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ささやかな朝市
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朝の光が、山裾の村にやわらかく差し込んでいた。
石畳の小道にはまだ朝露が残っており、屋根の上では一羽の小鳥がさえずりを響かせている。どこかの家からは焼きたてのパンの香りが漂い、通りには荷車の軋む音が混じった。
エレナは、ミリーと並んでその道を歩いていた。目指すのは、村の中央にある広場――今日は市の日だと、昨日、井戸で出会った村人の一人が教えてくれたのだ。
彼女はまだ村の地理に慣れていなかったが、ミリーの後ろをついていくうちに、見慣れぬ角を曲がり、背の低い生け垣の間を抜けると、やがて小さな喧噪が耳に届いてきた。
広場には、思っていたよりも多くの人がいた。
数軒の屋台や荷車が並び、野菜や果物、焼き菓子、手作りの布製品などが所狭しと並べられている。売る人も買う人も、皆どこか穏やかな笑顔を浮かべていた。
「……にぎやかですね」
思わず漏れたエレナの言葉に、ミリーは振り返って笑う。
「この村では、週に一度だけ朝市が開かれるんです!作物を交換したり、旅人が立ち寄ったり。冬場は少なくなりますけど、今日は久しぶりに人が集まってますね」
その言葉どおり、あちらこちらで「よう!」「久しぶりだな」といった声が飛び交っていた。焚き火の脇では、子どもたちが小さな木の駒で遊んでいる。
エレナは少しだけ戸惑いながらも、広場の端へと歩を進めた。
すると、通りすがりの女性が、ふと声をかけてくる。
「昨日の井戸の方でしょう? ……ありがとうね。おかげで助かりましたよ」
柔らかな口調だった。エレナが返す前に、その人は手にした布を振って、軽やかに去っていった。
続いて、別の老女が言う。
「もう、こんなに水が澄むとはねぇ。井戸が直れば、春先の作付けも楽になるよ」
エレナはただ、小さく頭を下げるしかなかった。ありがとうと口にすることが、こんなにも不思議に響くとは思っていなかった。
そしてそのとき、小さな手が、彼女の持つ籠の端にそっと触れた。
振り返ると、ひとりの子どもが立っていた。年のころは七つか八つ。金色の髪を二つ結びにした少女が、照れたように笑いながら、真っ赤なリンゴを一つ、籠の中へ入れていた。
「これ、うちの畑で採れたやつ。お礼……だって、おばあちゃんが」
少女はそれだけ言うと、ぱたぱたと駆けていく。その背に「待ちなさーい!」という母親らしき声が追いかけてきた。
エレナは一瞬、手にした籠を見つめ――それから、そっと笑みを浮かべた。
ほんのひととき、自分が“元・聖女”であったことも、重荷も、名前すらも、すべてが遠くなっていた。ただの一人の、村に暮らす人間として。
そして、その輪の中に迎えられていると、確かに思えた。
そんな彼女に、不意に声がかかる。
「なあ、お嬢さん」
振り向くと、頬に皺を刻んだ年配の女性が、野菜籠を手に立っていた。
「――あんた、王都の人だろ?」
振り返ると、年配の女性がいた。野菜籠を腕に提げ、真っすぐにこちらを見ている。
「“聖女さま”だったって話、ほんと?」
その言葉に、周囲の空気がすっと変わる。商人も、買い物客も、ちらりと視線を向けた。誰もひそひそとは話さない。ただ、ごく自然に、ただ真実を求めるような眼差しだった。
エレナは一瞬、答えを探そうとして――けれど、喉がつかえたようになり、言葉が出てこなかった。
王都でのことを、簡単に説明するには、まだ自分の中でも整理がついていなかった。
だが、その空気を払うように、別の老婆が呟く。
「そんなの、何だっていいじゃない。聖女であろうとなかろうと、助かる物は助かるよ」
その一言に、周囲の人々が頷いたり、苦笑いを浮かべたりしながら、ふたたび買い物や立ち話に戻っていく。
「うちは昨日から、井戸の水使わせてもらってるよ。ありがとね」
「なんなら、今度漬物でも持ってくるさ」
「そうそう、うちの畑で採れた豆も食べてみてよ。こっちの土地に来たばかりなら、体が慣れなくて大変だろ」
言葉はどれも飾り気のない、けれど温かなものだった。
エレナは視線を上げ、少しだけ目を見開いた。そして、胸の奥にゆっくりと広がっていくものを感じながら、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
