13 / 21
受け入れる微笑み
しおりを挟む
朝議の終わりを告げる鐘が、低く城内に響いた。
重厚な扉が開かれ、諸侯や家臣たちがざわめきとともに退出していく。
磨き上げられた大理石の床に足音が反響し、先ほどまでの張り詰めた空気が、少しずつほどけていった。
書記官が紙をまとめる音、衣擦れのさざめきの中、一人の家臣が、まっすぐロランの机へと歩み寄る。
「殿下。少々、お時間を」
ロランは椅子から立ち上がりかけた手を止めた。
その声音を聞くだけで、話の内容は察しがつく。
「……用件は?」
家臣は一礼し、周囲に人がいないことを確かめてから、声を落とす。
「王家の血脈をより確かなものとするため――側室を迎える件について、ご相談申し上げたく」
やはりか。
ロランはゆっくりと椅子に背を預け、指先で机を軽く叩く。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
以前から繰り返されてきた話だ。
そのたびに、エリックが間に入り、やんわりと、しかし確実に退けてきた。
だが今、エリックは隣国へ特使として赴いている。
――その不在を、見逃さなかったというわけか。
「その話は、まだ早いと言ったはずだ」
低く抑えた声だが、周囲の温度は下がった。
家臣は一瞬だけ息を詰めたが、退かない。
「お相手については、すでに有力な候補がおります」
名を告げられる前から、胸の奥に冷たい予感が走る。
「侯爵ジラール家令嬢――ブランカ・ジラール様です」
その名を聞いた瞬間、ロランの眉がわずかに寄った。
――ブランカ。
幼い頃、何度も耳にした名前。
「……彼女か」
「はい。かつて殿下の婚約者候補として名が挙がったこともあり、血筋・教養ともに申し分なく」
言葉と同時に、記憶がよみがえる。
遠くから駆け寄る足音と、明るすぎる声。
「ロラン様!」
許可もなく、当然のように隣に立つ少女。
腕に絡みつく細い指。遠慮のない笑み。
そして――
「あなた、誰?」
その視線が、まだ同じ子どもであったソフィに向けられた瞬間の空気の冷たさ。
「わたくしは、ロラン様の婚約者候補なのよ?」
胸を張り、勝ち誇ったように微笑むブランカ。
ソフィは、何も言えずに立っていた。
だが当時のロランは、はっきりと言った。
「違う。僕はソフィと遊ぶ約束をしている」
縋りつく手を外し、迷いなくソフィのほうへ歩いた。
いつだってロランの視線の先にいたのは、いつもソフィだけだった。
「殿下」
顔を上げると、家臣の隣にもう一人の男――ジラール侯爵が立っていた。
灰色の髪に整えられた口髭の下には、静かな笑みが浮かんでいる。
「娘は、殿下をお支えする覚悟がございます。王太子妃殿下の務めを脅かすつもりなど、決してございません」
穏やかな口調。
だが冷静に計算しているその目は隠しきれていない。
「側室としてなら、問題はありますまい」
まるで既定事項の確認のような口ぶりに、ロランの眉間に、はっきりと皺が刻まれた。
「私の意思は、まだ聞かれていない」
静かな怒気がにじむ。
しかし侯爵は微動だにしない。
「王家の決断は、個人の感情だけでなされるものではありません」
その言葉は、正論だった。
王太子として、いずれ王となる者として――否定しきれない現実。
重い沈黙が落ちる。
窓の外で、鐘の音がひとつ鳴った。
「殿下が迷われているのであれば、まずはお会いになってはいかがでしょう」
侯爵の提案は、巧妙だった。
会うだけ。断るかどうかはその後。
だがロランは知っている。
一度会えば、それは「検討」に変わる。
検討はやがて「調整」になり、いつしか「決定」になる。
王太子という立場はそういうものだ。
高窓から差し込む光が、長い影を床に落としている。
ロランはゆっくりと立ち上がった。
「……検討はする」
それだけを告げる。
だがその横顔には、はっきりとした警戒が宿っていた。
朝議の間を出たロランは、長い回廊を一人歩いていた。
爪が手のひらに食い込むほどの力で、拳を握りしめている。
それでも、胸の内のざわめきは鎮まらない。
衛兵たちが一礼するたび、金属の鎧がわずかに鳴ったが、彼の耳にはほとんど届いていなかった。
――ソフィの顔が、何度も頭をよぎる。
目隠しを拒まれた夜。
視線を向けてきたあの瞳を、ロランは正面から受け止めきれなかった。
言葉も、遮った。
自分を守るためだけに。
――……今、この話をどう伝える。
側室。
血脈を守るための、王家では珍しくもない慣例。
それは制度であって、感情とは切り離された、冷たい言葉のはずだった。
だが、ソフィはどう受け取るだろう。
足が止まる。
回廊の窓の外から噴水の水音が、かすかに響く。
……泣いて、嫌だと縋ってくれるだろうか。
その想像が胸を締めつける一方で、別の感情が顔を出す。
――もし、そうしてくれるなら。
自分を求めてくれるのなら。
失うことを恐れてくれるのなら。
ロランは目を閉じ、強く首を振った。
「……違う」
低く、誰にともなく呟く。
自分の期待が卑劣だと思った。
……ソフィなら、きっと王太子妃として当然だと受け入れるかもしれない。
それが――何より恐ろしい。
取り乱されるよりも、受け入れられる方が。
窓ガラスに映った自分の顔は、思った以上に険しかった。
「俺は……何を望んでいる」
王太子としての正解か。
一人の男としての本音か。
胸の奥にあるのは、ただ一つ。
ソフィに拒まれることへの恐れだった。
ソフィがその噂を耳にしたのは、昼下がりの回廊だった。
「……ブランカ様が、側室として?」
「本当?」
「ええ、朝議の後に……」
控え目に交わされた声だったが、静かな回廊では十分に届いた。
ソフィの歩みが、わずかに止まる。
付き添いの侍女が、はっとして振り返った。
「あなたたち、王太子妃殿下の御前で――」
その言葉を、ソフィは静かに制した。
「よいのです」
柔らかな声音だったが、場の空気がすっと整う。
噂をしていた侍女たちは慌てて膝を折った。
「申し訳ございません、殿下。軽率でした」
ソフィは彼女たちを見下ろすでもなく、ただ穏やかに問いかける。
「そのお話、どこから聞いたものかしら」
責める響きはない。
だが、王太子妃として事実を把握する意思がにじむ。
侍女の一人が、ためらいながら口を開いた。
「……朝議の後、重臣方の間で話題に上ったと……ジラール侯爵家のご令嬢、ブランカ様が……側室候補に名を連ねている、と」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が静かに波打つ。
だが、ソフィは顔色一つ変えなかった。
指先だけが、袖の内でそっと握られる。
「知らせてくれてありがとう。軽々しく広めぬよう、気をつけなさい」
叱責ではなく、信頼を含んだ忠告。
侍女たちは深く頭を下げた。
「は、はい」
ソフィは再び歩き出す。
だが胸の奥で、幼い日の記憶がゆっくりと目を覚ましていた。
ブランカ・ジラール。
幼い頃、王城に遊びに来るたびに、必ずロランの隣に立とうとした侯爵令嬢。
「ロラン様、こちらをご覧になって?」
甘く澄んだ声。
ためらいのない笑顔の裏で、はっきりと独占欲を隠さなかった少女。
ロランの腕に絡みつく細い指を見つめながら、ソフィは何も言えなかった。
胸の奥に湧き上がった感情が、あまりにも醜く思えて。
――嫉妬。
幼い自分の中にあった黒い感情を、ブランカは容赦なく照らし出した。
――彼女が、側室候補……。
久しぶりに、嫌な感覚が胸に蘇る。
振り払おうとしても、影のようにつき纏う。
幼い日の記憶が、鮮やかによみがえった。
ロランの隣に立つのは、自分ではないかもしれないという怖れ。
その日の夕刻。
西の空が茜に染まり、王城の石壁も淡く赤みを帯びていた。
回廊の燭台には、すでに小さな火が灯されている。
ソフィは一人、ロランの執務室へと続く扉の前に立っていた。
胸の奥にまとわりつく影を、これ以上膨らませたくなかった。
誰かの口からではなく――彼自身の言葉で聞きたかった。
扉の中の灯りは控えめで、机の上の燭台だけが書類の山を照らしている。
書類に向かうロランの横顔は、王太子としての硬さをまとっている。
けれど、その横顔を見つめることに、以前ほどのためらいはなかった。
「ロラン様」
静かに名を呼ぶ。
「……ソフィ?」
顔を上げた彼の表情が、わずかに揺れたのを、ソフィは見逃さなかった。
それだけで、胸の奥が痛む。
「お聞きしたいことが、あります」
声は思いのほか落ち着いていた。
ロランは視線を落とし、再び書類へと向ける。
「……何だい?」
努めて平静を装った声。
部屋に沈黙が落ちる。
燭台の炎が、小さくはぜた。
それでもソフィは、視線を逸らさなかった。
