60 / 73
第三章
娘
しおりを挟む
カイリ、小花、時之介、柊、そしてタケは、屋敷を出て竹林の小道をとぼとぼと進み、途中で足を止めた。
柊は自分の髪をクシャッと掴むと、悔しそうに顔をしかめた。
「ダメだったな」
「はい……」
力なく答えたカイリに時之介も続く。
「紫花さんっていったい……久遠様はあの『誰も知らない昔話』のあとから、ずっと待ち続けてるんだよね。そんなに長い間待つなんて僕だったら気が狂っちゃうよ」
「…………気ならとっくの昔に狂っておる。久遠様は、その狂いも過ぎ去るほどの年月を過ごしてきたのじゃ」
タケの言い草は、まるでその悲愴な出来事を直接見てきた者の侘しさを感じさせた。
小花は見たことのないタケの塞ぎ込む表情に胸が詰まる思いがしたのか、彼女を覗き込んだ。
「タケちゃん……?」
「わしは…………わしは、紫花様に助けられ拾われた猫じゃ」
――タケが紫花の猫!?
「えっ!? あの物語にタケちゃんは出てこなかったよ?」
「そうじゃ! 久遠様は紫花様と二人だけの物語のように話されて! わしの方が先に出会っておるのに……。お前は目を輝かせて聞いておったが、わしは腹を立てておったんじゃ!!」
まさか当時を知っているモノに出会えるとは。カイリはタケに詰め寄った。
「タケ! なんでもいい! なんでもいいから聞かせてくれないか!?」
「……紫花様とは十年を共に過ごした。わしのことを、とても大事にしてくださったお方じゃ。紫花様と久遠様の間に子どもたちも生まれ、あの時は幸せが溢れておった」
ピンとしたタケの耳が力なく下がる。
「だが、原因不明の病に倒れた紫花様はあっという間に亡くなられ、わしも同じように病にかかり、あとを追うように死んだ。亡くなられる前に頼まれた、紫花様との約束を守れないままな……」
――病でやつれ、横になっている紫花は、手元に丸まる一匹の黒猫の体を指先で優しくなでていた。
「聞いて、タケ……。母を亡くしたあの時、私を救ってくれたのはあなただった。私が死んで、みんなが泣いていたら、あなたが慰めてあげてね」
むくりと起き上がった黒猫は、ゆっくり紫花の顔の横まで来ると彼女に甘えるように何度も頬ずりをした。
「ふふっ、くすぐったい。タケ……大好き、みんなをよろしくね」
黒猫は紫花の目から流れ落ちる涙をぺろりと舐め、寄り添うように丸まった――。
瞼を閉じたタケは、遥か遠い昔を思い出していたようだった。
「紫花様との約束が果たせなかった未練が、わしを妖にした。久遠様に力を授けてもらい、それからずっとあのお方にお仕えしながら、共に紫花様の魂が再びこの世に戻ってくるのを待っておる。だが……待てど暮らせど、紫花様は戻ってこないのじゃ……」
タケの目からポロポロと涙がこぼれ落ちていく。
「わしは、紫花様と亡くなった子どもたちの仇を取りたい! カイリと共に戦うぞ」
「――タケ!! ありがとう!! それで……亡くなった子どもたちというのは ……まさか、疫神はお二人の子どもたちまで……」
タケの目に殺意が宿った。
「わしはそうだと思ってる。残された三人の娘のうち、長女の紅子以外、紫花様の死後一年も経たぬうちに同じ原因不明の病で亡くなった。生き残った紅子だけが、長生きをして寿命を全うしたのじゃ」
――長生きをして、寿命を全うした?
