月のカタチ空の色

ろくろくろく

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第2章 13−2

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味のしないタバコに見切りを付けてギュウっと携帯灰皿に押し付けた、もう中身を捨てないと満杯だ

「すいません、榊はただ今別の電話に出ております、申し訳ありませんが少々お待ちいただけますでしょうか?」

榊の秘書が電話の向こうで謝っているが声が遠い


ニューヨークから着いてすぐに空港から家に電話しても春人はいない、マンションに行ってみても立ち寄った気配はなかった

「まさか」と「やっぱり」の両方に溜息が出た

無理かなと思いつつ春人の職場に電話して神崎の住所を聞くと有難いことにあっさり教えてくれた

エレベーターから降りて部屋を探す手間は無かった、ドアの向こうから春人の声が聞こえる
間男の部屋に踏み込むのにドアベルを押したりしない

ドアを勝手に開けると目に入ったのは春人にのしかかる神崎…………玄関先の廊下で………



震える手を隠し通すには拳を握りしめるしか無かった


ガラス越しに部屋の中に目を見ると神崎は夕食に手をつけていない


「ガキだな………」

料理をしたのはまた食べていない春人に食事を取らせるのは勿論だが自分が落ち着く為でもあった


もう一本…………タバコに火を付けるとプツッと電話の電子メロディが途絶え榊の声がスピーカーから流れた

「仁?帰ってたのか……予定より早いな」

「スラッシュが出たからな……」

「なんだよ……ハル君が心配で帰ってきたのか」


「…………………渡航費の折り合いつけてくれた?」

「ああ問題ないよ、明日にでも事務所に寄れよ版権の話もあるし」

「……二、三日目ちょっとわからないな、行けたら行くけど…」

「オフなはずだろ?」

「ちょっとね………榊さん……聞きたいんだけど……」

「ネットの写真は余程でなければ削除は無理だよ、住所なんかが載ったら削除要請はするが……多分あっとい間に拡散してどうにもならないだろうな」

「そうですか……」

何も対策を施していなかったのは迂闊だった、詳細を不明にしたせいか予想以上の反響が悪い方に動き、プライベート写真どころか職場や家の場所まで匂わせる投稿が後を絶たない

春人と一緒に仕事が出来る事に浮かれていた

「春人くんは今フリーの状態だろう、税務処理もややこしいからお前の事務所に登録しろよ、その方がこっでも対応しやすくなる」

「すいません、考えておきます」

「じゃあなるべく早く事務所に顔を出してくれ」

「はい……」


吸う事を忘れていたタバコの先からポロンと灰が落ちて落ちてコートの胸を転がった、酸素を得て勢いを増した紫煙が細く立ち上がり少し登ったところで風に持って行かれる


カラカラと背中でガラス戸の開く音がして春人がベランダに顔を出した

「仁、寒しい入ったら?」

「これ吸ったらな……」

「吸い過ぎじゃないか?」



「……お前のせいだろう……」

関係ないだろ、とタバコを取り上げて笑った


電話を終えてベランダから戻って来た仁はやっぱり帰ろうとはしてくれない、コートを手持ちのハンガーに吊るし勝手に壁に掛けてるなんて図々しいと言うか肝が太いと言うか………コートに続きシャツも脱いで上半身裸………手をかけたのは今度はパンツ?

「あの………何をして……」

「風呂はどこだ」

「風呂?そんなもん貸しません、自分の家で入ってください」

「向こう《ニューヨーク》で入ったきりで気色悪いんだよ」

「知りません…あなたの勝手です、俺のお薦めは駅前に……」

「ハル、風呂ってここ?」

「話を聞け!」

清宮はさっさと夕食を食べ終えまたMacに張り付いて続きをし始めていた、こっちの気も知らずにコクンと頷き知らん顔

「おい神崎、俺に「さん」を付けるな、気色悪い」

「今そんな事どうでもいいでしょう、それに気色悪いのはこっちのセリフです、ちょっと!!ズボン脱ぐな!俺の話聞こえてます?」

「馬鹿言うな俺の五感は快調だ」

じゃあ六感目で感じてくれ

全く聞く耳を持ってくれない仁はさっさとパンツ一丁になって眩しいくらい綺麗な体を見せつけ本当に風呂場に入っていってしまった



もう耐えられない、無理

「春人さん、俺ちょっと出ます」

「え?今から?………どこに行くんだよ」

「どこでもいいでしょう」

この部屋以外ならどこでもいい、とてもここにはいられない

風呂から出てきた仁にどんな顔をすればいい

清宮にとって部屋の中に仁がいても空気が周りにある事と変わりないぐらい自然な事、居心地の悪さはわかってくれない

なにか言ってる清宮を振り切って部屋を飛び出した

近所にも店はいくらでもあるが………今誰かに話しかけられるのは……バーテンでさえ嫌だ

晋二ならきっと空気を読んでくれる………

わざわざエスクールまでタクシーを飛ばしてドアのベルを鳴らした


さすがと言うかもう気持ち悪いレベルだが性格は抜きにして晋二は世界一のバーテンダーと言える

店に入ってもいらっしゃいませすら言わなかった

いつもの隅の席について勝手に出てきた飲み物は透明でグラスの中を立ち上る炭酸からは………

ジンの香りがした……

偶然なのは間違いないが晋二なら知っててやりそうだ…………


清宮と仁の間に流れる独特の雰囲気には入り込める隙間が無いような気がして耐えられなかった

やってる事は滅茶苦茶だが仁は大人だ………

完璧な容姿、落ち着いた態度………

自分がただ清宮が欲しいと駄々をこねているほんの小さな子供に感じた


男としてはとても敵わない

もし………もし……もうちょっと仁が来るの遅かったら?どうなってた?キスの後、絶対に止まってない

そんな事になったら……考えただけで白目を剥きそうになる

ぞ~っと背中を走った寒気は嫌な妄想に拍車をかけて悲鳴を上げそうになって慌てて口にした透明の液体はジンフィズだった

「晋二さん……これ甘い………」

「でも、ほら口をきいてくれた、頭に糖分が足りて無いんですよ、落ち着いたでしょう?」

「うん………まあ……」

ここはバーじゃ無くて心療内科なのか?

晋二には永遠に勝てない気がする

腹を立てるというよりガッツリ落ち込んでいたので何も食べていない体に心地よかったのは確か

「ついでにチョコでも摘みますか?」

「ハンバーグ定食出してください、それか奥さんの作った唐揚げでもいいです、俺もタルタル抜きで」

「摘み出されたくなければ大人しくそのグラス舐めててください、空きっ腹に飲んで酔いつぶれたらご心配なさらないでも私が面倒を見ますよ」

「そんな機会はありませんよ、一生ね」

「ふふ………」

ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた晋二の顔が新たに入って来た客が鳴らしたドアベルの音にコロリと営業用に変わった