「ブランカ・ジラール様が、側室に入られるかもしれない……そう聞きました」
その名が室内に落ちた瞬間、空気が変わる。
ペンを動かしていたロランの手が止まった。
「……噂が、もう届いたのか」
否定はなかった。
「それは……本当の話なのですか?」
問いは、穏やかだ。
だが、答え次第で何かが壊れると、二人ともわかっている。
ロランはゆっくりと椅子から立ち上がった。
机越しではなく、距離を取るように窓辺へと歩み寄る。
外はすでに薄闇に沈み、庭の木々は葉を落とし始めていた。
枝だけになりつつある梢が、冷たい風にかすかに揺れている。
季節は確実に移ろっていた。
「……まだ、決まったわけじゃない」
窓の外を見たまま、低く告げる背中越しの言葉。
「では、可能性は?」
静かな問いが返る。
ロランは一瞬、目を閉じた。
「……政治の話だ。陛下や侯爵家の意向もある」
はっきりと拒まない、その態度。
背後で、わずかな衣擦れの音がした。
ソフィは、胸の奥で何かが沈んでいくのを感じていた。
「ロラン様は……どう思っていらっしゃるのですか」
今度は、少しだけ声が震えた。
その震えが、ロランの背を固くして、振り返れない。
「今は、答えられない」
視線を伏せたソフィの顔に、睫毛が影を落とす。
震える指先だけが、押し殺した思いを隠し切れずにいた。
「王太子として必要なことでしたら……私は、受け入れます」
それは、彼が最も望んでいなかった言葉だった。
その言葉に、ロランは思わず振り返る。
「ソフィ、それは――」
静止のような呼びかけ。
だが彼女は、かすかに首を振った。
「私は、王太子妃ですから」
穏やかな微笑み。
非難も、嫉妬も、縋る色もない。
彼女の瞳の奥に、触れれば崩れてしまいそうな静けさがあった。
そこに踏み込めば、彼女の本音も、自分の弱さも露わになる。
その未来が怖くて、ロランは一歩を踏み出せなかった。
「……今日は、これで失礼いたします」
ソフィは深く礼をしてから、音を立てぬよう扉へ向かった。
閉ざされた扉の向こう側に出た瞬間、支えを失ったように壁に手をつく。
抑えていた呼吸が乱れ、胸の奥で波が立つ。
それでも、誰にも気づかれぬよう、すぐに姿勢を整えた。
扉が閉まる音が、静かな執務室に大きく響く。
残されたロランは、しばらくその扉を見つめたまま動けなかった。
やがて、机に手をつき、深く息を吐く。
「……受け入れる、だと」
苦い呟きがこぼれる。
王太子妃としてか。
それとも、本当に心からそう思っているのか。
分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
側室の話よりも。
侯爵の圧力よりも。
彼女の静かな微笑みの方が、ずっと恐ろしい。
なぜ――彼女を失う未来だけが、こんなにも鮮明に思い描けるのか。
重厚な扉が開かれ、諸侯や家臣たちがざわめきとともに退出していく。
磨き上げられた大理石の床に足音が反響し、先ほどまでの張り詰めた空気が、少しずつほどけていった。
書記官が紙をまとめる音、衣擦れのさざめきの中、一人の家臣が、まっすぐロランの机へと歩み寄る。
「殿下。少々、お時間を」
ロランは椅子から立ち上がりかけた手を止めた。
その声音を聞くだけで、話の内容は察しがつく。
「……用件は?」
家臣は一礼し、周囲に人がいないことを確かめてから、声を落とす。
「王家の血脈をより確かなものとするため――側室を迎える件について、ご相談申し上げたく」
やはりか。
ロランはゆっくりと椅子に背を預け、指先で机を軽く叩く。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
以前から繰り返されてきた話だ。
そのたびに、エリックが間に入り、やんわりと、しかし確実に退けてきた。
だが今、エリックは隣国へ特使として赴いている。
――その不在を、見逃さなかったというわけか。
「その話は、まだ早いと言ったはずだ」
低く抑えた声だが、周囲の温度は下がった。
家臣は一瞬だけ息を詰めたが、退かない。
「お相手については、すでに有力な候補がおります」
名を告げられる前から、胸の奥に冷たい予感が走る。
「侯爵ジラール家令嬢――ブランカ・ジラール様です」
その名を聞いた瞬間、ロランの眉がわずかに寄った。
――ブランカ。
幼い頃、何度も耳にした名前。
