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夜明けのティアラ
第二章:偽りの婚約者
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夜会での一件は、瞬く間に王都中の知るところとなった。リラ・アステルは、公爵家の嫡男に婚約を破棄された哀れな女。それが、今の私に与えられた新しい肩書きだった。
屋敷に帰っても、安らげる場所はなかった。父は私を「アステル家の恥晒し」と呼び、母は泣き崩れるばかり。弟や妹たちも、腫れ物に触るように私を避けた。かつて私の未来を祝福してくれた人々は、今や冷たい視線を向けるだけだった。
部屋に閉じこもり、ただ時が過ぎるのを待つだけの日々。そんなある午後、来客を告げるメイドの声が聞こえた。
「リラお嬢様、クォーツ様と名乗る方がお見えです」
「クォーツ……?」
まさか。あの夜の男性が、本当に私を訪ねてくるなんて。
混乱する私をよそに、父は「どこの馬の骨とも知れん男だ!」と追い返そうとしたが、執事が慌てて父の耳に何かを囁いた。その内容が何だったのかは分からない。ただ、父の顔色がみるみるうちに青ざめ、恭しくゼノを応接室へと通したのだった。
重厚な扉を開けると、そこにはあの夜と変わらぬ、優雅な佇まいのゼノがいた。彼は私に気づくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「お約束通り、お迎えに上がりました、リラ嬢」
彼の声に、部屋の空気が一変する。父も母も、彼の圧倒的な存在感の前に萎縮しているのが分かった。
「本日は、アステル伯爵に、そしてリラ嬢に、あるご提案があって参りました」
ゼノはそう切り出すと、単刀直入に本題を告げた。
「私、ゼノ・クォーツと、リラ嬢との婚約をお認めいただきたい」
「こ、婚約!?」
父が裏返った声を上げた。私も、自分の耳を疑った。出会って間もない、素性もよく知らない男性が、なぜ私と。
「ご冗談でしょう、クォーツ殿。娘は、その……」
父が口ごもる。婚約を破棄されたばかりの「傷物」だと言いたいのだろう。
ゼノは、そんな父の考えを見透かしたように言った。
「ええ、存じております。だからこそ、です」
彼の銀色の瞳が、私を射抜いた。
「ヴァレンティス公爵の愚かな選択が、いかに間違っていたかを、私が証明して差し上げたいのです。リラ嬢こそ、この国で最も価値ある淑女であると、全ての者たちの前で知らしめたい」
それは、あまりにも甘美な提案だった。私を侮辱した者たちを見返すことができる。私の価値を、この人が証明してくれる。しかし、そんなうまい話があるだろうか。
「……なぜ、そこまでしてくださるのですか? 私には、あなた様にお返しできるものなど、何もございません」
私が尋ねると、ゼノは悪戯っぽく片方の口角を上げた。
「お返しなら、いずれ頂きますよ。ですが、今はまだ結構。これは、私のささやかな自己満足……いや、投資とでも言いましょうか」
「投資……?」
「ええ。あなたは磨けば光るどころか、太陽さえも霞ませるダイヤモンドの原石だ。その輝きを最初に手にする権利、それ自体が私にとって計り知れない価値があるのです」
彼の言葉は詩のように美しく、しかしどこかビジネスライクな響きも帯びていた。
これは、彼にとっての何らかの取引なのだ。それでも良かった。この息の詰まるような屋敷から、絶望的な状況から抜け出せるのなら。
私は、決意を固めて顔を上げた。
「……お受け、いたします。そのご提案」
私の返事を聞くと、ゼノは満足そうに頷いた。
「賢明なご判断です。では、これは契約の証に」
彼は懐から小さなベルベットの箱を取り出し、開けてみせた。中にあったのは、夜空に輝く星々を全て集めたかのような、大粒のサファイアの指輪だった。その青い輝きは、セドリックから贈られたどの宝石よりも、深く、澄んでいた。
彼は私の左手を取り、その薬指にゆっくりと指輪をはめた。ひんやりとした感触が、私の決意を肯定してくれているようだった。
「これは、偽りの婚約です」
二人きりになった馬車の中で、ゼノは静かに言った。
「目的は二つ。一つは、あなたの名誉を回復し、あなたを侮辱した者たちに然るべき報いを受けさせること。もう一つは、私自身の目的……社交界での確固たる地位を築き、ある情報を得るためです」
やはり、そうだったのか。しかし、彼の正直な告白に、不思議と嫌な気はしなかった。
「私が、あなた様のお役に立てるのでしょうか?」
「ええ。あなたは私の隣で、ただ美しく微笑んでいてくださればいい。それだけで、私の力になってくれる」