「いや……それはおかしい。当主会議で知盛様は、疫神は一つの村や町を滅ぼす時、一人の生き残りも許さなかったとおっしゃっていたんだ。どうして紅子だけ無事だったんだ……」
紅子の血を受け継いている小花と柊は、自然と目を合わせる。だが、なんの答えも見いだせず小さく頭を振った。
「それはわしにも分からん。だが、わしらは一度、疫神に会っているはずなんじゃ。わしがまだ生きた猫で、紅子が三歳ほど。紫花様は背中に赤子をおぶって三人目の子を妊娠しておった」
「疫神はどんな姿を?」
「わしの勘違いでなければ、少年だった。ただ、わしは怖くてすぐにその場を離れてしまった。紅子と紫花様は疫神と何か話していたようだが、内容までは……」
タケは『わからない』と、カイリに向かって首を横に振る。
「なあ、タケ。紅子は赤眼の持ち主だったんだろ?」
「そうじゃ」
「小花たちは、雷神から『疫神は浄化できる』って教えてもらったんだ。久遠様はどうして紅子を連れて、疫神を浄化しに行かなかったんだ?」
赤眼を持って生まれた最初の子――紅子。
彼女は疫神を浄化できたはずだ。
「久遠様がおっしゃったわけではないが、紅子を疫神に会わせたくなかったのだと思う。それに、わしはあの日の久遠様のお顔を忘れはしない……。疫神に怒りをぶつけても、紫花様や子どもたちは 戻ってこない。その喪失感がそれ以上復讐する気力を奪ったのかもしれぬ」
「でもさ、真珠さんや小花は、自分と愛する人の血を受け継いだ子孫じゃん。どうして守ってくれないの?」
時之介は『納得いかない』と口を尖らせる。
「久遠様は紫花様や紅子を愛していたが、あの子の子孫まで愛したわけではない」
久遠は、紫花が最後に見た姿のままでいることを望んだ。しかし、それでは成長していく紅子といずれ見た目の逆転をおこしてしまう。
年頃になり、いつかは結婚する紅子を想った久遠は、自分は『父親』ではなく両親を亡くした紅子を引き取った『術師』として、面布で顔を隠し身を潜めることにしたのだ。
紅子の結婚は喜ばしいことだったが、彼女に子どもが産まれると昔の幸せな時を思い出してつらくなったのだろう。久遠はますます紅子から遠ざかってしまった。
「子孫と言えども、情が薄れていくのは仕方なかろう」
「紅子さん、かわいそう……」
小花は胸元をぎゅっと握りしめる。
紅子の不遇を思い、皆の表情は一層暗くなった。
「そうだな……紅子はかわいそうな子じゃ。母親と妹たちを幼くして亡くし、父を父とも呼べなくなった。悲しく寂しい思いをたくさんしただろう――」
紫花と妹たちを亡くした紅子は、部屋の隅で膝を抱えて顔をうずめていた――。
タケと久遠は、生きている紅子にとにかく何か食べさせなければいけないと、一生懸命に食事の準備をした。しかし、出来上がるのは味も匂いもひどいものばかり。それでも久遠は紅子に差し出した。
「紅子。おいしくはないが、少しでいいから食べておくれ」
「……お母ちゃんのごはんがいい」
首を横に振った紅子は、涙を流して訴える。紫花の料理でなければいけないと一点張りを続ける彼女は、何も食べようとはせず殻に閉じこもってしまっていた。
「確かに……こんな料理ではダメだな……。でも紅子、水だけは飲んでくれ」
うなだれる久遠は、紅子の横に水の入った湯呑みをそっと置き続けた。
数日が経ち、余裕のなかったタケは『自分だけがつらいのではない』と幼い紅子相手に涙ながらに訴え、お互いに暴言を吐き合い、掴み合いの喧嘩をしてしまったのだ。
「久遠様……わし、紫花様との約束を破って紅子にひどいことを言ってしまいました。最低じゃ……」
「タケ……」
久遠は自分自身の不甲斐なさを感じているのか、泣きじゃくるタケの頭をなでてやるしかできなかった。
その夜、タケがグズグズと泣きべそをかきながら、いつものように久遠と二人で食事の支度をしていると、ふらふらと足元もおぼつかない紅子が手伝いに来たのだ。
「お母ちゃんはこうしてた」
今にも倒れそうな紅子のもとに駆けつけた久遠とタケは、壊れそうな小さな体をキツく抱きしめた。 そして紅子の助言のおげか、その日出来上がった晩ごはんは、なんとか食べれそうなものだった。
もちろん野菜の切り方は滅茶苦茶。お世辞にもおいしいと言えるものではない。しかし――
「うまいのぉ……」
「紫花の味だ」
「うん……おいしい……お母ちゃんの味、おいしいね」
その時、ずっと悲しみに伏せていた紅子が笑った。
涙でぐちゃぐちゃになりながら、その日の晩ごはんを三人で完食したのだ。どんなに出来が悪くとも、彼らにとっては紛れもなく紫花の味がしたからだった――。
紅子との思い出を語ったタケは鼻をすする。
「わしも久遠様も、子育てというものがわからずたくさん失敗をした。だが、久遠様は溢れるほどの愛情をあの子に注がれた。紅子が結婚してからは関わりも薄くなってしまったが、紅子が亡くなる前にわしと久遠様にかけてくれた言葉は、『ありがとう』じゃった」
――タケ……お父ちゃん、ありがとう。
紅子の死後。紅子の生前の口癖を、タケと久遠
は彼女の子どもたちを通して知った。
