30 / 127
029
しおりを挟む
「なんて?」
雲田に訊ねられて、今度は日本語で答える。雲田が感心した様子で頷いた。
「ずいぶん複雑な語順だな。8歳……でも、女の子は男より成長速いし、そんなもんか」
「バレエができるなんて知らなかった」
雲田は独り言を言い始めたけれど、日高が容赦なく話を混ぜ返す。一瞬言葉に詰まると、長谷が別の質問をしてくれた。
「ご両親は今もあっち?」
私はほっとして首を振る。
「ううん。一緒に戻ってきて、地元で教室を開いたの」
今では彼女ともすっかり打ち解けている。
ミーチャの花束で私の中の醜い嫉妬がどこかへ消えてしまったのだ。
「実家は?」
日高に訊ねられ、あれと思った。けれどずいぶん前のメイク中にした世間話の内容なんて忘れてしまってもおかしくない。
「岡山です」
「あ、そうだ。言ってたね」
思い出してくれたようだ。
「じゃあその教室に通ってたんだ」
雲田はしつこい。
私は諦めて呼吸を整えた。喋ってしまったほうが楽だ。あまり楽しくない話だから、なるべく軽い印象で済むようにしなければと気を引き締める。
「両親の帰国は、私の体調のせいなんです。風邪をひきやすくて、長引くし、ぶり返す子どもで。向こうは冬は寒いし、時間がくっきりしている国だから夜は薬局も早く閉まるので、不安だったんだと思います」
「今はそんなことないよね?」
間髪入れず日高に訊かれ、ぎくりとしてしまった。彼は雇い主だ。
「はい。ご存知の通り、元気です」
「バレエはなんで辞めちゃったの?」
顔に出てしまったのか、長谷の目が泳ぎ始めた。なんとかしてよ、とでも言うようにミーチャの裾を引っ張っている。でも、長谷は肝心な事を忘れている。ミーチャは日本語がわからない。私が何を言っているのかはわからないのだ。彼は渋い顔で私と日高を見比べている。誰か通訳してよ、という感じだ。
彼が気にかけてくれているようで、嬉しくなった。
私はミーチャに微笑んでから続けた。
「情熱が、なくて」
「情熱?」
日高と雲田が声を重ねた。私は頷いて続けた。
「私のバレエはつまらないんです。とにかくきれいに、正確に、完璧に踊るのが楽しくて、夢中で練習しました。でも、心が、こめられない。ジゼルやフィガロがどんな子か知っている、それと私が踊るのは別のこと。表現できないんです。だから鏡を見るのが苦痛で。だって、私のバレエは本当につまらないんですよ」
実力者の人たちを前に何を言っているんだろう。恥ずかしくなって箸を置き口を覆った。恥ずかしがっている顔を見られるのも恥ずかしい。
「それで母に言われたんです。自分を活かせる職業で舞台を作りなさい。──だから私、日高さんのおかげで最高に幸せです。たくさん、すてきな仕事をさせてもらって、毎日とても興奮してます」
バレエを辞めた本当の理由なんて話す必要はなかったのだ。夢は諦めるしかなかったけれど、私は今、とても恵まれた環境にいる。だから充分すぎるほど幸せだった。日高には感謝しかない。この仕事に携われた事、今ここに居る事が嬉しくて仕方ない。
日高が優しく微笑んだ。
「磨きぬかれたセンス。妥協を許さない向上心。それに可愛い。最高のスタイリストだよ」
認められるのは嬉しい。
私はその気持ちを隠さずに日高を見つめ、今ある幸せを噛み締めた。
悔いはない。
幸せな人生だったと思いながら、安らかに眠りにつける。そう確信した。
食べ終わると日高がピアノの前に座った。再び彼への違和感が首を擡げる。彼はどんな楽器も演奏できないはずだ。休業中に練習したのだろうか。その考えは次の瞬間、粉々に打ち砕かれた。
彼の指が鍵盤を踊る。悲愴な、それでいて攻撃的な旋律が一瞬で稽古場を支配した。荒れた大海原のように、ゆるぎない命を宿した音。魂の震える音だ。彼は歌い始めた。長谷が歌詞を書き留めていく。
紛れもないカルミネの姿が、そこにあった。
雲田に訊ねられて、今度は日本語で答える。雲田が感心した様子で頷いた。
「ずいぶん複雑な語順だな。8歳……でも、女の子は男より成長速いし、そんなもんか」
「バレエができるなんて知らなかった」
雲田は独り言を言い始めたけれど、日高が容赦なく話を混ぜ返す。一瞬言葉に詰まると、長谷が別の質問をしてくれた。
「ご両親は今もあっち?」
私はほっとして首を振る。
「ううん。一緒に戻ってきて、地元で教室を開いたの」
今では彼女ともすっかり打ち解けている。
ミーチャの花束で私の中の醜い嫉妬がどこかへ消えてしまったのだ。
「実家は?」
日高に訊ねられ、あれと思った。けれどずいぶん前のメイク中にした世間話の内容なんて忘れてしまってもおかしくない。
「岡山です」
「あ、そうだ。言ってたね」
思い出してくれたようだ。
「じゃあその教室に通ってたんだ」
雲田はしつこい。
私は諦めて呼吸を整えた。喋ってしまったほうが楽だ。あまり楽しくない話だから、なるべく軽い印象で済むようにしなければと気を引き締める。
「両親の帰国は、私の体調のせいなんです。風邪をひきやすくて、長引くし、ぶり返す子どもで。向こうは冬は寒いし、時間がくっきりしている国だから夜は薬局も早く閉まるので、不安だったんだと思います」
「今はそんなことないよね?」
間髪入れず日高に訊かれ、ぎくりとしてしまった。彼は雇い主だ。
「はい。ご存知の通り、元気です」
「バレエはなんで辞めちゃったの?」
顔に出てしまったのか、長谷の目が泳ぎ始めた。なんとかしてよ、とでも言うようにミーチャの裾を引っ張っている。でも、長谷は肝心な事を忘れている。ミーチャは日本語がわからない。私が何を言っているのかはわからないのだ。彼は渋い顔で私と日高を見比べている。誰か通訳してよ、という感じだ。
彼が気にかけてくれているようで、嬉しくなった。
私はミーチャに微笑んでから続けた。
「情熱が、なくて」
「情熱?」
日高と雲田が声を重ねた。私は頷いて続けた。
「私のバレエはつまらないんです。とにかくきれいに、正確に、完璧に踊るのが楽しくて、夢中で練習しました。でも、心が、こめられない。ジゼルやフィガロがどんな子か知っている、それと私が踊るのは別のこと。表現できないんです。だから鏡を見るのが苦痛で。だって、私のバレエは本当につまらないんですよ」
実力者の人たちを前に何を言っているんだろう。恥ずかしくなって箸を置き口を覆った。恥ずかしがっている顔を見られるのも恥ずかしい。
「それで母に言われたんです。自分を活かせる職業で舞台を作りなさい。──だから私、日高さんのおかげで最高に幸せです。たくさん、すてきな仕事をさせてもらって、毎日とても興奮してます」
バレエを辞めた本当の理由なんて話す必要はなかったのだ。夢は諦めるしかなかったけれど、私は今、とても恵まれた環境にいる。だから充分すぎるほど幸せだった。日高には感謝しかない。この仕事に携われた事、今ここに居る事が嬉しくて仕方ない。
日高が優しく微笑んだ。
「磨きぬかれたセンス。妥協を許さない向上心。それに可愛い。最高のスタイリストだよ」
認められるのは嬉しい。
私はその気持ちを隠さずに日高を見つめ、今ある幸せを噛み締めた。
悔いはない。
幸せな人生だったと思いながら、安らかに眠りにつける。そう確信した。
食べ終わると日高がピアノの前に座った。再び彼への違和感が首を擡げる。彼はどんな楽器も演奏できないはずだ。休業中に練習したのだろうか。その考えは次の瞬間、粉々に打ち砕かれた。
彼の指が鍵盤を踊る。悲愴な、それでいて攻撃的な旋律が一瞬で稽古場を支配した。荒れた大海原のように、ゆるぎない命を宿した音。魂の震える音だ。彼は歌い始めた。長谷が歌詞を書き留めていく。
紛れもないカルミネの姿が、そこにあった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
55
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる