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八時二分。いつもの電車、いつも立つ先頭車両。いつものように乗って、会社へ行く。変わらない日常。
なのに突然、身体が動かなくなった。電車に乗れない。電車に乗り込む乗客、降りてくる人の群れ。警鐘のように鼓動が速くなり、眼前の人々が遠く霞む。足が小刻みに震えている。怖い、逃げたい、と心が叫んでいる。
やがて、電車は走り去っていった。
全身の力が抜けていく。倒れそう、と思った。同時に倒れてしまえばいい、と思った。しかし私の足は身体を支えたまま、倒れもせず佇むだけだった。
必死に頑張ってきたつもりだった。安定剤を飲みながら誤魔化し続けた出社への拒絶感、逃避願望。
でも、私はもう、誤魔化せなくなってしまったのだ。
私はしばしの間ホームに立ちすくみ、やがて階段へと歩き出した。まだくらくらしていて本当は椅子に座って休みたかった。でも、一刻も早くここから離れたかった。これから自分の足で、家へ帰らないといけない。その前に会社に電話して欠勤すると告げて……。考えただけで胃が重くなり、余計にくらくらした。
駅を出て、冷たい風と朝の陽光が差し込む中に佇んだ。三ヶ月前から心療内科に通い、睡眠障害と抑うつ状態と診断され、安定剤を飲みながらも普通の生活をどうにか送り続けてきた。綱渡りをするかのように、ギリギリのところで踏ん張ってきた。
でも私は、綱から落ちてしまった。
これからどうなるのか。私はもうこのまま永遠に仕事へ行けなくなるのかもしれない。そしたら貯金を使って細々と暮らし、やがてお金もなくなり、親に「メンタル病んだので仕事が出来なくなりました。なので実家に戻らせてください」とみじめな告白をしなければいけなくなる……考えただけで胃液が逆流してくる。
心療内科の先生は、仕事を辞めることを勧めてきた。年齢を重ねると共に増してゆく責任、時間も心も余裕など全くない仕事量。仕事で大きなミスをしてからひとりを選ぶようになり、昼休みは会社の外のベンチで昼食をとっていた。弁当に詰め込んだ冷たいおかずだけが私の心と胃を満たしていた。でも、誰しもが簡単に辞めることは出来ない世の中だ。たとえ辞めたって、いい会社に巡り合えるか分からないし、転職活動という言葉を思い浮かべるだけでうんざりする。今にも落ちそうな綱渡りでも、綱を渡り続けることが一番楽だった。楽だと、思っていた。
家へ帰るのも酷く億劫だった。このままどこかへ行ってしまいたい、そしてそのまま会社から、社会からいなくなりたい……。消え入りそうな心で、帰路とは違う道を進む。どこへ続く道なのかも分からず、細い裏道を歩いてゆく。
ふと、頭に冷たいものが垂れてきたのを感じた。顔を上げると、空は晴れているのに雨粒がひとつ、またひとつと落ちてきている。
顔を上げた先に、青い看板が目に入った。それは本当に小さな看板で、何故気付いたのか分からない。そこには『小山田カウンセリングルーム』と書かれていた。カウンセリング。行ったことも行こうと思ったこともない未知の場所。カウンセリングルームの目の前に立つ大木がざわめき、ひゅうと音を鳴らす。木の葉に落ちた雨粒が私の背中に落ち、冷たさに唇を噛む。
助けてほしい、ただそれだけの気持ちで、私はカウンセリングルームの戸を叩く。しばらくしてドアが開いた。六十歳くらいの女性が立っていた。白髪混じりの髪を一つに縛り、少し驚いた表情をしている。
「どうしましたか?」
ゆったりとした声だった。いきなりの訪問者なのに、女性はそう訊きながらもドアを大きく開いてくれた。
「……カウンセリングって看板を見かけて。私、どうしていいか分からなくて……」
それだけ言うのが精一杯だった。何も考えていないのに涙が溢れ、頬を生ぬるいものが伝う。私は絶対不審者だ。連絡もなしに突然ドアを叩いて、受け入れてくれるわけがない。
「……雨、降ってきたのね。通り雨だろうから、とりあえず雨やどりしてったら?」
温かい、優しい声が降り注ぐ。私は泣きながら何度も頷き、カウンセリングルームへ入っていった。
