見返りだ。……それ以上を望むのは、欲張りだろうか」

その声には、切実な響きが込められていた。フィロメーラは、言葉を失う。
この人は、本当に私の笑顔を望んでくれている。
契約のためだけではない、何か別の感情が、彼の中にあるのではないか。
その思いが、フィロメーラの胸に温かい光を灯した。
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