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夜明けのティアラ
第三章:溺愛の日々と揺れる心
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ゼノとの「偽りの婚約」が始まってから、私の世界は文字通り一変した。
彼は私を、まるで壊れやすい宝物のように扱った。彼が用意してくれた新しい住まいは、王都の一等地に立つ、白亜の壮麗な屋敷だった。私のために用意された部屋は、天蓋付きのベッドに、陽光が降り注ぐ大きな窓、そして壁一面が本で埋め尽くされた書斎まで備わっていた。
「好きなだけ読むといい。知識は、何者にも奪われない君だけの財産だ」
ゼノはそう言って、優しく私の頭を撫でた。
毎日のように、街一番のクチュリエが仕立てた最新のドレスが届けられた。宝石商が持ってくるジュエリーは、どれも溜息が出るほど美しく、目眩がするほど高価なものばかりだった。
「君の美しさを引き立てるには、これでもまだ足りないくらいだ」
ゼノはそう言って、私の首にエメラルドのネックレスを飾り付けた。鏡に映った自分の姿は、まるで知らない誰かのようだった。
最初は、その過剰なまでの贈り物に戸惑い、居心地の悪さを感じていた。
「ゼノ様、こんなに高価なものばかり……私にはもったいないですわ」
「もったいないことなどない。君には、世界で一番良いものがふさわしい」
彼は私の不安を見透かすように、きっぱりと言った。彼の言葉には、有無を言わせぬ力があった。
彼の「溺愛」は、物質的なものだけではなかった。
彼は、私が自信を取り戻せるように、あらゆる手助けをしてくれた。
「君は、もっと胸を張っていい。うつむいていては、せっかくの美しい顔が見えないだろう?」
彼は私に、正しい姿勢と、優雅な歩き方を教えた。
「君の声は、銀の鈴のようだ。もっと自信を持って、自分の意見を言うんだ」
彼は私と毎日議論を交わし、私の考えに熱心に耳を傾けてくれた。
乗馬、ダンス、ハープの演奏、外国語……。私が少しでも興味を示したものがあれば、彼は国中から最高峰の教師を呼び寄せた。驚いたことに、私はそれらを難なく吸収していった。自分でも知らなかった才能が、次々と開花していく感覚。それは、生まれて初めて感じる、純粋な喜びと興奮だった。
「素晴らしい。やはり、私の目に狂いはなかった」
ゼノは、私の成長を自分のことのように喜んでくれた。彼の称賛の言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、私の心を潤していった。
数週間後、私たちは再び夜会に姿を現した。
私がゼノのエスコートでホールに足を踏み入れた瞬間、あれほど私を嘲笑していた貴族たちが、息を呑むのが分かった。
今日の私は、以前の私ではない。背筋を伸ばし、顔を上げ、穏やかな自信をたたえて微笑むことができる。
案の定、セドリックとイザベラが、苦々しい表情でこちらに近づいてきた。
「リラ……ずいぶんとまあ、派手になったものだな。そんな男に媚びを売って、楽しいか?」
セドリックの言葉には、嫉妬が棘のように含まれていた。
私が何かを言う前に、ゼノが私の前に進み出た。
「ヴァレンティス公爵。私の婚約者に対して、あまり無礼な口を利かないでいただきたい。あなたにはもう、彼女に話しかける資格すらないはずだが?」
ゼノの静かな声には、氷のような冷たさが宿っていた。公爵家の嫡男であるセドリックでさえ、彼の威圧感にたじろいでいる。
イザベラが、甲高い声で割り込んできた。
「まあ、どちらからともなく現れた成り上がりの方に、公爵様が指図される謂れはございませんわ! リラさん、あなたも昔の婚約者に捨てられたからといって、そんな得体の知れない男に乗り換えるなんて、節操がございませんのね!」
その言葉を聞いた瞬間、私の心は不思議と穏やかだった。以前の私なら、きっと傷ついていただろう。でも、今は違う。
私は一歩前に出て、イザベラの目をまっすぐに見つめた。
「イザベラ様。わたくしは、乗り換えたのではありません。わたくしの価値を理解してくださる、真の紳士をお選びしただけですわ」