「外面だけはいいですね」

「ウルサイデス……いらっしゃいませ、カウンターでよろしいですか?」

カウンターは4席しかない、隣に誰かが座るのは嫌だな……と入り口を見てギョッとした

カップルの後ろから頭一つ………2つ分くらい飛び出た今絶対目にしたくない逃げて来たばっかりの顔が覗いてる


「……なんで………ここに……」

「あ、ホントにいた……」


カップル客は後ろに仁がくっついてるなんて知らなかったのだろう、天井から聞こえた声に振り返って唖然と口を開けた

例え仁が有名じゃなくてもその容姿は普通じゃない、さっきまで同じ部屋にいた時だって違和感が半端なかった

「どうぞ………なにになさいますか?」

「バーボン………氷無しで」

………余計な事をしてくれる

知り合いだとも連れだとも言ってないのに晋二は隣の席に置いてあったグラスをさっと消して席を開けてしまった

実は何度か通ううち、同席を望み声がかかるのを防ぐ為か同伴者がいるようにバリケードを作ってくれるようになっていた

だがこれは気を利かせたんじゃなくてなくて、会いたくない相手だとわかっての嫌がらせ

ギッと睨みつけると含みのある綺麗な笑顔が帰ってきた、本当に世界一優秀なバーテンで世界一嫌な男

仁はまだ濡れたままの髪に白い編み込み模様のついた綿の長ティーにコートを引っ掛けただけで寒そうに身を震わせ、スルリと隣のスツールに滑り込んだ


「…………どうしてここがわかったんですか?俺にGPS仕込んだとか?それとも探偵に尾行させたとかスパイ衛星でもご購入されたとか?」

「ハルがここかもしれないって教えてくれた」

「…………俺に用なんてないでしょう、さっさとマンションに戻って春人さんを連れて帰ったらいい」

また戻ってきてくれる自信がある訳じゃない、ただ今はそうするしか解決の糸口が無いように思えた

甘いジンフィズのグラスを煽ると口元に砕けた氷が寄ってくる、小さな欠片を口に含んでガリガリ砕くともう晋二の手元に仁と同じバーボンが用意されていた


「……………この店……スラッシュのセットみたいだな……」

「ここのイメージで作りましたからね」

「ふうん……お気に入りなんだ……」


「ここの価値は店構えじゃない……あのバーテンですよ」

にっこり微笑んでカップル客に対応している晋二を顔で指すと仁が長い首を傾けてチラリと視線を向けた


「若いな、いい人なのか?」

「いいや?………最悪の男ですよ」

「それが何でいいんだ?」


「……ここに何回か来ればわかりますよ」

仁はふっと笑ってグラスからチビリと琥珀色の液体に口をつけ舌への刺激に眉をしかめた


「ハルが……………」

「?……なんですか」

「多分邪魔されたくない時にお前が行く場所だから……出入りするなってさ」

「え?……」

清宮が……そんな事を?
そんな風に気にかけてくれているようには見えなかった、誰かから聞いたのか………

晋二に清宮があの騒動以来ここに来た事があるか聞いてみたかったが、今日の晋二は冷たいと思うくらいに職に徹している

普通ならいらぬ事を仁に言ったりしないか気になるが晋二に限ってはそんな心配はない
いつでもこちらが望む対応を完璧にこなしてみせる


「いつニューヨークから帰ってきたんですか?」

「今日の3時頃かな」

「まず電話で連絡したらどうなんですか」

「したよ……ハルに……何回かけても出ないし」

「………でしょうね……」

笑えた………どうせ携帯はいつものように放ったらかし、仕事に夢中になっている清宮が酔っ払って飛び込んで来た時以来携帯を触るなんてしないと断言できる


「冷静ですね、あんな事をした人には思えない」

「冷静じゃないさ、刺そうかと思ったよ」


「………俺なら刺してた」

「ガキだからな」

ウグっと喉が詰まってバーボンを吐き出しそうになった、今まさにその事で落ち込んでいるのに一番言われたくない奴に指摘された

「今日はこのまま自分の家に帰ってくださいね」

「やだね」

「あんた馬鹿?」

「かっこいいとか綺麗と言われる事は有っても馬鹿って言われたことはねえよ」

かっこ悪く酒を溢せとグラスを手に持っている肩を押すとデカいせいで隣のカップル客にドンッと背中が当たってしまった

「あ………」

「すいません」

「いえ!!あの!仁さんですよね!あく…あく…握手してください!」

「………いいですけど………」

隣の席でずっとチャンスを伺っていたのだろう、話す機会を得てとうとう溜めた我慢が破裂したらしい

そのカップルの片割れを機会に店中がざわめき遠慮していた空気が一挙に解禁になってしまった


「お客様………申し訳ございませんが、当店ではご遠慮いただければ……」

「俺はいいですよ、騒がしてすいません」

晋二が止めに入ったが仁は特上の笑顔を浮かべて快く握手に応じ始めた


逃げるチャンス…………

「晋二さん、今日はツケといてください、間違ってもあいつに払わせたりしないでくださいね」

「おや……お帰りで?」

「帰ります」

「またのお越しをお待ちしております」

片方の唇を上げてニヤリとした晋二は………

………逃げ出す事をお見通しだ


「おい神崎……」

重いドアに手をかけ外に足を踏み出すと背中から声がした、無視出来れば良かったが不覚にも足を止めしまった


「乗るなよ?」

「………不法侵入されるんでそれはないですよ」

「信用できるか………」

「鍵を返してください」

「やだね」

古いマンションはドアガードじゃなくてただの弱々しいチェーンのみ、締め出すことは難しい

「勝手にしてください」

もうどうでもいい、女性客に囲まれて動けない仁を置いてドアを閉めた



「ご迷惑をおかけしてすいませんでした」

晋二が本当に申し訳なさそうな顔をしてきっちり頭を下げた、取り囲んだ客を気分を害さないように上手く遠ざけてくれたのは晋二でそのお手並みはマネージャーとして雇いたい程見事なものだった