それはようやく出た、彼女自身の言葉だった。
ミリーが横で、安心したように笑っていた。朝市のざわめきは変わらず賑やかで、どこか心地よいような雰囲気があった。
石畳の小道にはまだ朝露が残っており、屋根の上では一羽の小鳥がさえずりを響かせている。どこかの家からは焼きたてのパンの香りが漂い、通りには荷車の軋む音が混じった。
エレナは、ミリーと並んでその道を歩いていた。目指すのは、村の中央にある広場――今日は市の日だと、昨日、井戸で出会った村人の一人が教えてくれたのだ。
彼女はまだ村の地理に慣れていなかったが、ミリーの後ろをついていくうちに、見慣れぬ角を曲がり、背の低い生け垣の間を抜けると、やがて小さな喧噪が耳に届いてきた。
広場には、思っていたよりも多くの人がいた。
数軒の屋台や荷車が並び、野菜や果物、焼き菓子、手作りの布製品などが所狭しと並べられている。売る人も買う人も、皆どこか穏やかな笑顔を浮かべていた。
「……にぎやかですね」
思わず漏れたエレナの言葉に、ミリーは振り返って笑う。
「この村では、週に一度だけ朝市が開かれるんです!作物を交換したり、旅人が立ち寄ったり。冬場は少なくなりますけど、今日は久しぶりに人が集まってますね」
その言葉どおり、あちらこちらで「よう!」「久しぶりだな」といった声が飛び交っていた。焚き火の脇では、子どもたちが小さな木の駒で遊んでいる。
エレナは少しだけ戸惑いながらも、広場の端へと歩を進めた。
すると、通りすがりの女性が、ふと声をかけてくる。
「昨日の井戸の方でしょう? ……ありがとうね。おかげで助かりましたよ」
柔らかな口調だった。エレナが返す前に、その人は手にした布を振って、軽やかに去っていった。
続いて、別の老女が言う。
「もう、こんなに水が澄むとはねぇ。井戸が直れば、春先の作付けも楽になるよ」
エレナはただ、小さく頭を下げるしかなかった。ありがとうと口にすることが、こんなにも不思議に響くとは思っていなかった。
そしてそのとき、小さな手が、彼女の持つ籠の端にそっと触れた。
振り返ると、ひとりの子どもが立っていた。年のころは七つか八つ。金色の髪を二つ結びにした少女が、照れたように笑いながら、真っ赤なリンゴを一つ、籠の中へ入れていた。
「これ、うちの畑で採れたやつ。お礼……だって、おばあちゃんが」
少女はそれだけ言うと、ぱたぱたと駆けていく。その背に「待ちなさーい!」という母親らしき声が追いかけてきた。
エレナは一瞬、手にした籠を見つめ――それから、そっと笑みを浮かべた。
ほんのひととき、自分が“元・聖女”であったことも、重荷も、名前すらも、すべてが遠くなっていた。ただの一人の、村に暮らす人間として。
そして、その輪の中に迎えられていると、確かに思えた。
そんな彼女に、不意に声がかかる。
「なあ、お嬢さん」
振り向くと、頬に皺を刻んだ年配の女性が、野菜籠を手に立っていた。
「――あんた、王都の人だろ?」
振り返ると、年配の女性がいた。野菜籠を腕に提げ、真っすぐにこちらを見ている。
「“聖女さま”だったって話、ほんと?」
その言葉に、周囲の空気がすっと変わる。商人も、買い物客も、ちらりと視線を向けた。誰もひそひそとは話さない。ただ、ごく自然に、ただ真実を求めるような眼差しだった。
エレナは一瞬、答えを探そうとして――けれど、喉がつかえたようになり、言葉が出てこなかった。
王都でのことを、簡単に説明するには、まだ自分の中でも整理がついていなかった。
だが、その空気を払うように、別の老婆が呟く。
「そんなの、何だっていいじゃない。聖女であろうとなかろうと、助かる物は助かるよ」
その一言に、周囲の人々が頷いたり、苦笑いを浮かべたりしながら、ふたたび買い物や立ち話に戻っていく。
「うちは昨日から、井戸の水使わせてもらってるよ。ありがとね」
「なんなら、今度漬物でも持ってくるさ」
「そうそう、うちの畑で採れた豆も食べてみてよ。こっちの土地に来たばかりなら、体が慣れなくて大変だろ」
言葉はどれも飾り気のない、けれど温かなものだった。
エレナは視線を上げ、少しだけ目を見開いた。そして、胸の奥にゆっくりと広がっていくものを感じながら、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
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