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111(※) Дмитрий
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「呑んで来い」
言葉が、届いた。
姉の取り巻きダヴィード・シャルイギンが拳銃をしまい、足元の男に顎で指図している。力なく跪いていた男、グレゴリー・レザイキンと目があった。目を見開いた醜い顔。傷ついたように、金色の瞳をゆらす。
「見ろ。あの血を舐めただけで戻りかけている」
シャルイギンが続けた。僕のことを言っているのか?
唇に割って入っていたまりえの小さな手が、ぶらさがり、だらんと下に落ちた。あんな奴はどうでもいい。慌ててのぞきこむと、まりえはとてもきれいに笑っていた。眩しそうに僕を見あげている。
いかせない。
舌を噛み、口づけた。
まりえの唇はすでに冷たく強張っていた。もともと僕が連れ戻した命は、傷を負うと急速に死へ向かってしまうのではないかと戦慄が走り、一瞬で確信に変わった。唇全体を覆うキスで僕の血をぬりつけてこじ開け、舌をねじこむ。狭い喉の奥までもぐり、まりえが咽ても、喉の粘膜に千切れた舌をこすりつけた。僕がひとに戻る前に。僕の血で、また、繋ぎとめる。何度でも。
たいせつなまりえ。傷つけてばかりだ。僕は。
喉を犯す行為に後ろめたさを覚えた。だけど、生きてもらうためには必要な事だった。まりえが咽ると安心した。少しずつ舌が届かなくなっていき、僕がまりえの血と粘液で人間に戻ってもキスを続けた。裸で、地面に膝をついて、まりえを抱えて幸せを感じているなんて僕は最低最悪の恥知らずだが、もはや変えようがなかった。変わろうとも思わない。僕はまりえを癒すことができる。まりえの痛みを消し去る事ができる。それだけでも僕は、僕を許せる。
可愛い唇が、僕のキスの下で、笑った。安堵の叫びを呑み込んで、労わるキス、償いのキスにつなげる。身体の中心から熱い波が広がり、僕はそれを、血潮だと感じた。
僕と、まりえの、命。
よかった。間に合った。
気配が迫り、まりえを抱え込んで顔をあげた。レザイキンがまりえの血を奪いに這ってきたのかと思ったからだ。だが奴はシャルイギンの足元で呆然としている。姉だった。近づいてきたというのは錯覚で、姉は起き上がり、膝立ちで背を丸め、僕らを狂人の眼で見つめているだけだった。髪をまきこみながら頬とこめかみのあたりを押さえ、黄金色の瞳をゆらゆらさせて、ふるえている。
憎いと思った。傷ついたのは姉ではなく、まりえだ。僕は初めて姉を睨んだ。
まりえが僕の腕にふれた。見ると、まりえは眠い瞼をこじあけるようにして姉を見ていた。口元も、喉も、服も、血だらけだ。まりえには温かいお風呂とふかふかのベッドが必要で、僕が用意するべきだと悟った。イーダは放っておいても帰る。
名を呼ぼうとして、声に気づいた。姉が何かぶつぶつ言っている。低くかすれた声は聞いているこっちが怖くなるほど恐怖に満ちていたが、それももうどうでもよかった。姉を姫扱いする男たちが今夜もちゃんと侍っている。そういえばセルゲイはいない。
姉は、セルゲイを呼んでいるわけでは、なさそうだ。
恐ろしいことが起きた。姉が何を言っているかわからなかったが、僕の膝の上、腕の中で、まりえが同じ呪文を唱え始めた。それでやっと、姉が誰を呼んでいたか知った。衝撃は僕の頭を冷やした。ここで、聞くはずの無い名前だった。
だが、今は、まりえだ。まりえに安らぎを得てもらうことが何より重要だった。
姉の口真似をやめさせるため、僕はまりえの頭を胸に抱き、額にキスをしながら髪を撫でた。名前を呼び、ささやき、しーっと歯の間から息をもらす。まりえはすぐにうとうとして僕に身体を預けた。
姉が叫んだ。
「セルゲイ!」
傍にいたレザイキンにつかみかかり、すがりつく。
「セルゲイ、なぜなの? なぜイワノフはララを───」
「中尉……」
レザイキンは愕然と姉を見おろし、恐れ、だが姉の身体を抱きとめた。
一瞬で立ち戻ったムラヴィヨフがシャルイギンの首に腕をかけた。そのままへし折るのかと期待したが、ムラヴィヨフは奴を抱えたまま地面を蹴り、飛びざまに怒鳴った。
「ジヌーハを頼む!」
はっとしたレザイキンが姉を抱いて飛んだ瞬間、あの金属音が鳴り、奴らのいた辺りに火柱があがった。背後からイズルが走り、夜空に吸い込まれていく姉たちに向かい何か投げる。空中で、爆発とは言いがたい、絵の具が溶けるような火炎が滲んだ。もはや姉たちの姿はない。僕らに、橙色の火の粉が降りそそぐだけ。僕は全体でまりえを覆い隠すように抱いて、火傷から守った。
イズルが踵を返し向かってくる。
「来るな!」
嫉妬を認めるくらい、簡単だ。イズルは肩をすくめ、呆れ顔でクラウゼヴィッツたちの方へ足を向けた。向こうでも歓迎はされていないが、不機嫌なクラウゼヴィッツと何やら話しこんでいる。ニコラがいた。クラウゼヴィッツのコートを着て、ルートに頬を舐めさせている。イチカはイズルを警戒しているが、クラウゼヴィッツとの会話が続いているのを確認しながらじりじりと後ろに下がり、やがて茂みに走った。盗られる前にロザリオを回収する気だ。機転が利く。
クラウゼヴィッツが声を荒げ、イズルが部下を連れて闇に消えた。
茂みから飛び出してきたイチカをクラウゼヴィッツが抱きよせ、わしわしと頭を撫でている。イチカは、たぶんまりえを心配してこっちを指差しながら何か言ったが、僕が裸なのを見てぎょっとし、クラウゼヴィッツに顔の向きをぐいと直された。
「レオ!」
やらわかな声が矢のように飛んできて、僕はヤマトが出入り口の制御を解いたのだと知った。僕の前をユーリアが消火器を引きずりながら横切っていく。クラウゼヴィッツがイチカを離した。イチカはニコラとルートの輪に加わり、建物を見あげた。しゃくりあげているユーリアに優しくキスをしてから、クラウゼヴィッツは消火作業に取りかかった。
僕は、外の世界をしめ出して、まりえのぬくもりを確かめることに魂を注いだ。頬をすりよせると、寝息が僕の耳を冷やした。それだけで幸せだった。
言葉が、届いた。
姉の取り巻きダヴィード・シャルイギンが拳銃をしまい、足元の男に顎で指図している。力なく跪いていた男、グレゴリー・レザイキンと目があった。目を見開いた醜い顔。傷ついたように、金色の瞳をゆらす。
「見ろ。あの血を舐めただけで戻りかけている」
シャルイギンが続けた。僕のことを言っているのか?
唇に割って入っていたまりえの小さな手が、ぶらさがり、だらんと下に落ちた。あんな奴はどうでもいい。慌ててのぞきこむと、まりえはとてもきれいに笑っていた。眩しそうに僕を見あげている。
いかせない。
舌を噛み、口づけた。
まりえの唇はすでに冷たく強張っていた。もともと僕が連れ戻した命は、傷を負うと急速に死へ向かってしまうのではないかと戦慄が走り、一瞬で確信に変わった。唇全体を覆うキスで僕の血をぬりつけてこじ開け、舌をねじこむ。狭い喉の奥までもぐり、まりえが咽ても、喉の粘膜に千切れた舌をこすりつけた。僕がひとに戻る前に。僕の血で、また、繋ぎとめる。何度でも。
たいせつなまりえ。傷つけてばかりだ。僕は。
喉を犯す行為に後ろめたさを覚えた。だけど、生きてもらうためには必要な事だった。まりえが咽ると安心した。少しずつ舌が届かなくなっていき、僕がまりえの血と粘液で人間に戻ってもキスを続けた。裸で、地面に膝をついて、まりえを抱えて幸せを感じているなんて僕は最低最悪の恥知らずだが、もはや変えようがなかった。変わろうとも思わない。僕はまりえを癒すことができる。まりえの痛みを消し去る事ができる。それだけでも僕は、僕を許せる。
可愛い唇が、僕のキスの下で、笑った。安堵の叫びを呑み込んで、労わるキス、償いのキスにつなげる。身体の中心から熱い波が広がり、僕はそれを、血潮だと感じた。
僕と、まりえの、命。
よかった。間に合った。
気配が迫り、まりえを抱え込んで顔をあげた。レザイキンがまりえの血を奪いに這ってきたのかと思ったからだ。だが奴はシャルイギンの足元で呆然としている。姉だった。近づいてきたというのは錯覚で、姉は起き上がり、膝立ちで背を丸め、僕らを狂人の眼で見つめているだけだった。髪をまきこみながら頬とこめかみのあたりを押さえ、黄金色の瞳をゆらゆらさせて、ふるえている。
憎いと思った。傷ついたのは姉ではなく、まりえだ。僕は初めて姉を睨んだ。
まりえが僕の腕にふれた。見ると、まりえは眠い瞼をこじあけるようにして姉を見ていた。口元も、喉も、服も、血だらけだ。まりえには温かいお風呂とふかふかのベッドが必要で、僕が用意するべきだと悟った。イーダは放っておいても帰る。
名を呼ぼうとして、声に気づいた。姉が何かぶつぶつ言っている。低くかすれた声は聞いているこっちが怖くなるほど恐怖に満ちていたが、それももうどうでもよかった。姉を姫扱いする男たちが今夜もちゃんと侍っている。そういえばセルゲイはいない。
姉は、セルゲイを呼んでいるわけでは、なさそうだ。
恐ろしいことが起きた。姉が何を言っているかわからなかったが、僕の膝の上、腕の中で、まりえが同じ呪文を唱え始めた。それでやっと、姉が誰を呼んでいたか知った。衝撃は僕の頭を冷やした。ここで、聞くはずの無い名前だった。
だが、今は、まりえだ。まりえに安らぎを得てもらうことが何より重要だった。
姉の口真似をやめさせるため、僕はまりえの頭を胸に抱き、額にキスをしながら髪を撫でた。名前を呼び、ささやき、しーっと歯の間から息をもらす。まりえはすぐにうとうとして僕に身体を預けた。
姉が叫んだ。
「セルゲイ!」
傍にいたレザイキンにつかみかかり、すがりつく。
「セルゲイ、なぜなの? なぜイワノフはララを───」
「中尉……」
レザイキンは愕然と姉を見おろし、恐れ、だが姉の身体を抱きとめた。
一瞬で立ち戻ったムラヴィヨフがシャルイギンの首に腕をかけた。そのままへし折るのかと期待したが、ムラヴィヨフは奴を抱えたまま地面を蹴り、飛びざまに怒鳴った。
「ジヌーハを頼む!」
はっとしたレザイキンが姉を抱いて飛んだ瞬間、あの金属音が鳴り、奴らのいた辺りに火柱があがった。背後からイズルが走り、夜空に吸い込まれていく姉たちに向かい何か投げる。空中で、爆発とは言いがたい、絵の具が溶けるような火炎が滲んだ。もはや姉たちの姿はない。僕らに、橙色の火の粉が降りそそぐだけ。僕は全体でまりえを覆い隠すように抱いて、火傷から守った。
イズルが踵を返し向かってくる。
「来るな!」
嫉妬を認めるくらい、簡単だ。イズルは肩をすくめ、呆れ顔でクラウゼヴィッツたちの方へ足を向けた。向こうでも歓迎はされていないが、不機嫌なクラウゼヴィッツと何やら話しこんでいる。ニコラがいた。クラウゼヴィッツのコートを着て、ルートに頬を舐めさせている。イチカはイズルを警戒しているが、クラウゼヴィッツとの会話が続いているのを確認しながらじりじりと後ろに下がり、やがて茂みに走った。盗られる前にロザリオを回収する気だ。機転が利く。
クラウゼヴィッツが声を荒げ、イズルが部下を連れて闇に消えた。
茂みから飛び出してきたイチカをクラウゼヴィッツが抱きよせ、わしわしと頭を撫でている。イチカは、たぶんまりえを心配してこっちを指差しながら何か言ったが、僕が裸なのを見てぎょっとし、クラウゼヴィッツに顔の向きをぐいと直された。
「レオ!」
やらわかな声が矢のように飛んできて、僕はヤマトが出入り口の制御を解いたのだと知った。僕の前をユーリアが消火器を引きずりながら横切っていく。クラウゼヴィッツがイチカを離した。イチカはニコラとルートの輪に加わり、建物を見あげた。しゃくりあげているユーリアに優しくキスをしてから、クラウゼヴィッツは消火作業に取りかかった。
僕は、外の世界をしめ出して、まりえのぬくもりを確かめることに魂を注いだ。頬をすりよせると、寝息が僕の耳を冷やした。それだけで幸せだった。
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