「こちらこそすいませんでした、よくある事ですがいつ始まるか読めなくて………」

「いえ……あれは私のミスです、お詫びに一杯ご馳走させてください」

飲むタイミングを逃していたグラスがスッと引かれ氷無しと最初に注文した筈が新しいグラスには大きな丸い氷が居座っていた

忘れたのか間違えたのか……どちらでもいいが一口飲んでみると冷たさが心地よくファンの熱気ですっかり体が暖められていることに気付かされた


「気が利きますね、ちょっと飲みたい気分なんですがここは何時までやってるんですか?」

「お客様がいらっしゃる限り開いてますよ」

「そんなこと言うと俺は朝まで帰りませんよ、眠れないからな………」

「どうぞ、お好きなだけいてくださって結構です、お客様の連れの方もよく朝までここにいらっしゃいますよ」

「神崎は……さっきまで一緒にいた奴はよくここに来るんですか?」

「…………」

晋二はチラリとドアを見たもののニッコリ惚けてサラリと話題を変えた

「お客様は……有名な方なんですか?」

「え?……まあ……有名……と言うかそういう仕事なんです」

別に思い上がっているつもりはないが最近はお前誰だと言われる事はもう皆無と言っていい、余程変な顔をしてしまったのか晋二は困ったように苦笑いを浮かべた


「……すいません……私はテレビやニュースは全く見ないので世間に疎くて………失礼がありましたら誤ります」

テロリストにでもなってしまいそうなんで……と笑った晋二は結局質問にはイエスともノーとも言わない

この店の価値はバーテン……

なるほど小僧の癖に見る目がある


「何ですか?一人で笑って、私は何か変な事を言ってますか?」

「いや………俺は顔を出してるから知ってる人がいるだけです、偉い訳じゃないから謝っていただかなくても大丈夫です」

「神崎さんもまたハイグレードなお連れの方がいるもんですね…………今日は……何か嫌な事でもおありで?」


「………え?………」

「お客様のように綺麗な方でも悩みがあるんですね、世界中が思い通りになりそうなのに……」


「どうでしょうね……」

ふふっと笑った晋二はそれ以上は聞いて来なかったがこの若いバーテンに持っていた印象がガラリと変わった

しかも三回、初めは店に似合わない若すぎるただの店員、次は気の利く優秀なバーテンダー

……最後は神崎の言っていた通り「最悪な男」


感情を隠すのは得意(自称)でまさか何も話してない相手に見破られるとは思わなかった

………そんな事を指摘してくれなくても嫌な事は大有りだ


こんな事なら…………

あんな奴に持って行かれるくらいなら……………毎日でも……抱いて自分のものにしておけば良かったんだ

保護者ヅラして虚勢を張った

春人が何と言おうと自分のものだと思ってしまう気持ちはどうしても抑えきれない

狭い店で他に客がいるうちは遠慮していたタバコを取り出すと火をつける前に灰皿がスッと出てきた






目が覚めた途端飛び起き部屋の中を見回した
冬だと言うのに背中にじっとりとした汗をかいている


「良かった……いない」

仁の荷物は残されたまま風呂場の前に放置されている、清宮と一緒にベッドに寝ていると踏み込まれそうでソファで寝ていた


「腹減った…………」

結局昨日の昼に食べて以来酒しか口にしていない、その酒すら邪魔されてまともに飲んでない、台所を覗くと昨夜食べなかった仁の料理がきちんとラップにかけられ冷蔵庫に入っている

「…………何もかも完璧で腹が立つな……」

どんなにお腹が空いてもこれだけは食べない、我慢した形跡を残したくないから皿にも触らない、処分もしない、ここで大人しく干からびていけばいい……

仇のように冷蔵庫を睨んでいるとキッチンのすぐ横にある玄関のドアからガチャガチャとくぐもった金属音が聞こえた

「え?!」

嘘だろ?

