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072 Дмитрий
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「まりえ」
名前を口にすると、ゆるやかな波が全身を撫でた。
「アリ、ガト」
彼女の国の言葉でそれだけ伝える。これが限界だ。口が、追いつかない。
「僕は君のために生きるよ」
「ミーチャ。違うわ」
かすかに笑った気配が、優しい。
「あなたは、あなたのために生きるのよ」
「だから君を守りたいんだ」
「ありがとう」
囁くように言って、まりえが居住いを正した。
「ねえ、私が言うことでもないけど……。ご家族のだれも、あなたを恨んでないはずよ。私には、とても仲のいい、絆の強い関係に見えたの」
「みんな僕の約束を知らないからだ」
今までにない穏やかな気持ちで返すと、まりえが声を落とし、怒った。
「お姉さんね」
悪寒が走る。たしかにイーダは僕を恨んでいる。僕が、マーマの手を離したからだ。まりえの善良さが姉を悪者に変えてしまうのが怖くて、慌てた。まりえがイーダに敵うはずない。
まりえの瞳が憤りにゆれる。
イーダの瞳が、僕を蔑む。
「傷ついて言ってしまっただけ。ミーチャ。本気じゃないの」
「違う」
「あなたを縛りつけていたものは、幻なのよ」
「───」
胸が、裂けた。怖れと痛みは同時にやってきて、冷たいイーダの瞳を宙に映し出す。あれほどまでの憤りや憎しみが罪のせいでないなら、なぜ姉は僕を忌み嫌ったのだろう。嘘をついたとは思えない。姉の痛みが本物だから、この罪はゆるぎないのに。
「なんてこと」
荒っぽくまりえがもらした。僕の口を突いて出たのは、弁護だった。
「イーダは悪くない」
「そうね」
悪態をつくような言葉だけの肯定に、僕は言い募る。
「マーマは特別だった。愛されていたんだ。ラーチカの初恋のひとだし、イーダの親友だった」
「そしてあなたのお母さん」
「そうだよ。だから僕が、手を離した僕がみんなのマーマを」
「殺してないわ」
ついに怒鳴ってまりえが立った。涙をためた目を大きく開いて、僕を見おろす。
「あなたを守ったの、愛していたから」
一瞬、息が止まった。
まりえの怒りは本物だった。くしゃっと顔を歪ませて、涙を押しつぶすように小さな拳を目に押し当てる。
「ヒドイ。オトナタチハナニヲシテイタノ」
何を言ったのかわからないが、それが蔑みを含む憤怒であることは理解できた。彼女の手を失った僕の両手が震え始める。泣かせてしまった。細い身体に触れ座るよう促すと、まりえは僕の手を払った。
「子どもばかりに危険な旅をさせて、心の傷はほったらかし。お姉さんはあなたのせいにするしかなかった。ひとりでは抱えきれなかったからよ」
拒み、泣いて、怒りをぶちまけているのに、まりえは僕の頭を胸に抱いた。ちいさくて柔らかな感触に、優しい気持ちと欲望を覚える。鎮めるために、僕は目を閉じた。
「あなたは苦しんではだめ。お姉さんの痛みを引き受けてはだめ」
渦巻く激情は、ゆるやかな波となってふれあう部分からじわじわと僕を癒す。そっとうなじの辺りを撫でられると、心地よさに眩暈がした。おしつけられる毛糸の感触と、それを通して伝わるまりえの鼓動が愛しい。
真剣に怒ってくれているのに、僕は……。
頭が冴え、ひとりの男の顔が浮かんだ。僕の痛みは、まりえの光が消し去ってくれた。
細い腰を抱くと、我に返ったようにふるえて、まりえが身体を離した。洟をすすり、僕を見おろす。だが僕は、それ以上まりえを離さなかった。腕の中から出て行けず、まりえは少しばつの悪い表情になった。
「君の言うとおりだ。細かいことは覚えてない。あのひとがずっと手をつないでいてくれたことと、あのひとを呑み込んでいく海。それだけだよ」
「あなたを愛していたのよ」