「……彼女か」
「はい。かつて殿下の婚約者候補として名が挙がったこともあり、血筋・教養ともに申し分なく」
言葉と同時に、記憶がよみがえる。
遠くから駆け寄る足音と、明るすぎる声。
「ロラン様!」
許可もなく、当然のように隣に立つ少女。
腕に絡みつく細い指。遠慮のない笑み。
そして――
「あなた、誰?」
その視線が、まだ同じ子どもであったソフィに向けられた瞬間の空気の冷たさ。
「わたくしは、ロラン様の婚約者候補なのよ?」
胸を張り、勝ち誇ったように微笑むブランカ。
ソフィは、何も言えずに立っていた。
だが当時のロランは、はっきりと言った。
「違う。僕はソフィと遊ぶ約束をしている」
縋りつく手を外し、迷いなくソフィのほうへ歩いた。
いつだってロランの視線の先にいたのは、いつもソフィだけだった。
「殿下」
顔を上げると、家臣の隣にもう一人の男――ジラール侯爵が立っていた。
灰色の髪に整えられた口髭の下には、静かな笑みが浮かんでいる。
「娘は、殿下をお支えする覚悟がございます。王太子妃殿下の務めを脅かすつもりなど、決してございません」
穏やかな口調。
だが冷静に計算しているその目は隠しきれていない。
「側室としてなら、問題はありますまい」
まるで既定事項の確認のような口ぶりに、ロランの眉間に、はっきりと皺が刻まれた。
「私の意思は、まだ聞かれていない」
静かな怒気がにじむ。
しかし侯爵は微動だにしない。
「王家の決断は、個人の感情だけでなされるものではありません」
その言葉は、正論だった。
王太子として、いずれ王となる者として――否定しきれない現実。
重い沈黙が落ちる。
窓の外で、鐘の音がひとつ鳴った。
「殿下が迷われているのであれば、まずはお会いになってはいかがでしょう」
侯爵の提案は、巧妙だった。
会うだけ。断るかどうかはその後。
だがロランは知っている。
一度会えば、それは「検討」に変わる。
検討はやがて「調整」になり、いつしか「決定」になる。
王太子という立場はそういうものだ。
高窓から差し込む光が、長い影を床に落としている。
ロランはゆっくりと立ち上がった。
「……検討はする」
それだけを告げる。
だがその横顔には、はっきりとした警戒が宿っていた。
朝議の間を出たロランは、長い回廊を一人歩いていた。
爪が手のひらに食い込むほどの力で、拳を握りしめている。
それでも、胸の内のざわめきは鎮まらない。
衛兵たちが一礼するたび、金属の鎧がわずかに鳴ったが、彼の耳にはほとんど届いていなかった。
――ソフィの顔が、何度も頭をよぎる。
目隠しを拒まれた夜。
視線を向けてきたあの瞳を、ロランは正面から受け止めきれなかった。
言葉も、遮った。
自分を守るためだけに。
――……今、この話をどう伝える。
側室。
血脈を守るための、王家では珍しくもない慣例。
それは制度であって、感情とは切り離された、冷たい言葉のはずだった。
だが、ソフィはどう受け取るだろう。
足が止まる。
回廊の窓の外から噴水の水音が、かすかに響く。
……泣いて、嫌だと縋ってくれるだろうか。
その想像が胸を締めつける一方で、別の感情が顔を出す。
――もし、そうしてくれるなら。
自分を求めてくれるのなら。
失うことを恐れてくれるのなら。
ロランは目を閉じ、強く首を振った。
「……違う」
低く、誰にともなく呟く。
自分の期待が卑劣だと思った。
……ソフィなら、きっと王太子妃として当然だと受け入れるかもしれない。
それが――何より恐ろしい。
取り乱されるよりも、受け入れられる方が。
窓ガラスに映った自分の顔は、思った以上に険しかった。
「俺は……何を望んでいる」
王太子としての正解か。
一人の男としての本音か。
胸の奥にあるのは、ただ一つ。
ソフィに拒まれることへの恐れだった。
ソフィがその噂を耳にしたのは、昼下がりの回廊だった。
「……ブランカ様が、側室として?」
「本当?」
「ええ、朝議の後に……」
控え目に交わされた声だったが、静かな回廊では十分に届いた。
ソフィの歩みが、わずかに止まる。
付き添いの侍女が、はっとして振り返った。
「あなたたち、王太子妃殿下の御前で――」
その言葉を、ソフィは静かに制した。
「よいのです」
柔らかな声音だったが、場の空気がすっと整う。
噂をしていた侍女たちは慌てて膝を折った。
「申し訳ございません、殿下。軽率でした」