結局は自分の家に帰ってくれたと思っていた、荷物があるから取りに来る事はわかっていたがこんなに朝早く戻って来るなんて予想外

思わず隠れる所がないかオタオタ暴れて間に合いそうも無いので頭を抱えて座り込んだ


「…………おまえ………こんな所で何してる、超局地的小規模地震でもあったか?」

「朝の………体操です」

子供でもこんな馬鹿な隠れ方はしない、咄嗟に取ってしまった愚かな行動が恥ずかしくてスクワットしていた振りをして膝を伸ばした

「ガキは元気だな」

「仁さん………何普通に帰宅してるんですか」

「ああ?ハルが帰らない限りここにいるつったろ」

眉間に皺を寄せて不機嫌そうに靴を脱いだ仁は酒臭く声が野太い、お綺麗で人形のようなイメージはもう無いが今迄に無く人間臭い

「いい加減に鍵を返してください」

仁は手に持った鍵をこれ見よがしにポケットにグイっと突っ込み無言でキッチンにコンビニの袋を投げた

「仁さん!!あんたね!………っ?!…」

突然伸びてきた手が顎を持ち上げて頬を押しつぶし10センチ以上上からグイっと顔が鼻先まで近付いた


「さんを付けるな、仁でいい」

「ぅぐ…………」

コワい………キスされるかと真面目に怖かった、こんな意外な攻撃方法があるなんて思いつきもしない、殴られた方が余程まし…

そうなのだ、仁も「清宮家」の一員……清宮が天然に取る一連の行動は多分仁がお手本、元凶、本家、オリジナル

ベッと殴り飛ばされたように横に放り出され……1メートル以内は危険………鍋に水を入れる仁から距離を取った


「俺はあなたを呼び捨てには出来ません、って言うか嫌です」

「ああ?何でだ」

それは………親しくなりたくないからに決まってる


「俺はあなたを許してない」

「そんなもんお互い様だろ」

仁はフンッと鼻を鳴らしただけで表情を変えない代わりにコンビニの袋を乱暴にひっくり返して中身をぶちまけた

酒の匂いをプンプンさせているくせに酔っているようには見えないこいつはどうやら朝食を作ってる

「何を作ってるのか知りませんが先に言っておきます、俺は食べませんよ」

「駄目、お前昨日から何も食ってないだろ」

「俺の分は結構です」

「絶対食わす、食べないと監禁する」

「食うか!なんでわかんないんだよ!あんた本当に馬鹿だろ」

「ああ?………」

何だその濁点付けたようなやさぐれた返事は……

不機嫌とは裏腹にお母さんのように軽快な音を立てネギを刻んでいた手を止めて顔を上げた仁にギクッと身を引いた

俺の馬鹿………なんで入り口の方で距離を取らなかった、ぬうっと立ち塞がられ壁際に追い詰められると逃げ場がない

清宮相手にだけじゃない、仁は話す時一々近い

「な……何ですか……」

「食わなきゃ会社に行かせない、口移ししてでも食わせるぞ」

「気持ち悪い………、ちょっと離れてください、冗談でも寒気がする、次にその類の事言うと容赦しません、床を舐めますよ」

「冗談だと思ってるなら今すぐ実行する」

「言うなって!気色悪い!」

「声がデカい………うるせえンだよお前、ハルが起きるだろ、俺はもう60時間寝てない、キレる前にとっとと会社に行く用意しろ」

じゃあ招かれてない部屋で勝手にご飯作ってる暇があるなら自分の家に帰ってさっさと寝てくれ

いつの間にか吹っ飛んでどこかに消えてしまった遠慮や畏怖は、何を言っても大丈夫という変な安心感に形を変えて罵詈雑言が溢れるように出てくる

仁になら、お前なんか大っ嫌いだと正面から言える

……言っても嫌われた経験なんて無さそうで多分のれんに腕押し………このまま相手してたら本当に遅刻する


「おい神崎」

「まだ何か?おっしゃる通り俺は出る用意しなきゃならないんでシャワー浴びたいんですけどね」

「その前にこの冷凍うどん1分チンしてくれ、こんな新しい型使い方知らねぇよ」

「御宅の弟さんが爆破したから新しいレンジ買ったばかりなんです」

「は?ハルが?」

うどんに何をするつもりなのかレンジに放り込んで1分………出来上がるのを待つ気はない

「蓋の開け方くらいわかりますよね、俺はシャワー浴びてきます」

「待てよ何を爆発させたって?何をしてたんだ、怪我は?」

「何をって…………」

言ったらどんな顔をするか見てみたいが………言える訳ない

「何でもないですよ、あんたは知らないかもしれないですけど春人さんは最近料理が出来るようになってますよ」

「嘘付け」

「なんでそんな嘘付くんだよ、あんたがそんなんだから春人さんは………」

前を見ずに風呂場に向かおうとするとそこには無いはずの障害物にドンっと体を押し返された
 

「朝からうるさい………」

「………春人さん………」

「二人共……いつの間にか随分仲良くなっちゃって何?」

「仲良く?!」

どう見たら仲良く見えるんだ……
Tシャツの中に腕を突っ込んで腹丸出しの清宮はクワッと大きな欠伸をして髪をかきあげた、目覚めたばかりなのかまだ半分しか目が開いてない

