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第五章 | 樽廻船の女船長、商人の町へ行く
樽廻船の女船長、商人の町へ 其ノ拾伍
しおりを挟むこうしてなおと喜兵寿を乗せた船は航路を少し変え、一路「避難港」へと向かい進みだした。
避難港とは、台風などで海が荒れた際、船が錨を下ろして嵐が過ぎ去るのを待つ場所。とにかくそこまで無事辿り着くことができれば、これからやってくる嵐をやり過ごすことができるらしい。
「どう見てもいい天気なんだよなあ。これ、本当に嵐くんのか!?」
なおは櫂をこぎながら、天を見上げた。時折強い湿った風は吹くものの、昨日までと変わらずぎらぎらとした太陽が照り付けている。
昼飯もそこそこに漕ぎ続けているもんだから、既に全身が悲鳴を上げ始めていた。首筋からは垂れる汗はまさに滝のようで、水をいくら飲んでもその瞬間に蒸発していく。
「黙って……!漕げよ……!ああ!煙管吸いてえ」
喜兵寿もぜいぜいと肩で息をしている。
「おいお前ら、休むんじゃないやイ!嵐の尻尾につかまっちまえば皆お陀仏だイ!」
甚五平が大きな声で叫ぶ。始めこそ「嵐」という言葉に慄いていたなおだったが、空は相変わらず美しく、雨の気配なんて微塵も感じられなかったので、次第に緊張感はなくなってしまっていた。
漕ぐふりをしながら、他の男たちの影に隠れてほんやりと水平線を眺める。少しずつ風が強くなっているからだろうか。ベタ凪だった海面には波が立ち始め、気づけば目の前にはもくもくと大きな入道雲が立ち上っていた。
その日の夕焼けはやけに薄紅色だった。
いやそれは夕焼けというには早すぎる時間だったのだが、空は見たこともないような色に染まり、自分たちもとっぷりとその中に溶け込んでいくようだった。薄紅のなかに真っ黒な雲が漂う。
美しいのになんだか恐ろしいものを目の当たりにしているような、そんなぞわぞわと嫌な感覚が背中に走る。
「気持ちの悪い空だな」
皆がぼんやりと天を仰いでいると、帆柱の上からねねが鋭く指笛を吹いた。無表情のままこちらにやってくると、口を一文字に結んだまましばらく黙り込む。何かを必死で飲み込もうとするように、でもそれが喉に詰まってしまったかのように。ねねの顔からはゆっくりと血の気が引いく。
「どうしました?ねねの姉貴イ」
「……あと四半刻」
ねねが顔を表情のないまま口を開く。
「あと四半刻で嵐にぶつかる。避難港まではあと6里はあるだろう。どんなに急いだとしても一刻はかかる」
ねねの言葉に船の上が一気にざわつく。「どうすんだよ!」と叫ぶ者、慌てて櫂を漕ぐ者、頭を抱え「ああああ」と崩れ落ちるもの。
なおはと言えば一刻も里もわからないので、さっぱり状況がつかめていなかった。やばそうな気配は感じるものの、そのやばさの度合いが全くをもってわからない。
なおは険しい顔で腕組みしている喜兵寿をこずいた。
「なあなあ、つまりいうことなんだ?」
喜兵寿は「はあ?信じられん」という顔をした後、こそこそとなおに耳打ちをした。
「簡単に言えば、嵐が来るまでに避難港に辿り着けないということだ。つまり俺たちは海のど真ん中で嵐に出くわすことになる」
「……まじか」
なおは改めて船をぐるりと見た。酒樽を運ぶため、船底が少し深くなっているので簡単に転覆はしなさそうだが……木製の船だ、強い波にあたれば簡単に砕け散ってしまうだろう。嵐と言う単語が一気に現実味を帯びてくる。
「ちょ、無理だって。俺泳げないからね?海に落ちた瞬間、だれよりも先に沈む自信あるからね?」
「誰だって荒れ狂った海に投げだされたら無理だ。ああ、もっと飲みたい酒がたくさんあったのに……」
恐怖は伝播していくものなのだろう。取り乱す男たちによるざわめきは、どんどんと大きくなっていく。そんな時、再び指笛が空を裂いた。
「お前ら落ち着きな!海の男だろう、格好悪い姿見せんじゃないよ!」
ねねの怒声が飛ぶ。
「わたしらは出来ることをやる。ただそれだけだ。6里あるといったって、わたしらが本気を出せば四半刻で着くかもしれないじゃあないか。そうしたら日本で一番速い船として仕事がじゃんじゃん来るだろうよ。そうすりゃ銭もたんまり、嫁や子供にうまいもんをたらふく食わせてやれるよ」
ねねはにっこり歯をだして笑う。
「新川屋の名を轟かせてやろうじゃないか」
ねねの言葉に、ざわつきは少しずつ静まっていく。それでも男たちの顔からは不安な表情が消えたわけではなかった。ねねは男たちをぐるりと見渡すと、声高に叫んだ。
「しみったれた顔してんじゃないよ!まずは酒でも飲んで精をつけようじゃないか。甚五平、酒を持ってきてくれるかい?あと喜兵寿、簡単につまめるものを作って欲しいんだが、できるかい?」
「でも……嵐がくるまでに時間が……」
「酒を飲むのにそんなに時間がかかるもんかい。さ、準備ができるまでせいぜい漕いでおいておくれ。動いた分だけ酒がうまくなるってもんだ」
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