そして、セドリックに向き直る。
「セドリック様。あなた様がわたくしとの婚約を破棄してくださったこと、今では心から感謝しております。おかげでわたくしは、本当の幸せが何かを知ることができましたから」
きっぱりと言い放つと、私はゼノの腕にそっと手を添えた。
「行きましょう、ゼノ様。このような方々と話していても、時間がもったいないだけですわ」
「ああ、そうだね。リラ」
唖然とするセドリックとイザベラを尻目に、私たちは優雅にその場を去った。背後から突き刺さる視線が、たまらなく心地よかった。
その夜、屋敷に帰る馬車の中で、私はゼノに尋ねた。
「ゼノ様は……なぜ、私を選んでくださったのですか? もっと美しくて、家柄の良い方はたくさんいらっしゃるのに」
これは、ずっと聞きたかったことだった。彼の優しさが、全て「偽りの婚約」のための演技だとしたら……そう考えると、胸がちくりと痛んだ。
ゼノは窓の外に視線を向けたまま、しばらく黙っていた。やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「最初に君を見かけたのは、あの夜会よりもずっと前だった」
「え……?」
「街角の本屋だ。君は、真剣な顔で歴史書を選んでいた。周りの令嬢たちがドレスや宝石の話に夢中になっている中で、君だけが違って見えた」
彼は、私の方に向き直った。銀色の瞳が、真剣な光を帯びていた。
「その瞳に、強い知性と、まだ磨かれていない輝きを見た。その時から、ずっと君が気になっていたんだ。セドリック・ヴァレンティスという男が、いかに君という宝の価値を理解していないかも含めてね」
彼の言葉は、演技とは思えなかった。私の心臓が、トクン、と大きく鳴った。
この人の隣にいると、心地よい。この人の声を聞いていると、安心する。この人の笑顔を見ると、嬉しくなる。
これは、ただの感謝なのだろうか。それとも……。
私は、この「偽りの婚約」の先に、何かを期待し始めている自分に気づいていた。ゼノ・クォーツという謎めいた男性に、本気で惹かれ始めていることを。その想いは、喜びであると同時に、底知れぬ不安でもあった。
彼は私を、まるで壊れやすい宝物のように扱った。彼が用意してくれた新しい住まいは、王都の一等地に立つ、白亜の壮麗な屋敷だった。私のために用意された部屋は、天蓋付きのベッドに、陽光が降り注ぐ大きな窓、そして壁一面が本で埋め尽くされた書斎まで備わっていた。
「好きなだけ読むといい。知識は、何者にも奪われない君だけの財産だ」
ゼノはそう言って、優しく私の頭を撫でた。
毎日のように、街一番のクチュリエが仕立てた最新のドレスが届けられた。宝石商が持ってくるジュエリーは、どれも溜息が出るほど美しく、目眩がするほど高価なものばかりだった。
「君の美しさを引き立てるには、これでもまだ足りないくらいだ」
ゼノはそう言って、私の首にエメラルドのネックレスを飾り付けた。鏡に映った自分の姿は、まるで知らない誰かのようだった。
最初は、その過剰なまでの贈り物に戸惑い、居心地の悪さを感じていた。
「ゼノ様、こんなに高価なものばかり……私にはもったいないですわ」
「もったいないことなどない。君には、世界で一番良いものがふさわしい」
彼は私の不安を見透かすように、きっぱりと言った。彼の言葉には、有無を言わせぬ力があった。
彼の「溺愛」は、物質的なものだけではなかった。
彼は、私が自信を取り戻せるように、あらゆる手助けをしてくれた。
「君は、もっと胸を張っていい。うつむいていては、せっかくの美しい顔が見えないだろう?」
彼は私に、正しい姿勢と、優雅な歩き方を教えた。
「君の声は、銀の鈴のようだ。もっと自信を持って、自分の意見を言うんだ」
彼は私と毎日議論を交わし、私の考えに熱心に耳を傾けてくれた。
乗馬、ダンス、ハープの演奏、外国語……。私が少しでも興味を示したものがあれば、彼は国中から最高峰の教師を呼び寄せた。驚いたことに、私はそれらを難なく吸収していった。自分でも知らなかった才能が、次々と開花していく感覚。それは、生まれて初めて感じる、純粋な喜びと興奮だった。
