美丈夫から地味な俺に生まれ変わったけど、前世の恋人王子とまた恋に落ちる話

こぶじ

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君の全てを

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「トマス、おいで」

 ほんの僅かに殿下の表情が和らげられたが、俺の身体は思うように動かない。振り絞った力でルシアン兄さんの体を押して離れようとするが、逆に庇うように抱き寄せられてしまった。

「あんたは誰だ?うちのトマスに何の用だ?」

 兄さんの刺々しい言葉に、殿下の表情が敵愾心に満ち、雄々しく切れ長の目で睨み付けられる。視線を合わせただけで心砕けてしまいそうだ。

「トマス。君は俺のものだろう」

 そうだ。俺は殿下所有の性欲処理具だった。何故か、殿下の中ではまだ俺は所有物のままらしい。
 道具でもいいから殿下のそばにいたい気持ちもないわけで無い。でも、そんな形でそばにいたら確実に心が壊れるだろう。

 殿下から目を離せない。直ぐ様逃げ出したい。何と言ったら良いかわからず、情け無いことに目頭がどんどん熱を持っていく。
 精一杯の意思表示で首を横に振ると、途端、殿下が一瞬酷く傷付いたような顔をした、ような気がした。

「俺より、それを選ぶのか」

 苦々しく呟き、殿下は素早く何某かの魔法術式を右手で虚空に書き開いた。
 何の術式なのか全くわからない。空気の流れが変わらないから火でも水でも風でも無い。匂いも無いから爆破や毒でも無い、と思う。ただ、殿下の手元が微かに暗く、僅かに淀んでいるように見える。

「あー!バカバカバカ!ジェラード何してんの!その人トマスくんの身内でしょ!大バカ王子!手出したらトマスくんに嫌われるよ!」

 殿下の後ろからひょこりと現れたアレクス先輩は、鮮やかな手捌きでささっと殿下の右手先にある術式を畳んで打ち消した。殿下はアレクス先輩を睨み付けたが、右手は下ろされたので友人の言葉を聞き入れたらしかった。

「トマスくん、久し振りだねえ」

 あまりにいつも通り緩く笑う先輩に、場の毒気が抜かれる。微かに震える手でもう一度兄さんの体を押すと、今度はすんなりと離れてくれた。

「アレクス先輩、ええと、お久し振りです。お会い、できて、嬉しいです」

 社交の細やかな笑みを浮かべたつもりが、気が緩んで眦から雫がぽろりと溢れてしまった。示し合わせたように、殿下と兄さんが同じタイミングでぎょっとした顔をした。

「トマス大丈夫か?この人たちは学院の人なのか?出直してもらうか?」

 俺の前にしゃがみ込み覗き込んでくる兄さんに、「優しい先輩だから大丈夫」と言ったが、その心配気な表情は曇ったままだ。

「何故泣くんだ?俺よりアレクスに会いたかったのか?」

 頭上から愛おしい声が降り注ぐ。仰ぎ見れば、哀しみと不安を綯い交ぜにした心許ない様子で、すぐ真横に立った殿下が真っ直ぐ俺を見つめて来る。
 あなたにだけは会いたくなかった、だなんて不敬な事を言える訳もなく、俺は無言で見つめ返した。

「ジェラードが物騒な事するからトマスくん泣いちゃったんでしょーお。失礼な事したんだからそちらの人にもちゃんと謝りなよお」

 殿下の視線はルシアン兄さんにちらりと向けられたが、直ぐ様俺に戻ってきてまたじっと見つめられる。平素優しげな笑みを称えている瞳が沈痛に眇められ、ずしりとのしかかるような目力にどうにも居心地が悪い。

「すまなかった」

 先程の術式が何かもわかっていない俺は、殿下の謝罪を受け入れていいものなのかさえよくわからない。ただ、殿下の視線から逃れたくて素直に頷いた。

「あの、こんな場所で何ですが、お茶お持ちしますね。兄さん、ここ借りて良いよな?」

「構わないが、お前顔色が悪いぞ。茶なら俺が持ってくるから座ってろ」

 この場を離れたい俺の気持ちなど知らないルシアン兄さんは、俺を長椅子に押し留めてさっさと礼拝室を出て行ってしまう。

「お二人とも座ってお待ちください」

 俺だけ座っているのも気まずいので、直ぐ様殿下とアレクス先輩にも椅子をすすめるが、アレクス先輩は緩く首を横に振った。

「俺は外で待ってるからさあ、トマスくんはジェラードと二人で話してあげてくれる?」

「殿下と二人でですか?」

 置いて行かないで欲しい。殿下から直接何も聞きたくない。これ以上傷付きたくないのだ。殿下から為されるだろう話の内容を想像するだけで、心臓が握り潰され息が止まりそうだ。