女性はソファへ案内してくれた。私はソファに座り、泣き続けた。女性がティッシュ箱を無言で差し出してくれる。涙を拭い、鼻をかみ、他人に見せられる顔に戻すよう努力をする。でも、涙は止まることなく溢れてくる。
「……昔もね、そういう方が訪れたことあるわ。ここ、路地裏だから辛くなったときに迷い込みやすい道なのかもしれないわね。あなたみたいにカウンセリングを始める前の朝に突然現れて、あなたみたいに泣いてた」
女性は丁寧に言葉を選んでいるようだった。その言葉選びがすごくあったかくて、血の気が引く感覚が薄れ、自分というリアルな感覚が少しづつ戻ってくる。
「その方はね、しばらく泣き続けたあと、少しづつ話してくれた。毎日悩んで苦しんで、その末に電車に飛び込もうとして……。でも怖くて出来なくて、家に帰るのも怖くてここに立ち寄ったんだって」
私みたいに苦しんでる人がここに訪れていた。私は泣き腫らして不細工になっているであろう顔を上げ、「その人は……どうなったんですか」と訊いた。
女性は遠くを見つめながら微笑みを浮かべていた。
「カウンセラーが出来ることってね、本当に本当に僅かなことなの。その人の辛い環境を変えてあげることも出来ないし、薬を出してあげることも出来ない。ただ、話を聞いて、その人に気付かせるの」
「……気付かせる?」
「自分のね、本当の気持ちを。自分が本当は仕事を辞めてしばらくゆっくりしたい、家族のこともお金のこともひとまずは考えずに、心を休ませる。それが、その人が本当にしたいことだったわね」
そんな簡単に出来るわけがない、と思った。人は沢山の責任を背負って生きている。それを全て投げ出してしまうなんて、そんなのいいことのはずがなかった。
「でも、それじゃあ困ること沢山あるじゃないですか。生活出来なくなるし、家族にだって見捨てられてしまうかもしれないし……。そんなの……」
「綺麗事、って思う?」
女性は私を見つめていた。
「世の中、そうはいかないと思います」
芯のある強い声に自分でも驚いた。そうか、これが私を縛り付ける考えだったのか。世の中の普通に縛られ、身動きが取れなくなり、やがて朽ちていく自分の姿が見えるようだった。
「そうね。なかなか上手くはいかないと思う。その方もすごく大変だった。仕事を辞めて、家族を支える収入がなくなって、すごく苦しんだし死にたいと零していたときもあった。でも、 その方はきちんと休養して心と身体を癒して、最終的には新しい仕事をして、時々休みつつも何とか生きていってる。……立ち直れたのは何故だと思う?」
私は考えた。視線の先には花や風景を写した写真や、いくつものハーバリウムが温かい色調の木で作られた棚に飾られている。ここでカウンセリングを受けて来た人たちは、どうやって立ち直っていったのだろうか。
「……カウンセリングを受けたから、ですか?」
だとしたら何て安直で簡単なQ&Aだろう。しかし、女性は首を微笑んだまま振った。
「支える人がいたから。家族やご両親、妻のご両親、そして、病院の先生や福祉の方々……。その方が周りの人を大事にして生きてきたから、苦しんで一人で立てなくなっても周りの人は見捨てたりしなかった」
私にとって重い、言葉だった。私はひとりだ。両親とは折り合いが悪く、家族も恋人もいない。友達とも何年も会っていない。私を支えてくれる人などいなかった。――それは、私が周りを大事にしてこなかったからだ――。
「……私には……誰もいないです。ひとりなんです。このままひとりで死んでいくしかないんです……」
涙がまた溢れてくる。私はそろそろ追い出されるだろう。きっと雨ももうやんでいる。私は飛び入りの迷惑な患者でしかない。
女性の立ち上がる気配がした。足音が遠ざかってゆく。カウンセラーにも見捨てられてしまったのかもしれない。
少しして足跡が近付いてくる。顔を押さえていた片手に、何かを握らされた。そのまま私の手を両手で包み込み、優しく握ってくれる。
「雨、やまないね。あなたの心の雨。とりあえず、お菓子食べてみない? 本当はクライエントさんにはあげちゃいけないから、秘密ね。甘いものは大丈夫?」