ソフィは彼女たちを見下ろすでもなく、ただ穏やかに問いかける。
「そのお話、どこから聞いたものかしら」
責める響きはない。
だが、王太子妃として事実を把握する意思がにじむ。
侍女の一人が、ためらいながら口を開いた。
「……朝議の後、重臣方の間で話題に上ったと……ジラール侯爵家のご令嬢、ブランカ様が……側室候補に名を連ねている、と」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が静かに波打つ。
だが、ソフィは顔色一つ変えなかった。
指先だけが、袖の内でそっと握られる。
「知らせてくれてありがとう。軽々しく広めぬよう、気をつけなさい」
叱責ではなく、信頼を含んだ忠告。
侍女たちは深く頭を下げた。
「は、はい」
ソフィは再び歩き出す。
だが胸の奥で、幼い日の記憶がゆっくりと目を覚ましていた。
ブランカ・ジラール。
幼い頃、王城に遊びに来るたびに、必ずロランの隣に立とうとした侯爵令嬢。
「ロラン様、こちらをご覧になって?」
甘く澄んだ声。
ためらいのない笑顔の裏で、はっきりと独占欲を隠さなかった少女。
ロランの腕に絡みつく細い指を見つめながら、ソフィは何も言えなかった。
胸の奥に湧き上がった感情が、あまりにも醜く思えて。
――嫉妬。
幼い自分の中にあった黒い感情を、ブランカは容赦なく照らし出した。
――彼女が、側室候補……。
久しぶりに、嫌な感覚が胸に蘇る。
振り払おうとしても、影のようにつき纏う。
幼い日の記憶が、鮮やかによみがえった。
ロランの隣に立つのは、自分ではないかもしれないという怖れ。
その日の夕刻。
西の空が茜に染まり、王城の石壁も淡く赤みを帯びていた。
回廊の燭台には、すでに小さな火が灯されている。
ソフィは一人、ロランの執務室へと続く扉の前に立っていた。
胸の奥にまとわりつく影を、これ以上膨らませたくなかった。
誰かの口からではなく――彼自身の言葉で聞きたかった。
扉の中の灯りは控えめで、机の上の燭台だけが書類の山を照らしている。
書類に向かうロランの横顔は、王太子としての硬さをまとっている。
けれど、その横顔を見つめることに、以前ほどのためらいはなかった。
「ロラン様」
静かに名を呼ぶ。
「……ソフィ?」
顔を上げた彼の表情が、わずかに揺れたのを、ソフィは見逃さなかった。
それだけで、胸の奥が痛む。
「お聞きしたいことが、あります」
声は思いのほか落ち着いていた。
ロランは視線を落とし、再び書類へと向ける。
「……何だい?」
努めて平静を装った声。
部屋に沈黙が落ちる。
燭台の炎が、小さくはぜた。
それでもソフィは、視線を逸らさなかった。
「ブランカ・ジラール様が、側室に入られるかもしれない……そう聞きました」
その名が室内に落ちた瞬間、空気が変わる。
ペンを動かしていたロランの手が止まった。
「……噂が、もう届いたのか」
否定はなかった。
「それは……本当の話なのですか?」
問いは、穏やかだ。
だが、答え次第で何かが壊れると、二人ともわかっている。
ロランはゆっくりと椅子から立ち上がった。
机越しではなく、距離を取るように窓辺へと歩み寄る。
外はすでに薄闇に沈み、庭の木々は葉を落とし始めていた。
枝だけになりつつある梢が、冷たい風にかすかに揺れている。
季節は確実に移ろっていた。
「……まだ、決まったわけじゃない」
窓の外を見たまま、低く告げる背中越しの言葉。
「では、可能性は?」
静かな問いが返る。
ロランは一瞬、目を閉じた。
「……政治の話だ。陛下や侯爵家の意向もある」
はっきりと拒まない、その態度。
背後で、わずかな衣擦れの音がした。
ソフィは、胸の奥で何かが沈んでいくのを感じていた。
「ロラン様は……どう思っていらっしゃるのですか」
今度は、少しだけ声が震えた。
その震えが、ロランの背を固くして、振り返れない。
「今は、答えられない」
視線を伏せたソフィの顔に、睫毛が影を落とす。
震える指先だけが、押し殺した思いを隠し切れずにいた。
「王太子として必要なことでしたら……私は、受け入れます」
それは、彼が最も望んでいなかった言葉だった。
その言葉に、ロランは思わず振り返る。
「ソフィ、それは――」
静止のような呼びかけ。
だが彼女は、かすかに首を振った。
「私は、王太子妃ですから」
穏やかな微笑み。
