婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

黒曜石の瞳に宿るは、ただひとつの真実

序章：完璧な婚約者と偽りの幸福

セレスティアナ・フォン・クラインフェルト伯爵令嬢は、今日も完璧な微笑みをその顔に貼り付けていた。

金の刺繍が施された豪奢なドレス。寸分の狂いもなく結い上げられた蜂蜜色の髪。その姿は、まるで精巧な人形のようだと、誰かが囁く声が聞こえる。けれど、それはセレスティアナにとって最大の賛辞だった。完璧であること、非の打ち所がないこと。それが、彼女の婚約者であるゼノン・ド・ヴァレンティス公爵子息の隣に立つために、最低限必要な条件だったからだ。

「セレス、今日も美しいね」

シャンデリアの光を背に受け、ゼノンが優雅に微笑む。プラチナブロンドの髪、空の色を映したかのような青い瞳。神が寵愛を一身に注いで創り上げたかのようなその人は、社交界のあらゆる令嬢の憧れの的だった。そして、その彼の婚約者という立場が、セレスティアナの唯一の誇りだった。

「ゼノン様こそ、素敵ですわ。その青いタイは、殿下の瞳の色を際立たせていますもの」

練習した通りの、淀みない賛辞。内心で安堵のため息をつく。ゼノンは満足げに頷くと、彼女の手を取り、ダンスの輪へと誘った。彼のリードはいつだって完璧で、セレスティアナはただ身を委ねていればよかった。くるくると回りながら、視界の端に映る人々の羨望の眼差しが、チリチリと肌を焼く。

（これでいい。これが正しい姿なのだから）

自分に言い聞かせる。本当は、こんな華やかな場所は苦手だった。大勢の前で注目を浴びるのも、当たり障りのない会話を続けるのも、得意ではない。本当は、静かな図書室の片隅で、古い歴史書を読みふける方がずっと好きだった。庭園の隅にひっそりと咲く、名もない野の花を愛でる時間に、何よりも心安らぐことを、ゼノンは知らない。

知られるわけにはいかなかった。

「公爵夫人となるべき女性は、博識で、優雅で、常に社交の中心にいなくてはならない」

それは、ゼノンがかつてセレスティアナに言った言葉だった。彼は彼女に、彼の理想の妻であることを求めた。だからセレスティアナは、本当の自分を心の奥底に閉じ込め、分厚い鍵をかけた。ゼノンの愛を得るため、彼の隣にいる資格を得るため、完璧な「セレスティアナ」を演じ続けてきたのだ。

けれど、時折、胸の奥が冷たくなる。彼の「愛している」という言葉を聞くたびに、それは本当に自分自身に向けられたものなのだろうかと。彼が愛しているのは、クラインフェルト伯爵家の財産と家柄ではないのか。彼が愛しているのは、彼が作り上げた「完璧な婚約者」という偶像ではないのか。

その疑念は、黒い染みのように心を蝕んでいく。だが、セレスティアナはその染みから目を逸らし、今日も完璧な微笑みの仮面をかぶり続けるのだった。