私は視線を上げ、手に握られたものを見つめる。赤い包み紙に包まれた、小さなお菓子。女性は包み込んでいた手を離し、しゃがんだままの姿勢で私を優しく見つめている。包み紙を開くと、コロッと丸いホワイトチョコが現れた。私は口の中に放り込む。
「……甘い」
ホワイトチョコの甘味が私の心の力みを弛めてゆく。
「あなたは、ここの扉を叩いてくれた。それだけでも、一歩を踏み出した。実際問題ね、周りの人を大事にしてたって見捨てられることは世の中いっぱいあるのよね。その方だけでなく、その方の周りの人も優しかった、運のいいケースなだけ。だからね、あなたがひとりなのはあなたのせいとは限らない。多分、あなたのせいじゃないと思う。本当に僅かな力でしかないけれど、私はあなたと出会えたから、あなたがまた歩いていける手助けをしてあげたいと思うの。ねえ、ここへ通ってみない?」
女性の一言一言が胸に沁みる。私は、少しだけひとりじゃなくなったかもしれない。
そのとき、スマホが着信音を鳴らした。一気に現実へ引き戻される。画面を見る。会社からだった。もう、逃げられない。震える手でスマホを耳に当て、言葉を紡ぐ。
「――すみません。体調が悪くなって、連絡出来なくて。申し訳ありません。……はい、すみません」
上司の言葉を受け、逃げたい気持ちと必死に闘いながら、謝罪の言葉を並べる。
『そんなに謝らなくて大丈夫だよ。どうしたのかなって思っただけだから。最近忙しかったから疲れてるんじゃない? そりゃ体調も崩すよ。何か元気ないなあって気にはなってたんだ。本当に無理はしないで。仕事のことは気にしないでいいから、ゆっくり休んでな。じゃあ、お大事に』
上司の言葉は、想像していたより優しかった。怒られると身体を固くしていたのに、体調を気遣う言葉を言われ、押さえ込んでいた感情が溢れ出す。
「辞めたいんです。仕事行くくらいなら死にたい。どこかへ逃げてしまいたい。私のことを誰も知らないどこかへ行ってしまいたい……」
電話を切ってから、口から溢れる想いが止まらなくなる。ホワイトチョコの包み紙を握り潰す。固く握った拳が、柔らかな感触に包まれる。女性が再び手を包み込んでくれていた。
「そうだよね。ここまでずっとひとりで頑張ってきたんだものね。もう大丈夫よ。あなたの本当の気持ち、話せて頑張ったね。それに職場からの電話に出てきちんと欠勤すること言えた、それだけで充分頑張ったわよ」
ずっと誰かに褒めてほしかった。こんな私でも生きてていいって認めてほしかった。女性の言葉は私の背負ってきた苦しみを、静かに溶かしてゆく。
「仕事辞めてもいいんですか……?」
「勿論よ。あなたがそうしたいのなら、そうした方がきっと苦しくないはずよ。――もうかなり昔のことになるけれど、私も辛い時期があってね。でもそのとき手を差し伸べてくれた方がいたから、今ここにいて、あなたと会えたのよ」
懐かしそうな表情を浮かべる女性。自分を肯定する言葉を受け、息を長く吐く。
辞めよう。と思った。辞めることはすごく怖い。でも、綱渡りの舞台へまた戻ろうと必死にもがくより、自分の足で地面を歩きたい。私はまだ、生きてみたい。それに、私はひとりじゃなくなった。躓きそうになったとき、きっと目の前にいるカウンセラーが手を取ってくれるはずだ。それで問題が解決するわけではないけれど、ひとりで闘わなくてもいいんだ。
「……カウンセリングの予約、取りたいです」
そう言うと、女性は手帳を持ってきて空いている日にちを教えてくれた。平日の昼間だったが、迷わずそこに予約を入れた。
「雨、あがったみたい。よかったわね、日が差して少し暖かくなってきたよ」
カウンセラーは窓を開け、眩しい光と爽やかな風が滑り込んでくる。棚に飾られたハーバリウムが陽光を受け輝いていた。
「私も、少しだけ、太陽見えました」
私は立ち上がってそう言うと、カウンセラーは微笑んで、「本当によく頑張ったね」と言ってくれた。
カウンセリングルームから、外へと繋がるドアを開ける。目の前に立つ大きな木の葉に溜まった雨の雫が、柔らかな光に反射して美しい。私の心に振り続けた雨も、こうやって輝けるだろうか。雨と光は混じり合い、どんな景色を私に見せてくれるか少しだけ楽しみだ。