非難も、嫉妬も、縋る色もない。
彼女の瞳の奥に、触れれば崩れてしまいそうな静けさがあった。
そこに踏み込めば、彼女の本音も、自分の弱さも露わになる。
その未来が怖くて、ロランは一歩を踏み出せなかった。
「……今日は、これで失礼いたします」
ソフィは深く礼をしてから、音を立てぬよう扉へ向かった。
閉ざされた扉の向こう側に出た瞬間、支えを失ったように壁に手をつく。
抑えていた呼吸が乱れ、胸の奥で波が立つ。
それでも、誰にも気づかれぬよう、すぐに姿勢を整えた。
扉が閉まる音が、静かな執務室に大きく響く。
残されたロランは、しばらくその扉を見つめたまま動けなかった。
やがて、机に手をつき、深く息を吐く。
「……受け入れる、だと」
苦い呟きがこぼれる。
王太子妃としてか。
それとも、本当に心からそう思っているのか。
分からない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
側室の話よりも。
侯爵の圧力よりも。
彼女の静かな微笑みの方が、ずっと恐ろしい。
なぜ――彼女を失う未来だけが、こんなにも鮮明に思い描けるのか。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
愛しい人、あなたは王女様と幸せになってください
無憂
恋愛
クロエの婚約者は銀の髪の美貌の騎士リュシアン。彼はレティシア王女とは幼馴染で、今は護衛騎士だ。二人は愛し合い、クロエは二人を引き裂くお邪魔虫だと噂されている。王女のそばを離れないリュシアンとは、ここ数年、ろくな会話もない。愛されない日々に疲れたクロエは、婚約を破棄することを決意し、リュシアンに通告したのだが――
愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。
そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。
相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。
トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。
あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。
ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。
そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが…
追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。
今更ですが、閲覧の際はご注意ください。
すれ違う思い、私と貴方の恋の行方…
アズやっこ
恋愛
私には婚約者がいる。
婚約者には役目がある。
例え、私との時間が取れなくても、
例え、一人で夜会に行く事になっても、
例え、貴方が彼女を愛していても、
私は貴方を愛してる。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 女性視点、男性視点があります。
❈ ふんわりとした設定なので温かい目でお願いします。
醜女の私と政略結婚した旦那様の様子がおかしい
サトウミ
恋愛
この国一番の醜女である私と結婚したイバン様。眉目秀麗で数多の女性と浮き名を流した彼は、不祥事を起こしたせいで私なんかと結婚することになってしまった。それでも真面目な彼は、必死に私を愛そうと努力してくださる。
──無駄な努力だ。
こんな色白で目と胸の大きい女を、愛せるはずがない。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
【完結】好きでもない私とは婚約解消してください
里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。
そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。
婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる