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114 Дмитрий
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胸から溢れた喜びが僕をぽーっとさせたが、まりえの身体から手を離すくらいの理性は働いた。まりえが少し首を傾けるようにして笑い、それが挨拶だったと理解した頃には、扉一枚隔てた向こうから水音が聞こえていた。
蛇口をひねり、水音を斑らに乱しタイルを踏み、髪をかきあげ、降りそそぐ湯に安らぎと恍惚で頬を染めているんだろう。まりえは長湯しない子という印象がある。行儀よく、手早く、完璧に身を清める。僕と一緒にプールで遊んでくれるだろうか。泳ぐのも、ぼんやり浮かんでいるのも楽しいが、まりえが一緒なら浮き輪を使って楽しむのもありだ。すごくいい。まりえは僕の方を向いて浮き輪におしりを落としていて、僕は腿を挟むようにして浮き輪に手をかけ、膝に甘えながらゆっくり泳ぐ。まりえは僕のあたまに水をかけてからかってきたり、浮き輪にかけた手にそっと指を這わせてきたり。そうしたらまりえは、長くて綺麗な髪を頭のてっぺんまで捻りあげているだろうか。細い首筋に、後れ毛がはりついて───
突然、扉が開いた。
「ミーチャ」
湯気といっしょに、まりえが姿を現した。
思ったとおりだ。長い髪を器用に頭の高い位置で丸め、後れ毛が濡れている。首筋もそうだが、耳の前、こめかみから頬に残ったちょっとの毛がかわいい。せっかく着たバスローブの前を大胆に広げ、胸元は別のタオルで隠していた。肌に赤みがさして、しっとり濡れていて、きらきら微笑んでいる。
「見て。ちゃんと治ってる。ありがとう」
たしかにお腹が丸見えだ。
僕は激しく息を吸い込み、まりえを中に押し戻した。扉を閉め、背中で塞いでしゃがみこむ。頬をバシバシ叩いた。落ち着け。罰当たりなドミトリー・マクシモーヴィッチめ。
心臓がばくばくいっている。
だけど、僕は踏みとどまった。ただ単純で浅ましい事情により、まりえを10分以上バスルームに閉じ込めることになったが、勲章をもらえる状態にまで落ち着いてから迎えてもまりえはちゃんと笑ってくれていた。
きちんと前をあわせ、濡れ髪をふきながらまりえは僕を見あげた。
「どうしたの?」
これからも起こり得る事だ。はっきりさせたほうがいい。
「ドキドキしちゃうよ」
「さっき舐めてくれたじゃない」
そんな声をひそめて恥ずかしがられたら僕はいったいどうしたらいいんだ。説得に使おうと思っていた台詞が銀河の果てまで飛んでいく。というか、起きていたなんてずるい。
「あれは、はやく治したかったんだよ。他意はない」
「ええ。治ったわ、ありがとうミーチャ」
湿った髪を頬にはりつかせて笑うなんて、絶対にだめだ。
抱きしめたくて手が出たが、まりえの肩の脇でなんとか止めた。
「ドキドキしちゃうんだよ!」
思わず叫ぶと、ぱっちり目を開いて意外そうに首をかしげる。この期に及んで清純さを証明しなくてもまりえが清らかな天使であることは僕がいちばん承知している。だが僕は牡だ。
「まりえ? まりえ。君が元気になって嬉しいよ。この先も君の健康は僕が守る。でもだけどあのね、君にふれない努力はとっても大変だ。君は魅力的だよ。君を傷つけたくない。だから、僕は世界一安全な味方だけど服を着ていないときはそうとも限らないから、いや限らなくはない。僕は踏みとどまれる。ただ君にも協力を、お願いしたいんだ。君が、普段より女性として魅力的過ぎるときは、もう少し距離をとって僕を無視してほしい」
必死なのに、まりえは笑う。
「どうして?」
どうして。いま説明したじゃないか。
僕は二歩三歩と後ろに下がりながら目を逸らし、適当な言葉を探した。
「君は、君は恋をしている」
「ヤー」
清らかに、潔く、まりえが頬を染めて微笑む。綺麗だが僕には眩しすぎる。
「だから、君の心も身体も、守りたいんだ」
「ダンケ、ミーチャ。充分してくれてるわ」
僕があけた距離を小さな裸足が追ってくる。いい年してどうかと思うが、キャーと叫びたい気分だ。足の甲に水滴が残っている。跪いて持ち上げてほお擦りして舐めたい。
違う。必死で首をふる。
「僕に分不相応のご褒美は要らないよ。何も要らない。ただ僕はちゃんと守る」
まりえが少し怯んだ。僕は自分の額を叩き、ソファーにぶつかりながらもっと後ろに下がる。勘違いさせて、傷つけた。これだと、君なんか要らないと言ったことになっている。
「違う! 君を抱きしめたい。でも君を抱きしめる僕は男だ。恋をしてる君に、男としてふれたくない。誰よりも味方でいたいんだ。イイコにしていたい」
イイコにしていなければ、僕は来るべきまりえの失恋につけこんでしまう気がする。僕は踏みとどまりたい。だが初めて疑念が過る。
待て、ドミトリー・マクシモーヴィッチ・クズネツォフ。これは、どういうことだ。まりえが成就する恋に落ちたら、おまえは、傍で見てるのか? イイコで?