――まだ、私は歩き始めたばかりだ。
なのに突然、身体が動かなくなった。電車に乗れない。電車に乗り込む乗客、降りてくる人の群れ。警鐘のように鼓動が速くなり、眼前の人々が遠く霞む。足が小刻みに震えている。怖い、逃げたい、と心が叫んでいる。
やがて、電車は走り去っていった。
全身の力が抜けていく。倒れそう、と思った。同時に倒れてしまえばいい、と思った。しかし私の足は身体を支えたまま、倒れもせず佇むだけだった。
必死に頑張ってきたつもりだった。安定剤を飲みながら誤魔化し続けた出社への拒絶感、逃避願望。
でも、私はもう、誤魔化せなくなってしまったのだ。
私はしばしの間ホームに立ちすくみ、やがて階段へと歩き出した。まだくらくらしていて本当は椅子に座って休みたかった。でも、一刻も早くここから離れたかった。これから自分の足で、家へ帰らないといけない。その前に会社に電話して欠勤すると告げて……。考えただけで胃が重くなり、余計にくらくらした。
駅を出て、冷たい風と朝の陽光が差し込む中に佇んだ。三ヶ月前から心療内科に通い、睡眠障害と抑うつ状態と診断され、安定剤を飲みながらも普通の生活をどうにか送り続けてきた。綱渡りをするかのように、ギリギリのところで踏ん張ってきた。
でも私は、綱から落ちてしまった。
これからどうなるのか。私はもうこのまま永遠に仕事へ行けなくなるのかもしれない。そしたら貯金を使って細々と暮らし、やがてお金もなくなり、親に「メンタル病んだので仕事が出来なくなりました。なので実家に戻らせてください」とみじめな告白をしなければいけなくなる……考えただけで胃液が逆流してくる。
心療内科の先生は、仕事を辞めることを勧めてきた。年齢を重ねると共に増してゆく責任、時間も心も余裕など全くない仕事量。仕事で大きなミスをしてからひとりを選ぶようになり、昼休みは会社の外のベンチで昼食をとっていた。弁当に詰め込んだ冷たいおかずだけが私の心と胃を満たしていた。でも、誰しもが簡単に辞めることは出来ない世の中だ。たとえ辞めたって、いい会社に巡り合えるか分からないし、転職活動という言葉を思い浮かべるだけでうんざりする。今にも落ちそうな綱渡りでも、綱を渡り続けることが一番楽だった。楽だと、思っていた。
家へ帰るのも酷く億劫だった。このままどこかへ行ってしまいたい、そしてそのまま会社から、社会からいなくなりたい……。消え入りそうな心で、帰路とは違う道を進む。どこへ続く道なのかも分からず、細い裏道を歩いてゆく。
ふと、頭に冷たいものが垂れてきたのを感じた。顔を上げると、空は晴れているのに雨粒がひとつ、またひとつと落ちてきている。
顔を上げた先に、青い看板が目に入った。それは本当に小さな看板で、何故気付いたのか分からない。そこには『小山田カウンセリングルーム』と書かれていた。カウンセリング。行ったことも行こうと思ったこともない未知の場所。カウンセリングルームの目の前に立つ大木がざわめき、ひゅうと音を鳴らす。木の葉に落ちた雨粒が私の背中に落ち、冷たさに唇を噛む。
助けてほしい、ただそれだけの気持ちで、私はカウンセリングルームの戸を叩く。しばらくしてドアが開いた。六十歳くらいの女性が立っていた。白髪混じりの髪を一つに縛り、少し驚いた表情をしている。
「どうしましたか?」
ゆったりとした声だった。いきなりの訪問者なのに、女性はそう訊きながらもドアを大きく開いてくれた。
「……カウンセリングって看板を見かけて。私、どうしていいか分からなくて……」
それだけ言うのが精一杯だった。何も考えていないのに涙が溢れ、頬を生ぬるいものが伝う。私は絶対不審者だ。連絡もなしに突然ドアを叩いて、受け入れてくれるわけがない。
「……雨、降ってきたのね。通り雨だろうから、とりあえず雨やどりしてったら?」
温かい、優しい声が降り注ぐ。私は泣きながら何度も頷き、カウンセリングルームへ入っていった。
女性はソファへ案内してくれた。私はソファに座り、泣き続けた。女性がティッシュ箱を無言で差し出してくれる。涙を拭い、鼻をかみ、他人に見せられる顔に戻すよう努力をする。でも、涙は止まることなく溢れてくる。