無言で差し出されたコップに入った水を受け取ってコクコクと半分くらい飲むとまた当たり前に仁が返ってきたコップを受け取った


…………目の前で繰り広げられる二人の間で交わされる無言の会話

さっきまで眉間に皺を寄せて手に持つものをガンガンその辺にぶち当て物に当たりまくっていた仁の顔は取り替えたみたいにふっくら優しい顔になってる

「仁……なんか酒臭いな、二人して朝まで飲んでたのか?」

「違………」
「もうちょっとしたら朝飯出来るから待ってろ、ハルは?この後どうする」

「俺はここで仕事するだけだから急がない、神崎の分先に作ってよ」

「っっ!!俺はいりません!」

「神崎?………」
「ハルやめとけ、今こいつ拗ねてて餓鬼みたいに逆らってみたいだけだから、俺が食わすからお前は黙っとけ」

仁は清宮の口を抑えるついでに抱き寄せ、耳の横にチュッと口をつけた


絶対わざとやってる

どうして自分の部屋なのに添え物のオブザーバーになってる気分にならなくちゃならない


「鍵を…………返してください」

「やだね」

「力ずくで取りますよ」

本気だった、腕を締め上げてでも……叩き伏せてでも取り上げてやる………仁の体や顔にどれくらいの価値があるかは知らないが怪我をさせても構わない

「神崎!やめろよ」

ジリっと足を踏み出すと仁を守るように腕を突き出して肩を押し返した

「ムキになるなよ、うちではいつもこんなんだってお前はよく知ってるだろ」

「ここは清宮家じゃない」

どうしてわかってくれない、どうして仁の側に立つ

「神っ!……んぅっ……ちょっ…」


仁よりもむしろ清宮に腹が立つ
力ずくで腰を引き寄せて無理矢理口を押し付けた

「こら………離せ……ん……」

「ハル……逃げないで……ここにいて………」

「ちょっと!やめろったら……こら……逃げないから1回……離せ」


逃げる唇を追って………追って……
子供の頃から見ていたこの人を追い続けこんなにも極地まで来たのにまだ逃げる

惨めで……恥ずかしくて………

清宮の肩口に埋めたまま顔を上げられなくなった


「神崎………」


「……おい………ハルから離れろ………俺が包丁を持ってる事を忘れんな」

「仁やめろって……包丁を持って脅したら殺人未遂だよ」

「ハル、こっちに来い」

「今日は帰れよ、今日の夜そっちに行くからさ、もういいだろ」

 
仁は迷うように黙り込んでまな板の上に立てた包丁の柄をクルクル回して弄んでいる

極端な行動に出る心配なんかしないが仁が暴力を匂わす剣呑な言葉を口に出すこと自体が珍しい

楽しそうに言葉を交わしていたのに……一体どのタイミングで暗転したのかわからない

「頼むよ……仁………」

仁が何を考えているのかわからなんてそんな事も滅多にない

ツイっと仁の指から離れた包丁がまな板の上を跳ねシンクに落ちてガランっと険悪な音を立てた


「仁?………」

「3分で出る、悪いけど先にシャワー使わせてもらうぞ」

「え?……おい……」


誰に向けたのか…………小さな舌打ちを残し大股でバスルームに向かった仁の足音に体に巻き付いた神崎の腕がビクリと震えギュっと力が入った


「神崎………仁はもう行ったから………いい加減に離さないか?」


この………神崎の仁に対する過剰反応はどうしていいかわからずフラフラしてる自分のせいだとはわかってる

仁は兄なのだといくら言ってもこの感覚を伝えるのは難しい、神崎は肩に顔を埋めたまま動かない

「なあ…神崎………」


「………遊んでるんですか?………」


「遊ぶって?」

「二人して………俺をからかってるんでしょう」

「違うから……」

「面白いでしょう………俺一人で右往左往して………」

ふうっと肺の空気を吐き出すと思っていたより大きく響き慌てて息を止めた、今こんな状態で溜息なんか付くとまた神崎が変な誤解をしかねない

