婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

文字の大きさ
50 / 82
忘れられた歌姫と隻眼の公爵の契約婚約

第三章:トラウマの残響

しおりを挟む
ゼファニアスの深い愛情に包まれ、フィロメーラの心は確実に癒やされていた。しかし、歌声だけは戻らなかった。歌おうとすると、喉が締め付けられるように痛むのだ。

その原因は、五年前の記憶。
幼いフィロメーラの類まれな歌の才能を妬んだ、遠縁の親戚の少女。彼女に「あなたの声、うるさいのよ」と罵られ、古い井戸に突き落とされた。暗く、冷たい水の底で、もがき苦しんだ恐怖。それが、フィロメーラの心と喉に、消えない傷として刻み込まれていた。

その話を、フィロメーラはぽつりぽつりとゼファニアスに打ち明けた。彼はただ黙って、フィロメーラの言葉に耳を傾けていた。全てを話し終えたフィロメーラの手を、ゼファニアスは力強く握りしめた。

「辛かったな。だが、君はもう一人ではない。私がいる」

その言葉だけで、十分だった。理解者がいる。それだけで、暗闇の中に一筋の光が差し込んだように思えた。

そんなある日、事件は起きた。
領地の森に、凶暴な魔獣が現れたのだ。騎士団が応戦するも、魔獣の咆哮は大地を揺るがし、人々を恐怖に陥れる。城にも、その不気味な鳴き声が響き渡った。
ゼファニアスは自ら剣を取り、騎士団の指揮を執るために城を出て行った。

「フィロメーラ、決して城から出るな。私が必ず、お前を守る」

そう言い残して。
しかし、戦況は思わしくないようだった。負傷した兵士が次々と城に運び込まれてくる。フィロメーラは、いてもたってもいられず、負傷者の手当てを手伝い始めた。

その時、ひときわ大きな地響きと共に、城壁の一部が崩れる音がした。魔獣が、城に迫ってきているのだ。兵士たちの間に絶望の色が広がる。
窓の外を見ると、ゼファニアスが、傷つきながらも魔獣の前に立ちはだかっているのが見えた。彼の背中が、フィロメーラを守る最後の砦だった。

『私が、お前を守る』

彼の言葉が、脳裏に蘇る。
守られてばかりではいけない。私も、あの人を守りたい。
その強い思いが、フィロメーラの喉を衝いた。
気づけば、彼女の唇から、小さなメロディが漏れていた。それは歌というにはあまりに拙い、ただのハミングだった。

だが、その音色が響いた瞬間、あれほど荒れ狂っていた魔獣の動きが、ぴたりと止まった。魔獣は、戸惑うようにフィロメーラのいる城の方を見つめている。

「……今のは?」

ゼファニアスが、驚きに目を見開く。
フィロメーラ自身も、自分の喉から音が出たことに驚いていた。恐怖よりも、「彼を守りたい」という一心から生まれた、小さな勇気の欠片。
そのハミングは、確かに魔獣の敵意を和らげたのだ。
好機を逃さず、ゼファニアスの一撃が魔獣の急所を捉え、長い戦いに終止符が打たれた。

城に戻ったゼファニアスは、傷だらけの体でフィロメーラを強く抱きしめた。

「フィロメーラ……君が、私たちを救ってくれた」
「私……」
「そうだ。君の声には、やはり力がある。君が思うよりも、ずっと強い力が」

ゼファニアスの腕の中で、フィロメーラは、凍てついていた心の奥深くが、じわりと温かくなるのを感じていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

哲子67歳★恋して焦げて乱れ咲き♪

obbligato
恋愛
67歳、二次元大好き独身女子のぶっとんだ恋愛劇。 ※哲子は至って真面目に恋愛しています。

悪意には悪意で

12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。 私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。 ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。

短編 お前なんか一生結婚できないって笑ってたくせに、私が王太子妃になったら泣き出すのはどういうこと?

ヨルノソラ
恋愛
「お前なんか、一生結婚できない」 そう笑ってた幼馴染、今どんな気持ち? ――私、王太子殿下の婚約者になりましたけど? 地味で冴えない伯爵令嬢エリナは、幼い頃からずっと幼馴染のカイルに「お前に嫁の貰い手なんていない」とからかわれてきた。 けれどある日、王都で開かれた舞踏会で、偶然王太子殿下と出会い――そして、求婚された。 はじめは噂だと笑っていたカイルも、正式な婚約発表を前に動揺を隠せない。 ついには「お前に王太子妃なんて務まるわけがない」と暴言を吐くが、王太子殿下がきっぱりと言い返す。 「見る目がないのは君のほうだ」 「私の婚約者を侮辱するのなら、貴族であろうと容赦はしない」 格の違いを見せつけられ、崩れ落ちるカイル。 そんな姿を、もう私は振り返らない。 ――これは、ずっと見下されていた令嬢が、運命の人に見初められる物語。

お飾りの妃なんて可哀想だと思ったら

mios
恋愛
妃を亡くした国王には愛妾が一人いる。 新しく迎えた若い王妃は、そんな愛妾に見向きもしない。

見捨ててくれてありがとうございます。あとはご勝手に。

阿里
恋愛
「君のような女は俺の格を下げる」――そう言って、侯爵家嫡男の婚約者は、わたしを社交界で公然と捨てた。 選んだのは、華やかで高慢な伯爵令嬢。 涙に暮れるわたしを慰めてくれたのは、王国最強の騎士団副団長だった。 彼に守られ、真実の愛を知ったとき、地味で陰気だったわたしは、もういなかった。 やがて、彼は新妻の悪行によって失脚。復縁を求めて縋りつく元婚約者に、わたしは冷たく告げる。

あなたの愛はいりません

oro
恋愛
「私がそなたを愛することは無いだろう。」 初夜当日。 陛下にそう告げられた王妃、セリーヌには他に想い人がいた。

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

今さら遅いと言われる側になったのは、あなたです

阿里
恋愛
夜会で婚約破棄された私は、すべてを失った――はずだった。 けれど、人生は思いもよらない方向へ転がる。 助けた騎士は、王の右腕。 見下されてきた私の中にある価値を、彼だけが見抜いた。 王城で評価され、居場所を得ていく私。 その頃、私を捨てた元婚約者は、転落の一途をたどる。 「間違いだった」と言われても、もう心は揺れない。 選ばれるのを待つ時代は、終わった。

処理中です...