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033 Дмитрий
しおりを挟む甘い靄をかきわけて、薄暗い天井を見た。ふわふわとして、いい気分だ。彼女のぬくもりを確かめたくて腕をずらした。広いベッドにひとりきり。隣は冷えて、だれもいない。
早起きだから、と思いかけ、哂った。
夢だ。
身を起こし、片手で顔を覆う。
父はイーダの訃報を受け、表向き、遺体が発見されるまで弔いは出さない姿勢をとった。だが、あいつは、父親だ。僕よりずっと、ジナイーダという人間を理解している。実家に呼び戻され、父とイワノフとソフィアを前にして、思い知った。イーダの叛逆は、黙認されている。
「権限を与えるつもりはない。これからも、好きなようにしなさい」
長い沈黙の末に、父は言った。
これからも? 好きなように?
酒瓶を掴み、ウォトカを流し込む。僕の身体は屍だ。もう、血も、肉も、骨も、黒く冷たい屍だった。喉をすべり、食道を潤し、胃にひろがる命の水だけが僕に熱を返してくれる。
ベッドを下り、冷凍庫の前に跪いた。5本。足りるか? まあいい。もっと必要だろうが、電話ひとつで10本でも100本でも持ってくる。浴槽にあけて、僕が沈んでいくのもいいかもしれない。いっそ水槽のなかで溺れて死にたい。
歯で栓をあけ吐き捨て、命を貪る。
こうして繋ぎとめる命なら、あのとき、一緒に死ねばよかった。マーマの代わりに、僕が。ヴィヤーニカは正しかった。僕たちが辿りつくのはこんな未来だとわかっていたから、終わらせた。あの日、マーマの手を離した僕は、その瞬間から化物だったんだ。
熱くなった身体に、冷風がふきつける。窓を、開けて寝たのか。どうだっていい。あと2本。次を呑んだら、電話をかけて追加を頼もう。
急に吹きつけた風は、唐突に止んだ。なんだか、むかつく。肩越しに見ると、白い朝陽が広がる絨毯に、雪が散っていた。
朝陽。
花に顔をよせ微笑んだ、あの子は────
「まったく」
呆ける僕の手から酒瓶が抜き取られる。でも、男の声だ。あの子じゃない。
「酒は味わえって。肴もなしに、そんなところに蹲るもんじゃないよ」
「……朝だ」
「おはよう、ドミトリー」
頭上から流れる声を無視して、僕は愕然と窓の外を眺めた。
僕は、化物だろう。しかも、呑んだくれのクズ。嫌われる。
約束を破った。あれは、僕の約束だったのに。
「カフェに連れて行きたいんだが、何分かかる?」
床に転がしたままの瓶を次々に抱えて、男は軽く声をかけてくる。懐かしい感じがした。一度は、友だちだった奴だ。ちくりと痛む目を閉じ、首をふって頭を醒ます。
「なにしに来た」
「なにって。様子を見るついでに、朝飯」
「朝飯?」
「寝惚けて。カフェに行くから服を着ろって」
何を言ってるんだ?
さも善人そうな苦笑いで見おろしてくる男を睨み、僕は歯を食いしばる。こいつに、怒鳴り散らしたところで、何も変わらない。惨めになるだけだ。
「なにしに」
「ドミトリー! 寝てるか泥酔なんていい若い者のすることじゃないぞ!」
怒鳴ったのは奴の方で、溜め息をつき電話に向かった。僕の代わりに朝食を頼む。完全に駄目な友だちに構ういい奴の体だが、そんな関係じゃない。つまり僕が聞きたいのはそういうことだ。何のために、友だちゴッコを続けるのか。
「よく食い、よく遊び、人生を謳歌するんだ。自分から腐るような真似はよせ。いくらちやほやされても、そんな顔をしてると悪人だぞ」
「正解」
「また。いいか、不貞腐れて愛されるには、大きすぎない身体と、低すぎない声と、できれば男じゃないのが好ましい。ぜんぶ無理だろ。笑えよ」
「愛されなくていい」
「馬鹿言え、淋しん坊」
いらいらする僕をよそに、奴は窓際の椅子をひいて座った。よりかかる冷凍庫が、耳元で低く唸る。追い返す気力はない。居座りたいなら、勝手にすればいい。
ムラヴィヨフは頬杖をつき、長いこと僕を見つめていた。年長者らしく深い眼差しに、苛立ちが募る。年はせいぜい5つか6つ違うだけで、そんな、聞き分けのない子どもを見守るような顔をされたくない。どうせイーダの遣いで来ただけのくせに。やっとそこに思い当たり、僕は膝を伸ばし、爪先に目を落とした。
「僕をイーダの後任に据える気はないって」
ムラヴィヨフが目を細めた。
「お前はどうしたい」
「僕?」
「《スィミヤー》を継ぎたいのか?」
「まさか」
笑いがもれる。
「いらないよ」
声が擦れ、我ながら哀れっぽい。
「可哀相に」
ムラヴィヨフの駄目押しに更にへこんだ。敏いのか鈍いのか知らないが、友だち面でうろつかれるのは迷惑だし、苛々する。
いい感じに目も覚めて、酔いも回っていた。ずいぶん、心に余裕ができた気がする。これならムラヴィヨフを追い返すくらい、できそうだ。
「もう用は済んだだろ。ひとりにしてよ」
「朝食がまだだ」
「電話をかけてくれて“ありがとう”。帰れ」
ムラヴィヨフは短い沈黙をはさみ、溜め息をつくと静かに立ち上がった。
「苛めすぎたな」
その呟きの意味を深く考えもせず、僕は窓を睨んだ。てっきりそこから飛び立っていくものとばかり思っていたが、ムラヴィヨフは僕を横切り扉をあけた。
「ドミトリー。要らないものを、なぜ守るか。考えるんだ」
初めて聞く説教臭い声。急に年寄りじみた背中に違和感を覚えたが、何を確かめたいのかもわからない。ムラヴィヨフは扉をあけたまま、渋い顔をして去った。
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