ダー。もちろん。
まりえは特別だ。
だれにも、あげられない。
まりえが僕の顔を、少しだけ、上目遣いに見あげた。
「抱きしめてくれないの?」
淋しそうな甘える声音に、箍が外れた。ただし、性欲じゃなく怒りのほうだ。僕がこんなに必死になっているのにあんまりだと思ったから、ぴしゃりと言ってしまった。
「僕はタツオじゃない」
蛇口をひねり、水音を斑らに乱しタイルを踏み、髪をかきあげ、降りそそぐ湯に安らぎと恍惚で頬を染めているんだろう。まりえは長湯しない子という印象がある。行儀よく、手早く、完璧に身を清める。僕と一緒にプールで遊んでくれるだろうか。泳ぐのも、ぼんやり浮かんでいるのも楽しいが、まりえが一緒なら浮き輪を使って楽しむのもありだ。すごくいい。まりえは僕の方を向いて浮き輪におしりを落としていて、僕は腿を挟むようにして浮き輪に手をかけ、膝に甘えながらゆっくり泳ぐ。まりえは僕のあたまに水をかけてからかってきたり、浮き輪にかけた手にそっと指を這わせてきたり。そうしたらまりえは、長くて綺麗な髪を頭のてっぺんまで捻りあげているだろうか。細い首筋に、後れ毛がはりついて───
突然、扉が開いた。
「ミーチャ」
湯気といっしょに、まりえが姿を現した。
思ったとおりだ。長い髪を器用に頭の高い位置で丸め、後れ毛が濡れている。首筋もそうだが、耳の前、こめかみから頬に残ったちょっとの毛がかわいい。せっかく着たバスローブの前を大胆に広げ、胸元は別のタオルで隠していた。肌に赤みがさして、しっとり濡れていて、きらきら微笑んでいる。
「見て。ちゃんと治ってる。ありがとう」
たしかにお腹が丸見えだ。
僕は激しく息を吸い込み、まりえを中に押し戻した。扉を閉め、背中で塞いでしゃがみこむ。頬をバシバシ叩いた。落ち着け。罰当たりなドミトリー・マクシモーヴィッチめ。
心臓がばくばくいっている。
だけど、僕は踏みとどまった。ただ単純で浅ましい事情により、まりえを10分以上バスルームに閉じ込めることになったが、勲章をもらえる状態にまで落ち着いてから迎えてもまりえはちゃんと笑ってくれていた。
きちんと前をあわせ、濡れ髪をふきながらまりえは僕を見あげた。
「どうしたの?」
これからも起こり得る事だ。はっきりさせたほうがいい。
「ドキドキしちゃうよ」
「さっき舐めてくれたじゃない」
そんな声をひそめて恥ずかしがられたら僕はいったいどうしたらいいんだ。説得に使おうと思っていた台詞が銀河の果てまで飛んでいく。というか、起きていたなんてずるい。
「あれは、はやく治したかったんだよ。他意はない」
「ええ。治ったわ、ありがとうミーチャ」
湿った髪を頬にはりつかせて笑うなんて、絶対にだめだ。
抱きしめたくて手が出たが、まりえの肩の脇でなんとか止めた。
「ドキドキしちゃうんだよ!」
思わず叫ぶと、ぱっちり目を開いて意外そうに首をかしげる。この期に及んで清純さを証明しなくてもまりえが清らかな天使であることは僕がいちばん承知している。だが僕は牡だ。
「まりえ? まりえ。君が元気になって嬉しいよ。この先も君の健康は僕が守る。でもだけどあのね、君にふれない努力はとっても大変だ。君は魅力的だよ。君を傷つけたくない。だから、僕は世界一安全な味方だけど服を着ていないときはそうとも限らないから、いや限らなくはない。僕は踏みとどまれる。ただ君にも協力を、お願いしたいんだ。君が、普段より女性として魅力的過ぎるときは、もう少し距離をとって僕を無視してほしい」
必死なのに、まりえは笑う。
「どうして?」
どうして。いま説明したじゃないか。
僕は二歩三歩と後ろに下がりながら目を逸らし、適当な言葉を探した。
「君は、君は恋をしている」
「ヤー」
清らかに、潔く、まりえが頬を染めて微笑む。綺麗だが僕には眩しすぎる。
「だから、君の心も身体も、守りたいんだ」
「ダンケ、ミーチャ。充分してくれてるわ」
僕があけた距離を小さな裸足が追ってくる。いい年してどうかと思うが、キャーと叫びたい気分だ。足の甲に水滴が残っている。跪いて持ち上げてほお擦りして舐めたい。
違う。必死で首をふる。
「僕に分不相応のご褒美は要らないよ。何も要らない。ただ僕はちゃんと守る」
まりえが少し怯んだ。僕は自分の額を叩き、ソファーにぶつかりながらもっと後ろに下がる。勘違いさせて、傷つけた。これだと、君なんか要らないと言ったことになっている。
「違う! 君を抱きしめたい。でも君を抱きしめる僕は男だ。恋をしてる君に、男としてふれたくない。誰よりも味方でいたいんだ。イイコにしていたい」
イイコにしていなければ、僕は来るべきまりえの失恋につけこんでしまう気がする。僕は踏みとどまりたい。だが初めて疑念が過る。
待て、ドミトリー・マクシモーヴィッチ・クズネツォフ。これは、どういうことだ。まりえが成就する恋に落ちたら、おまえは、傍で見てるのか? イイコで?
ダー。もちろん。
まりえは特別だ。
だれにも、あげられない。
まりえが僕の顔を、少しだけ、上目遣いに見あげた。
「抱きしめてくれないの?」
淋しそうな甘える声音に、箍が外れた。ただし、性欲じゃなく怒りのほうだ。僕がこんなに必死になっているのにあんまりだと思ったから、ぴしゃりと言ってしまった。
「僕はタツオじゃない」
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