「すいません………困らせて………」

やっぱり………

動けないほどきつく締まっていた腕が不意に緩み肩を押して神崎の体をシンクに預けると素直に離れたが伏せた顔は上げてくれない

「お前は考えすぎ……だと思う、俺は……」

「わかってます、わかってるけど……」

「神崎………あのな……もし仁とお前のどちらかと永遠に会えなくなるからどちらかを選べと言われたら、俺は仁を選ぶ」

「!!」

「おい、慌てるな、そんな事ある訳ないから例えな?」

「はっきり…………言うんですね…」

「仁がいなかったら俺は多分この世にいない………俺のものだって仁が言うならその通りなんだよ」




清宮の首……手を添えると躍動が伝わってくる

華奢に見せているのは顎のラインが深く切れ込み細いせい、手をかけると女とはやっぱり違う

…………この白い項…………血液の流れを遮断して喉を思いっきり潰し気道を完全に塞ぐ………

息をしなくなった清宮はきっとこんな残酷な言葉を吐かない、植物を愛でるように……永遠に側に置いて離れない

首にかけた手をスルリと背中に回すと今度は体を胸に預けてきた


絞め殺したくなったのはこれで二度目………


「そんな事……言わなくていいから……」

この洗脳に近い盲信………20年以上かけて培われた二人の関係は深すぎて底が見えない


「お前と俺の………この関係は仁の意見が正しいよ……」

「そんな事誰にも……俺たち以外で決める事じゃない……」

そうだな………と笑う清宮は自分がどうしたいのか考えているのか、何も考えないのか………おそらく後者………

「春人さんは?………どうしたい?」

「俺はそのうち消えると思うから…それまで一緒にいよ」

「消えるって?」

「さあ……外国にでも行くんじゃないか?」

「仁と?」

「…………俺はニューヨークにいる間自分の財布を一回も開けてない、行き帰りも含めてな……それじゃダメだろ?一人でやらなきゃ……」

「一人でなんて行かせない、俺も一緒に行くから……」

清宮の言葉が例え話なのはわかっている、だがふっといなくなりそうな儚さがずっと清宮には付き纏っている

それこそ小学生の時からずっと………


「そんな顔すんなよ、なあ………今日やろ」


「……………は?」

チュッと軽く唇を合わせた清宮が鼻の先でいたずらっぽく笑った…………もう!この腕が千切れるくらいの振り回されっぷり

「…………やるって………」

「うん、やろ」

もう気持ちのバランスがめちゃくちゃ…………恋愛なんかにこんなにも乱される事が自分にあるなんて思わなかった

どちらかと言えば恋愛の優先順位が低い事が付き合う相手と別れる原因の殆どだった

「ここで?………」

「仁に言えばいいじゃん、今日ここでセックスするから見たいんならいればいいって、ほらもう風呂から出てくる」

「春人さん………」

ガチャンっと乱暴な音を立てて風呂場から出て来た仁は頭からタオルを被って携帯を耳に当てていた

言えって俺が?………ほらっと面白そうに笑う清宮はもはや悪魔………やっぱりからかわれてる



遅刻するぞと清宮に押し込まれた風呂場は逃げ場には丁度いい、やけくそになって威勢よく冷水のシャワーを頭から被って飛び上がった

「俺……………カッコ悪…………」


慌てて温度を上げると間伐無しに出てきてくれたお湯は鏡に写った情けない顔を湯気の力で隠してくれた

選りにも選って一番見られたくないペアの前で晒した醜態にどん底まで打ちのめされてどんな顔をしてのこのこ風呂場から出ていいのかわからない



遅刻は出来ない………可能な限り粘ってシャワーを終えるとテーブルの上に湯気を立てていた二人分のうどんを残して仁はもう既に出かけて姿を消していた
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