自分は幸せにならなくてはいけない。
それが自分の使命だと。
だから、どんな時でも笑顔を絶やさない……と。
紅子はタケと掴み合いの喧嘩をしたあの日の言葉を、死ぬまで忘れてはいなかったのだ。
「あの子は、ずっと疫神と戦い続けておったのじゃ。母を亡くした幼い子どもに『笑え』などと……わしは……」
タケはゴシゴシと目をこすった。
「紅子は、紫花様のような強くて優しい子に育った。愛する者たちに囲まれて、とても安らがな顔をしてあの世に旅立っていったのじゃ。ただ、久遠様は紅子を亡くしたあと、希望の光を失ったようになってしまった……」
「疫神を倒しても、久遠様やタケちゃんを救うことにはならないんだね……。紫花様の魂はどうして戻ってこないんだろう」
久遠から共に戦うことを拒まれたにもかかわらず、小花は久遠を助けたいと願っている。
「小花……お前というやつは」
タケは胸が押し潰されそうな顔で、涙を拭う小花を見つめた。
「心配するな小花。久遠様を救う道は必ずあるはずじゃ。 わしも久遠様も、紫花様のことを決して諦めたりしない。それに、わしは久遠様から力を授っておる。疫神との戦いで役に立てるはずじゃ。お前の命は、あやつには奪わせない」
「タケちゃん……でも、タケちゃんの元の姿って黒猫ちゃん――」
「疫神と戦う時はこっちじゃ!」
タケの周りに突然螺旋を描くような風が舞い上がる。本来の姿、その姿はまさに……
――化け猫!!
妖猫のタケから醸し出される妖気が肌をピリつかせる。上級の妖、本気を出せばこんなものではない。
太い前足がジャリっと地面をこする。大きな顔がぬっと小花に近づいた。 後ろで二本の尻尾がゆらゆらと揺れ動いている。
想像以上の迫力に皆は度肝を抜かれ、小花は思わずたじろいだ。
「ちなみに、人の姿に変わるのは久遠様の力ではなくわしの力じゃ」
再び少女の姿に戻ったタケは、『どうだ、すごいだろ』と勝ち誇ったように腕組みをして片笑んだ。
柊は自分の髪をクシャッと掴むと、悔しそうに顔をしかめた。
「ダメだったな」
「はい……」
力なく答えたカイリに時之介も続く。
「紫花さんっていったい……久遠様はあの『誰も知らない昔話』のあとから、ずっと待ち続けてるんだよね。そんなに長い間待つなんて僕だったら気が狂っちゃうよ」
「…………気ならとっくの昔に狂っておる。久遠様は、その狂いも過ぎ去るほどの年月を過ごしてきたのじゃ」
タケの言い草は、まるでその悲愴な出来事を直接見てきた者の侘しさを感じさせた。
小花は見たことのないタケの塞ぎ込む表情に胸が詰まる思いがしたのか、彼女を覗き込んだ。
「タケちゃん……?」
「わしは…………わしは、紫花様に助けられ拾われた猫じゃ」
――タケが紫花の猫!?
「えっ!? あの物語にタケちゃんは出てこなかったよ?」
「そうじゃ! 久遠様は紫花様と二人だけの物語のように話されて! わしの方が先に出会っておるのに……。お前は目を輝かせて聞いておったが、わしは腹を立てておったんじゃ!!」
まさか当時を知っているモノに出会えるとは。カイリはタケに詰め寄った。
「タケ! なんでもいい! なんでもいいから聞かせてくれないか!?」
「……紫花様とは十年を共に過ごした。わしのことを、とても大事にしてくださったお方じゃ。紫花様と久遠様の間に子どもたちも生まれ、あの時は幸せが溢れておった」
ピンとしたタケの耳が力なく下がる。
「だが、原因不明の病に倒れた紫花様はあっという間に亡くなられ、わしも同じように病にかかり、あとを追うように死んだ。亡くなられる前に頼まれた、紫花様との約束を守れないままな……」
――病でやつれ、横になっている紫花は、手元に丸まる一匹の黒猫の体を指先で優しくなでていた。
「聞いて、タケ……。母を亡くしたあの時、私を救ってくれたのはあなただった。私が死んで、みんなが泣いていたら、あなたが慰めてあげてね」
むくりと起き上がった黒猫は、ゆっくり紫花の顔の横まで来ると彼女に甘えるように何度も頬ずりをした。
「ふふっ、くすぐったい。タケ……大好き、みんなをよろしくね」
黒猫は紫花の目から流れ落ちる涙をぺろりと舐め、寄り添うように丸まった――。
瞼を閉じたタケは、遥か遠い昔を思い出していたようだった。
「紫花様との約束が果たせなかった未練が、わしを妖にした。久遠様に力を授けてもらい、それからずっとあのお方にお仕えしながら、共に紫花様の魂が再びこの世に戻ってくるのを待っておる。だが……待てど暮らせど、紫花様は戻ってこないのじゃ……」
タケの目からポロポロと涙がこぼれ落ちていく。
「わしは、紫花様と亡くなった子どもたちの仇を取りたい! カイリと共に戦うぞ」
「――タケ!! ありがとう!! それで……亡くなった子どもたちというのは ……まさか、疫神はお二人の子どもたちまで……」
タケの目に殺意が宿った。
「わしはそうだと思ってる。残された三人の娘のうち、長女の紅子以外、紫花様の死後一年も経たぬうちに同じ原因不明の病で亡くなった。生き残った紅子だけが、長生きをして寿命を全うしたのじゃ」
――長生きをして、寿命を全うした?