偽りの婚約。契約関係。それでも、この人の隣にいれば、私は変われるかもしれない。失ったと思っていた未来を、もう一度、自分の手で掴めるかもしれない。
窓の外を流れる景色を見ながら、私は新しい人生の始まりを予感していた。
屋敷に帰っても、安らげる場所はなかった。父は私を「アステル家の恥晒し」と呼び、母は泣き崩れるばかり。弟や妹たちも、腫れ物に触るように私を避けた。かつて私の未来を祝福してくれた人々は、今や冷たい視線を向けるだけだった。
部屋に閉じこもり、ただ時が過ぎるのを待つだけの日々。そんなある午後、来客を告げるメイドの声が聞こえた。
「リラお嬢様、クォーツ様と名乗る方がお見えです」
「クォーツ……?」
まさか。あの夜の男性が、本当に私を訪ねてくるなんて。
混乱する私をよそに、父は「どこの馬の骨とも知れん男だ!」と追い返そうとしたが、執事が慌てて父の耳に何かを囁いた。その内容が何だったのかは分からない。ただ、父の顔色がみるみるうちに青ざめ、恭しくゼノを応接室へと通したのだった。
重厚な扉を開けると、そこにはあの夜と変わらぬ、優雅な佇まいのゼノがいた。彼は私に気づくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「お約束通り、お迎えに上がりました、リラ嬢」
彼の声に、部屋の空気が一変する。父も母も、彼の圧倒的な存在感の前に萎縮しているのが分かった。
「本日は、アステル伯爵に、そしてリラ嬢に、あるご提案があって参りました」
ゼノはそう切り出すと、単刀直入に本題を告げた。
「私、ゼノ・クォーツと、リラ嬢との婚約をお認めいただきたい」
「こ、婚約!?」
父が裏返った声を上げた。私も、自分の耳を疑った。出会って間もない、素性もよく知らない男性が、なぜ私と。
「ご冗談でしょう、クォーツ殿。娘は、その……」
父が口ごもる。婚約を破棄されたばかりの「傷物」だと言いたいのだろう。
ゼノは、そんな父の考えを見透かしたように言った。
「ええ、存じております。だからこそ、です」
彼の銀色の瞳が、私を射抜いた。
「ヴァレンティス公爵の愚かな選択が、いかに間違っていたかを、私が証明して差し上げたいのです。リラ嬢こそ、この国で最も価値ある淑女であると、全ての者たちの前で知らしめたい」
それは、あまりにも甘美な提案だった。私を侮辱した者たちを見返すことができる。私の価値を、この人が証明してくれる。しかし、そんなうまい話があるだろうか。
「……なぜ、そこまでしてくださるのですか? 私には、あなた様にお返しできるものなど、何もございません」
私が尋ねると、ゼノは悪戯っぽく片方の口角を上げた。
「お返しなら、いずれ頂きますよ。ですが、今はまだ結構。これは、私のささやかな自己満足……いや、投資とでも言いましょうか」
「投資……?」
「ええ。あなたは磨けば光るどころか、太陽さえも霞ませるダイヤモンドの原石だ。その輝きを最初に手にする権利、それ自体が私にとって計り知れない価値があるのです」
彼の言葉は詩のように美しく、しかしどこかビジネスライクな響きも帯びていた。
これは、彼にとっての何らかの取引なのだ。それでも良かった。この息の詰まるような屋敷から、絶望的な状況から抜け出せるのなら。
私は、決意を固めて顔を上げた。
「……お受け、いたします。そのご提案」
私の返事を聞くと、ゼノは満足そうに頷いた。
「賢明なご判断です。では、これは契約の証に」
彼は懐から小さなベルベットの箱を取り出し、開けてみせた。中にあったのは、夜空に輝く星々を全て集めたかのような、大粒のサファイアの指輪だった。その青い輝きは、セドリックから贈られたどの宝石よりも、深く、澄んでいた。
彼は私の左手を取り、その薬指にゆっくりと指輪をはめた。ひんやりとした感触が、私の決意を肯定してくれているようだった。
「これは、偽りの婚約です」
二人きりになった馬車の中で、ゼノは静かに言った。
「目的は二つ。一つは、あなたの名誉を回復し、あなたを侮辱した者たちに然るべき報いを受けさせること。もう一つは、私自身の目的……社交界での確固たる地位を築き、ある情報を得るためです」
やはり、そうだったのか。しかし、彼の正直な告白に、不思議と嫌な気はしなかった。
「私が、あなた様のお役に立てるのでしょうか?」
「ええ。あなたは私の隣で、ただ美しく微笑んでいてくださればいい。それだけで、私の力になってくれる」
偽りの婚約。契約関係。それでも、この人の隣にいれば、私は変われるかもしれない。失ったと思っていた未来を、もう一度、自分の手で掴めるかもしれない。
窓の外を流れる景色を見ながら、私は新しい人生の始まりを予感していた。
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