「素晴らしい。やはり、私の目に狂いはなかった」
ゼノは、私の成長を自分のことのように喜んでくれた。彼の称賛の言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、私の心を潤していった。
数週間後、私たちは再び夜会に姿を現した。
私がゼノのエスコートでホールに足を踏み入れた瞬間、あれほど私を嘲笑していた貴族たちが、息を呑むのが分かった。
今日の私は、以前の私ではない。背筋を伸ばし、顔を上げ、穏やかな自信をたたえて微笑むことができる。
案の定、セドリックとイザベラが、苦々しい表情でこちらに近づいてきた。
「リラ……ずいぶんとまあ、派手になったものだな。そんな男に媚びを売って、楽しいか?」
セドリックの言葉には、嫉妬が棘のように含まれていた。
私が何かを言う前に、ゼノが私の前に進み出た。
「ヴァレンティス公爵。私の婚約者に対して、あまり無礼な口を利かないでいただきたい。あなたにはもう、彼女に話しかける資格すらないはずだが?」
ゼノの静かな声には、氷のような冷たさが宿っていた。公爵家の嫡男であるセドリックでさえ、彼の威圧感にたじろいでいる。
イザベラが、甲高い声で割り込んできた。
「まあ、どちらからともなく現れた成り上がりの方に、公爵様が指図される謂れはございませんわ! リラさん、あなたも昔の婚約者に捨てられたからといって、そんな得体の知れない男に乗り換えるなんて、節操がございませんのね!」
その言葉を聞いた瞬間、私の心は不思議と穏やかだった。以前の私なら、きっと傷ついていただろう。でも、今は違う。
私は一歩前に出て、イザベラの目をまっすぐに見つめた。
「イザベラ様。わたくしは、乗り換えたのではありません。わたくしの価値を理解してくださる、真の紳士をお選びしただけですわ」
そして、セドリックに向き直る。
「セドリック様。あなた様がわたくしとの婚約を破棄してくださったこと、今では心から感謝しております。おかげでわたくしは、本当の幸せが何かを知ることができましたから」
きっぱりと言い放つと、私はゼノの腕にそっと手を添えた。
「行きましょう、ゼノ様。このような方々と話していても、時間がもったいないだけですわ」
「ああ、そうだね。リラ」
唖然とするセドリックとイザベラを尻目に、私たちは優雅にその場を去った。背後から突き刺さる視線が、たまらなく心地よかった。
その夜、屋敷に帰る馬車の中で、私はゼノに尋ねた。
「ゼノ様は……なぜ、私を選んでくださったのですか? もっと美しくて、家柄の良い方はたくさんいらっしゃるのに」
これは、ずっと聞きたかったことだった。彼の優しさが、全て「偽りの婚約」のための演技だとしたら……そう考えると、胸がちくりと痛んだ。
ゼノは窓の外に視線を向けたまま、しばらく黙っていた。やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「最初に君を見かけたのは、あの夜会よりもずっと前だった」
「え……?」
「街角の本屋だ。君は、真剣な顔で歴史書を選んでいた。周りの令嬢たちがドレスや宝石の話に夢中になっている中で、君だけが違って見えた」
彼は、私の方に向き直った。銀色の瞳が、真剣な光を帯びていた。
「その瞳に、強い知性と、まだ磨かれていない輝きを見た。その時から、ずっと君が気になっていたんだ。セドリック・ヴァレンティスという男が、いかに君という宝の価値を理解していないかも含めてね」
彼の言葉は、演技とは思えなかった。私の心臓が、トクン、と大きく鳴った。
この人の隣にいると、心地よい。この人の声を聞いていると、安心する。この人の笑顔を見ると、嬉しくなる。
これは、ただの感謝なのだろうか。それとも……。
私は、この「偽りの婚約」の先に、何かを期待し始めている自分に気づいていた。ゼノ・クォーツという謎めいた男性に、本気で惹かれ始めていることを。その想いは、喜びであると同時に、底知れぬ不安でもあった。
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