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第二章 | 江戸のストーカー、麦をくれる
江戸のストーカー、麦をくれる 其ノ陸
しおりを挟む酔っぱらって、目を覚ましたらやって来ていた不思議な世界。
着物にちょんまげ、どう見ても江戸時代のようだけれども……
「どこにでも、変わったやつはいるもんだよなぁ」
なおはもうもと湯気を立てる麦湯の鍋をみながら呟いた。
歴史の教科書で見た江戸の街並みはたしかイラストだった。
同じページにあった人々の姿は浮世絵で、だからなんとなく過去の人々は浮世絵でイメージしていたのかもしれない。
のっぺりした白い肌に、小さな目。
そんな絵の中の人たちがどんな生活をしていたのかなんて、考えたこともなかった。
「ストーカー気質のやつは江戸時代からいたんだな。ま、ここが江戸かはしらんけど」
喜兵寿の飲み残した茶と、湯飲みを大事に集め、可憐にほほ笑んだ夏の笑顔を思い出し、なおは小さく身震いした。
(あの飲み残しの茶、まさか夏は自分で飲むのだろうか……いや、まさかな……)
なおが唸りながら考えていると、きゃぴきゃぴと明るい夏の声がした。
「きっちゃん!なおさん!お待たせしましたあ。麦持ってきましたよ」
声のする方を見ると、藁包んだ大きな荷を持った夏が立っていた。おそらく走ってきたのだろう。にこにことほほ笑んではいるが、肩でふうふうと息をしている。
「こんなにたくさん!重かっただろう!?言ってくれれば一緒に取りに行ったのに!」
喜兵寿が駆け寄ると、夏はハッという顔をし、わざとらしくよろよろと喜兵寿の方によろめいた。
「うん……大丈夫だと思ったんだけどちょっと重かったみたい。ちょっとだけ寄りかからせて」
そういって上目遣いで喜兵寿を見上げる。
「悪かったな、さあ荷をこちらに渡して」
喜兵寿が夏から荷を受け取ると、想像していた以上に重かったのだろう。
「うお」っとよろめきつつなんとか荷を椅子の上におろした。
それもそのはず、荷をほどいてみると中には大量の大麦が入っていた。
「すげえ!麦だ!」
なおが顔を輝かせて駆け寄る。
こげ茶色の麦はキレイに脱穀されており、美しく輝いていた。大切に育てられたのだろう、一粒一粒に生命力が満ちているようだ。
手を入れると、麦がサラサラと子気味のいい音をたてた。
喜兵寿も麦を数粒手のひらに乗せ、まじまじと見つめている。
「これは素晴らしい!かなり上質な麦だ。夏、この麦いくらで譲ってもらえるだろうか?」
喜兵寿が財布を出そうとすると、夏は「いいよいいよ」と首を振った。
「つるちゃんから少し聞いたよ、大変な状況だって……!なんか異国のお酒を造らなきゃいけなくて、それにこの麦が必要なんだよね?だったら持って行って」
「いやしかし……」
「いいんだよ、きっちゃんの役に立てたらわたしそれだけで嬉しいの。
できたらお礼に結婚してほしいけど、ってかきっちゃんの遺伝子がほしいんだけど。
そうだ、そのお酒ができたら飲ませてくれる?わたしも異国のお酒飲んでみたいなあ」
「もちろんだ、約束するよ。
そうか、夏は酒が好きだったのか。じゃあ今度ぜひ柳谷にも来ておくれ。最高の酒とつまみをご馳走するよ」
「わあ、嬉しい!つるちゃんからいつも『夏はお酒飲んじゃだめだから来るなー』って言われてていけなかったの。今度行かせてもらうね♡」
途中夏の怪しげな言葉が聞こえた気がするのだが……
何事もなかったかのように進んでいく二人の会話を聞きつつ、なおは改めて麦に向き合った。
なおの知っている大麦よりも少し小さいような気はするが、これは時代によるものなのかもしれない。
ビールを造るのに必要なのは、大麦を麦芽にしたもの。
なおは購入した麦芽を使ってビールを醸造しているので、大麦にはそんなに馴染みはなかったが、見知った存在は思った以上になおを安心させてくれた。
「あとはこれをうまいこと麦芽にできるかだよな……」
大麦を太陽にかざしながら呟くと、喜兵寿が「ばくが、とはなんだ?」と覗き込んできた。
「このままじゃビールにはできないから、この大麦を麦芽にしてやる必要があるんだよ。
麦芽ってのは……うーん、簡単に言うと、この麦を発芽させて乾燥させたやつって感じかな」
「発芽?発芽とはあの種から芽がでるあの『発芽』か?酒を造るのに、なぜわざわざ芽を出させる必要がある」
酒についての好奇心が異常に強い喜兵寿だ。
その理由を細かに知りたがっているのは手に取るようにわかったが、どのように説明したらいいのか、なおは頭を抱えてしまった。
地面が全部土で馬が闊歩しているような時代に、「でんぷんがー」とか「アミラーゼがー」とか言ったところで通じる気がまったくしない。
しかし喜兵寿のキラキラとした目に負け、なおは考えながら言葉を絞り出した。
「えっと、ビールを造るためには糖が必要なんだよ。
糖って伝わるか?なんか甘いやつなんだけど、その糖を酵母が食べることで炭酸とアルコールができるわけ。
だから大麦の中にあるでんぷんを糖に変えてやる必要があるんだよ。
んでそのための必要な酵素を麦を発芽することで作ることができるんだけど……
いや、これ全然わかんねえよな?!」
「確かに何を言っているのか全くさっぱりわからないな」
しかしその言葉と裏腹に、喜兵寿の表情は面白くてたまらないといったものだった。
「ところで、あるこーるというのはなんだ?」
「アルコールか。アルコールは酒だよ。飲んだら酔っぱらうやつ」
喜兵寿は腕組みしたまま考えこんでいたが、しばらくすると「ひょっとして」と口を開いた。
「ひょっとして麦芽にする、とは日本酒造りでいう麹造りのようなものか!?いや、日本酒を造る前にはな、まず米を米麹にする必要があるんだが、なんだかその話に似てるような気がするぞ、それ」
なおの主戦場はあくまでもビール造りであり、日本酒は専門外でからっきしだ。
日本酒、日本酒……今度はなおが腕組みをして考え込んだ。
そういえばかつて麹でビールを醸造しているというブルワーに出会ったことがある。
初対面だったが、面白すぎる彼の話に意気投合して、途中から肩を組んでしこたま飲んだので、記憶が本当にあいまいなののだが、確か麹の力で米のでんぷんを糖に変えていると言っていたような……気がする。
話の内容は朧げだったが、「麹はいいぞ、麹はすごいぞ」と何度も語る彼の笑顔だけははっきりと覚えているので、まあ麹が何かしてくれるということだけは確かなのだろう。
「そうだな、まあ同じようなもんだな!」
なおが言うと、喜兵寿は「なるほどな!」と嬉しそうに顔を輝かせた。
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