「……昔もね、そういう方が訪れたことあるわ。ここ、路地裏だから辛くなったときに迷い込みやすい道なのかもしれないわね。あなたみたいにカウンセリングを始める前の朝に突然現れて、あなたみたいに泣いてた」
女性は丁寧に言葉を選んでいるようだった。その言葉選びがすごくあったかくて、血の気が引く感覚が薄れ、自分というリアルな感覚が少しづつ戻ってくる。
「その方はね、しばらく泣き続けたあと、少しづつ話してくれた。毎日悩んで苦しんで、その末に電車に飛び込もうとして……。でも怖くて出来なくて、家に帰るのも怖くてここに立ち寄ったんだって」
私みたいに苦しんでる人がここに訪れていた。私は泣き腫らして不細工になっているであろう顔を上げ、「その人は……どうなったんですか」と訊いた。
女性は遠くを見つめながら微笑みを浮かべていた。
「カウンセラーが出来ることってね、本当に本当に僅かなことなの。その人の辛い環境を変えてあげることも出来ないし、薬を出してあげることも出来ない。ただ、話を聞いて、その人に気付かせるの」
「……気付かせる?」
「自分のね、本当の気持ちを。自分が本当は仕事を辞めてしばらくゆっくりしたい、家族のこともお金のこともひとまずは考えずに、心を休ませる。それが、その人が本当にしたいことだったわね」
そんな簡単に出来るわけがない、と思った。人は沢山の責任を背負って生きている。それを全て投げ出してしまうなんて、そんなのいいことのはずがなかった。
「でも、それじゃあ困ること沢山あるじゃないですか。生活出来なくなるし、家族にだって見捨てられてしまうかもしれないし……。そんなの……」
「綺麗事、って思う?」
女性は私を見つめていた。
「世の中、そうはいかないと思います」
芯のある強い声に自分でも驚いた。そうか、これが私を縛り付ける考えだったのか。世の中の普通に縛られ、身動きが取れなくなり、やがて朽ちていく自分の姿が見えるようだった。
「そうね。なかなか上手くはいかないと思う。その方もすごく大変だった。仕事を辞めて、家族を支える収入がなくなって、すごく苦しんだし死にたいと零していたときもあった。でも、 その方はきちんと休養して心と身体を癒して、最終的には新しい仕事をして、時々休みつつも何とか生きていってる。……立ち直れたのは何故だと思う?」
私は考えた。視線の先には花や風景を写した写真や、いくつものハーバリウムが温かい色調の木で作られた棚に飾られている。ここでカウンセリングを受けて来た人たちは、どうやって立ち直っていったのだろうか。
「……カウンセリングを受けたから、ですか?」
だとしたら何て安直で簡単なQ&Aだろう。しかし、女性は首を微笑んだまま振った。
「支える人がいたから。家族やご両親、妻のご両親、そして、病院の先生や福祉の方々……。その方が周りの人を大事にして生きてきたから、苦しんで一人で立てなくなっても周りの人は見捨てたりしなかった」
私にとって重い、言葉だった。私はひとりだ。両親とは折り合いが悪く、家族も恋人もいない。友達とも何年も会っていない。私を支えてくれる人などいなかった。――それは、私が周りを大事にしてこなかったからだ――。
「……私には……誰もいないです。ひとりなんです。このままひとりで死んでいくしかないんです……」
涙がまた溢れてくる。私はそろそろ追い出されるだろう。きっと雨ももうやんでいる。私は飛び入りの迷惑な患者でしかない。
女性の立ち上がる気配がした。足音が遠ざかってゆく。カウンセラーにも見捨てられてしまったのかもしれない。
少しして足跡が近付いてくる。顔を押さえていた片手に、何かを握らされた。そのまま私の手を両手で包み込み、優しく握ってくれる。
「雨、やまないね。あなたの心の雨。とりあえず、お菓子食べてみない? 本当はクライエントさんにはあげちゃいけないから、秘密ね。甘いものは大丈夫?」
私は視線を上げ、手に握られたものを見つめる。赤い包み紙に包まれた、小さなお菓子。女性は包み込んでいた手を離し、しゃがんだままの姿勢で私を優しく見つめている。包み紙を開くと、コロッと丸いホワイトチョコが現れた。私は口の中に放り込む。
「……甘い」
ホワイトチョコの甘味が私の心の力みを弛めてゆく。
「あなたは、ここの扉を叩いてくれた。それだけでも、一歩を踏み出した。実際問題ね、周りの人を大事にしてたって見捨てられることは世の中いっぱいあるのよね。その方だけでなく、その方の周りの人も優しかった、運のいいケースなだけ。だからね、あなたがひとりなのはあなたのせいとは限らない。多分、あなたのせいじゃないと思う。本当に僅かな力でしかないけれど、私はあなたと出会えたから、あなたがまた歩いていける手助けをしてあげたいと思うの。ねえ、ここへ通ってみない?」
女性の一言一言が胸に沁みる。私は、少しだけひとりじゃなくなったかもしれない。
そのとき、スマホが着信音を鳴らした。一気に現実へ引き戻される。画面を見る。会社からだった。もう、逃げられない。震える手でスマホを耳に当て、言葉を紡ぐ。
「――すみません。体調が悪くなって、連絡出来なくて。申し訳ありません。……はい、すみません」
上司の言葉を受け、逃げたい気持ちと必死に闘いながら、謝罪の言葉を並べる。
『そんなに謝らなくて大丈夫だよ。どうしたのかなって思っただけだから。最近忙しかったから疲れてるんじゃない? そりゃ体調も崩すよ。何か元気ないなあって気にはなってたんだ。本当に無理はしないで。仕事のことは気にしないでいいから、ゆっくり休んでな。じゃあ、お大事に』
上司の言葉は、想像していたより優しかった。怒られると身体を固くしていたのに、体調を気遣う言葉を言われ、押さえ込んでいた感情が溢れ出す。
「辞めたいんです。仕事行くくらいなら死にたい。どこかへ逃げてしまいたい。私のことを誰も知らないどこかへ行ってしまいたい……」
電話を切ってから、口から溢れる想いが止まらなくなる。ホワイトチョコの包み紙を握り潰す。固く握った拳が、柔らかな感触に包まれる。女性が再び手を包み込んでくれていた。
「そうだよね。ここまでずっとひとりで頑張ってきたんだものね。もう大丈夫よ。あなたの本当の気持ち、話せて頑張ったね。それに職場からの電話に出てきちんと欠勤すること言えた、それだけで充分頑張ったわよ」
ずっと誰かに褒めてほしかった。こんな私でも生きてていいって認めてほしかった。女性の言葉は私の背負ってきた苦しみを、静かに溶かしてゆく。
「仕事辞めてもいいんですか……?」
「勿論よ。あなたがそうしたいのなら、そうした方がきっと苦しくないはずよ。――もうかなり昔のことになるけれど、私も辛い時期があってね。でもそのとき手を差し伸べてくれた方がいたから、今ここにいて、あなたと会えたのよ」
懐かしそうな表情を浮かべる女性。自分を肯定する言葉を受け、息を長く吐く。
辞めよう。と思った。辞めることはすごく怖い。でも、綱渡りの舞台へまた戻ろうと必死にもがくより、自分の足で地面を歩きたい。私はまだ、生きてみたい。それに、私はひとりじゃなくなった。躓きそうになったとき、きっと目の前にいるカウンセラーが手を取ってくれるはずだ。それで問題が解決するわけではないけれど、ひとりで闘わなくてもいいんだ。
「……カウンセリングの予約、取りたいです」
そう言うと、女性は手帳を持ってきて空いている日にちを教えてくれた。平日の昼間だったが、迷わずそこに予約を入れた。
「雨、あがったみたい。よかったわね、日が差して少し暖かくなってきたよ」
カウンセラーは窓を開け、眩しい光と爽やかな風が滑り込んでくる。棚に飾られたハーバリウムが陽光を受け輝いていた。
「私も、少しだけ、太陽見えました」
私は立ち上がってそう言うと、カウンセラーは微笑んで、「本当によく頑張ったね」と言ってくれた。
カウンセリングルームから、外へと繋がるドアを開ける。目の前に立つ大きな木の葉に溜まった雨の雫が、柔らかな光に反射して美しい。私の心に振り続けた雨も、こうやって輝けるだろうか。雨と光は混じり合い、どんな景色を私に見せてくれるか少しだけ楽しみだ。
――まだ、私は歩き始めたばかりだ。
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