念をおすまりえに、僕は穏やかな気持ちでこたえた。
「愛されていたよ」
名前を口にすると、ゆるやかな波が全身を撫でた。
「アリ、ガト」
彼女の国の言葉でそれだけ伝える。これが限界だ。口が、追いつかない。
「僕は君のために生きるよ」
「ミーチャ。違うわ」
かすかに笑った気配が、優しい。
「あなたは、あなたのために生きるのよ」
「だから君を守りたいんだ」
「ありがとう」
囁くように言って、まりえが居住いを正した。
「ねえ、私が言うことでもないけど……。ご家族のだれも、あなたを恨んでないはずよ。私には、とても仲のいい、絆の強い関係に見えたの」
「みんな僕の約束を知らないからだ」
今までにない穏やかな気持ちで返すと、まりえが声を落とし、怒った。
「お姉さんね」
悪寒が走る。たしかにイーダは僕を恨んでいる。僕が、マーマの手を離したからだ。まりえの善良さが姉を悪者に変えてしまうのが怖くて、慌てた。まりえがイーダに敵うはずない。
まりえの瞳が憤りにゆれる。
イーダの瞳が、僕を蔑む。
「傷ついて言ってしまっただけ。ミーチャ。本気じゃないの」
「違う」
「あなたを縛りつけていたものは、幻なのよ」
「───」
胸が、裂けた。怖れと痛みは同時にやってきて、冷たいイーダの瞳を宙に映し出す。あれほどまでの憤りや憎しみが罪のせいでないなら、なぜ姉は僕を忌み嫌ったのだろう。嘘をついたとは思えない。姉の痛みが本物だから、この罪はゆるぎないのに。
「なんてこと」
荒っぽくまりえがもらした。僕の口を突いて出たのは、弁護だった。
「イーダは悪くない」
「そうね」
悪態をつくような言葉だけの肯定に、僕は言い募る。
「マーマは特別だった。愛されていたんだ。ラーチカの初恋のひとだし、イーダの親友だった」
「そしてあなたのお母さん」
「そうだよ。だから僕が、手を離した僕がみんなのマーマを」
「殺してないわ」
ついに怒鳴ってまりえが立った。涙をためた目を大きく開いて、僕を見おろす。
「あなたを守ったの、愛していたから」
一瞬、息が止まった。
まりえの怒りは本物だった。くしゃっと顔を歪ませて、涙を押しつぶすように小さな拳を目に押し当てる。
「ヒドイ。オトナタチハナニヲシテイタノ」
何を言ったのかわからないが、それが蔑みを含む憤怒であることは理解できた。彼女の手を失った僕の両手が震え始める。泣かせてしまった。細い身体に触れ座るよう促すと、まりえは僕の手を払った。
「子どもばかりに危険な旅をさせて、心の傷はほったらかし。お姉さんはあなたのせいにするしかなかった。ひとりでは抱えきれなかったからよ」
拒み、泣いて、怒りをぶちまけているのに、まりえは僕の頭を胸に抱いた。ちいさくて柔らかな感触に、優しい気持ちと欲望を覚える。鎮めるために、僕は目を閉じた。
「あなたは苦しんではだめ。お姉さんの痛みを引き受けてはだめ」
渦巻く激情は、ゆるやかな波となってふれあう部分からじわじわと僕を癒す。そっとうなじの辺りを撫でられると、心地よさに眩暈がした。おしつけられる毛糸の感触と、それを通して伝わるまりえの鼓動が愛しい。
真剣に怒ってくれているのに、僕は……。
頭が冴え、ひとりの男の顔が浮かんだ。僕の痛みは、まりえの光が消し去ってくれた。
細い腰を抱くと、我に返ったようにふるえて、まりえが身体を離した。洟をすすり、僕を見おろす。だが僕は、それ以上まりえを離さなかった。腕の中から出て行けず、まりえは少しばつの悪い表情になった。
「君の言うとおりだ。細かいことは覚えてない。あのひとがずっと手をつないでいてくれたことと、あのひとを呑み込んでいく海。それだけだよ」
「あなたを愛していたのよ」
念をおすまりえに、僕は穏やかな気持ちでこたえた。
「愛されていたよ」
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