「うわ。嫌そうだねえ。ジェラードそんなに嫌われてるの?」

「嫌ってる、なんて事は、無い、です、けど…」

 ちらりと殿下を伺う。悲しげな顔の殿下とまた見つめ合う。殿下が何故そんな顔をするのかがわからない。
 どう伝えれば、放っておいて欲しい事をわかってくれるだろうか。殿下からしても、婚約者の友人との肉体関係を続ける利点なんて、何一つ無いだろう。そう簡潔に伝えてしまいたいが、アレクス先輩がいる手前そういった関係性だった事は口に出せない。ぐるりと思考を巡らせても何も浮かばず、居た堪れなくて俯いてしまった。

「殿下と、お話する事は、もう何も無いと思うんです」

「無い訳が無いだろう!!」

 礼拝室に響き渡る殿下の怒声に、本能的な恐怖で体がびくりと大きく引き攣る。
 失敗した。いつも優しげな殿下の、こんな激昂した声など聞いた事が無い。如何程の怒りを買ってしまったのだろう。アレクス先輩が溜め息混じりに、ジェラード殿下を宥めてくれた事で、殿下からの怒声の追撃は無かったが、もう顔を上げる事はできそうになかった。

「トマス、何故だ。俺から離れたいのか?」

「…………そう、ですね。…申し訳ありません」

 殿下が息を呑む気配がして、場違いな罪悪感を覚える。

「他に慕う相手が出来たのか?」

「…そうではありません」

「ならば何故だ。何故俺から離れる。生涯そばにいると約束してくれただろう?」

 じわりと胸が疼く。いつか交わした睦言を覚えてくれていた事が嬉しいだなんて、自分の諦めの悪さに笑えてしまいそうだ。往生際の悪い俺を切り捨てて欲しい。
 嗚咽を堪えた喉が引き絞られて切なく痛む。

「………これからの殿下の人生に、俺は本当に必要ですか?」

「何を言っているんだ…?」

 殿下の声が震えている。震わせているのはどんな想いなのだろうか。

「君が居なければ俺は生きていけないんだと何故わかってくれない…」

「……逆です。俺は邪魔にしかならないんです。どうか、今度こそ殿下が選んだ白百合と添い遂げてください」

「何を言って……」

 殿下が呟くような声量で言いかけて黙り込んだ為、不意に沈黙が落ちる。俯いたままの俺には殿下がどんな表情で、何を見ているのかがわからない。
 開かれたままの窓から、孤児仲間たちの場違いなほど楽しそうな笑い声が遠く微かに聞こえてくる。


 気まずい沈黙を破ったのは、殿下でも俺でもなく、ずっと成り行きを見届けてくれていたアレクス先輩だった。


「あのぉさー、もしかしてトマスくん前世の記憶とかいう意味わからん困ったやつがあったりするう?」

「えっ…アレクス先輩もあるんですか?」

 予想外過ぎて、涙の予兆も忘れて素っ頓狂な声を上げてしまった。しかし、仰ぎ見たアレクス先輩は「俺じゃないよお」と首を横に振った。なるほど、殿下の前世の記憶の話はアレクス先輩も聞いているのだろう。

「ああ…ミラード殿下の事ですね」

「知っていたんだな」

「ひと目見た時から」

 ちらと殿下を見ると、「そうか」と吐息混じりの柔らかな声で返された。心なしか、眦が優しい。

「ならば、俺の白百合が誰かわかっているだろう」

 そう問いながら、とろりと融ける極上の笑みを浮かべた殿下は、俺の知る何よりも美しい。久々に見る、俺の大好きな殿下のいつもの表情だ。
 脊髄反射のように多幸感に心が満たされるが、直ぐ様暗い穴に叩き落されるような心地に苛まれる。

「でも、俺はエゼキエルではありません。美しくもないし、聖人でも無い、ただの学生です」

「君とエゼキエルがよく似ているのは確かだが、俺が愛しているのはエゼキエルではなく、トマス・デーンだ。君は誰よりも愛らしくて慎ましく魅力的な唯一無二だ」

 とろり。微笑まれてまた性懲りもなく胸が高鳴る。 
 殿下が嘘を言っているようには見えないが、だからといって今までの葛藤や絶望を無かった事にして、甘言のようなそれを直ぐ様鵜呑みにする度胸は俺には無い。
 また、貴方への気持ちを叩きのめされてしまうのが心底怖い。

「でも…ガブリエルと、婚約するのでしょう?アレクス先輩と話しているのを聞いてしまいました。俺は友人と貴方を分かち合うなんてできませんよ」

「…トマスが俺から離れようとしたのはその話のせいか?」

 笑みを絶やさないまま腰を折った殿下から、心地良い上質な毛布のように柔らかな低音が俺の耳元に触れる。「なあトマス。教えてくれ」と艶めいた口調にぞわりと背が震え、思わず小さく首肯してしまう。
 水気を帯びた目で殿下を見上げると、そこで初めて殿下の手のひらが俺の頬に触れた。殿下の体温を感じるのはいつぶりだろうか。ふにゃりと体から力が抜けて、殿下の手に擦り寄ってしまう。

「ガブリエル嬢とは何も無い。婚約の話は、要人を秘密裏に呼び出す為の口実にしただけの嘘だ。トマスを手酷く遠ざけたのも、君を面倒に巻き込みたくなかったからだ。全てガブリエル嬢に確認してもらって構わない」

 はいそうですか、とも直ぐ様頷けないが、だからと言ってこんな誠実に話す殿下を頭ごなしに疑う気にもなれない。少し困ってアレクス先輩を見ると、満面の笑みで力強く頷かれた。

「ジェラードはトマスくん恋しさでかなりドギツい無茶したんだよお。トマスくんの事だけは正真正銘愛してるからねえ、君に関する事はまるっと信じて大丈夫~」

 俺たちの関係は完璧にアレクス先輩に筒抜けらしい事に羞恥を覚えるが、それより気になる話が出てきてしまった。

「無茶をされたんですか」

「…大した事ではない。それにもう終わった事だ」

 微妙に視線をそらされた事に腹が立って、しっかり目を見てやろうと身を乗り出すと、顎を取られて流れるように口付けられた。慌ててアレクス先輩を確認すると「俺は見てなあい。いい子だからお外で待ってるう」とにこにこしたまま礼拝室を出て行ってしまった。

「殿下、誤魔化そうとしてますか?」

 殿下の腕をしっかり掴んで、今度こそ存分に睨む。諦めたのか、もう目をそらされなかった。

「君に隠し続けるつもりは無い。ただ、その話は俺の中で些末な物なんだ。俺の我儘を聞いてくれるならその話は後日にさせてくれ。その時に幾らでも叱られよう。今日はもっと大事な話をしに来たんだ」

 腕を掴んだ俺の手を優しく剥がし、大きく硬い手のひらで握り込む。いつかのように殿下は俺の前に片膝をついた。

「トマスに聞いてほしい望みがある」

 とても真摯な瞳が真っ直ぐに俺を射抜き、恭しく取られた右手を胼胝のある親指が優しく撫でる。

「はい。何なりと」

 俺は、願いの内容を聞かずとも、このヘーゼルアイを甘く融かす男の言い成りになる予感しかなかった。今俺は彼に逆らう術など持っていないのだから。

「愛しいトマス。どうか、俺の妃になって欲しい」

 愛を囁かれるのは覚悟をしていたが、まさか求婚されるなんて非現実的な事までは想定していなかった。絵に描いたような凛々しい王子からの求婚に「え、へえ?」と酷く間抜けな返事をする不敬な平民が出来上がった。

「俺が、ですか?男が妃になるなんて、例え正式なものでなくても許されない事ではないですか?」

 世継ぎが成せないのだから認められる訳が無い。ましてや、ジェラード殿下は第一王子なのだから。今回のガブリエルとの件が計略の中の嘘なのだとしても、俺がいつかは離れなければいけない身である事に変わりはない。

「何も問題無い。陛下からもトマスを俺の正妃として迎える了承も得ている。今後、俺は王位継承から退き、将来的には軍部から政に関わるつもりだ」

 事も無げに告げられた話はあまりに大事で、頭がくらくらする。俺がこんなに衝撃を受けて目を白黒させているのに、殿下はとんでもなく楽しそうで恨めしい。

「殿下はそれでいいんですか?国王になる為に今まで努力されてきたのではないのですか?」

「努力するのは王族の義務だ。俺は王族の在り方として国の為に尽くすべきだと思う。ただ、それは国王という形でなくて全く構わない」

「未練が、残りませんか?」

 俺が相当変な顔をしていたのだろう。殿下はくすりと笑いながら俺の右手を持ち上げて頬擦りをした。至極大切なものを扱うように指と指を絡める。

「これらは全て俺の要望を陛下に一方的に飲ませた結果で、決定事項だ」

「……俺が、殿下を独り占めしてもいいんですか?」
 
「俺がトマスじゃないと駄目なんだ。わかってくれるだろう?俺もミラードと同じ、たった一人の白百合を命に変えても愛し抜く」

 胸がぎゅうと締め付けられる。
 優しく手の甲に口付けながら強く言い切った、この誠実な人を信じたいと思った。
 気恥ずかしさを全て体に留めたまま、しっかりと目線を合わせ見つめ合う。とろりと微笑って「仕切り直しさせてくれ」と殿下は俺に乞うたので、俺は顔を火照らせたまま頷いた。

 殿下は、俺の右手を両の手で宝物を守るように一度強く握り締め、恭しく持ち直すと、優しく溶かしたヘーゼルアイで俺の目を真っ直ぐに見る。

「どうかいつまでもそばに。俺に君の全てを連れ去らせてくれないか」

 眦縁から涙を溢して、俺は愛を込めて笑った。
 私の分も、どうか君に届くといい。

「はい。永遠にいつまでも、貴方の伴侶としておそばにいさせてください」
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