「いや……それはおかしい。当主会議で知盛様は、疫神は一つの村や町を滅ぼす時、一人の生き残りも許さなかったとおっしゃっていたんだ。どうして紅子だけ無事だったんだ……」
紅子の血を受け継いている小花と柊は、自然と目を合わせる。だが、なんの答えも見いだせず小さく頭を振った。
「それはわしにも分からん。だが、わしらは一度、疫神に会っているはずなんじゃ。わしがまだ生きた猫で、紅子が三歳ほど。紫花様は背中に赤子をおぶって三人目の子を妊娠しておった」
「疫神はどんな姿を?」
「わしの勘違いでなければ、少年だった。ただ、わしは怖くてすぐにその場を離れてしまった。紅子と紫花様は疫神と何か話していたようだが、内容までは……」
タケは『わからない』と、カイリに向かって首を横に振る。
「なあ、タケ。紅子は赤眼の持ち主だったんだろ?」
「そうじゃ」
「小花たちは、雷神から『疫神は浄化できる』って教えてもらったんだ。久遠様はどうして紅子を連れて、疫神を浄化しに行かなかったんだ?」
赤眼を持って生まれた最初の子――紅子。
彼女は疫神を浄化できたはずだ。
「久遠様がおっしゃったわけではないが、紅子を疫神に会わせたくなかったのだと思う。それに、わしはあの日の久遠様のお顔を忘れはしない……。疫神に怒りをぶつけても、紫花様や子どもたちは 戻ってこない。その喪失感がそれ以上復讐する気力を奪ったのかもしれぬ」
「でもさ、真珠さんや小花は、自分と愛する人の血を受け継いだ子孫じゃん。どうして守ってくれないの?」
時之介は『納得いかない』と口を尖らせる。
「久遠様は紫花様や紅子を愛していたが、あの子の子孫まで愛したわけではない」
久遠は、紫花が最後に見た姿のままでいることを望んだ。しかし、それでは成長していく紅子といずれ見た目の逆転をおこしてしまう。
年頃になり、いつかは結婚する紅子を想った久遠は、自分は『父親』ではなく両親を亡くした紅子を引き取った『術師』として、面布で顔を隠し身を潜めることにしたのだ。
紅子の結婚は喜ばしいことだったが、彼女に子どもが産まれると昔の幸せな時を思い出してつらくなったのだろう。久遠はますます紅子から遠ざかってしまった。
「子孫と言えども、情が薄れていくのは仕方なかろう」
「紅子さん、かわいそう……」
小花は胸元をぎゅっと握りしめる。
紅子の不遇を思い、皆の表情は一層暗くなった。
「そうだな……紅子はかわいそうな子じゃ。母親と妹たちを幼くして亡くし、父を父とも呼べなくなった。悲しく寂しい思いをたくさんしただろう――」
紫花と妹たちを亡くした紅子は、部屋の隅で膝を抱えて顔をうずめていた――。
タケと久遠は、生きている紅子にとにかく何か食べさせなければいけないと、一生懸命に食事の準備をした。しかし、出来上がるのは味も匂いもひどいものばかり。それでも久遠は紅子に差し出した。
「紅子。おいしくはないが、少しでいいから食べておくれ」
「……お母ちゃんのごはんがいい」
首を横に振った紅子は、涙を流して訴える。紫花の料理でなければいけないと一点張りを続ける彼女は、何も食べようとはせず殻に閉じこもってしまっていた。
「確かに……こんな料理ではダメだな……。でも紅子、水だけは飲んでくれ」
うなだれる久遠は、紅子の横に水の入った湯呑みをそっと置き続けた。
数日が経ち、余裕のなかったタケは『自分だけがつらいのではない』と幼い紅子相手に涙ながらに訴え、お互いに暴言を吐き合い、掴み合いの喧嘩をしてしまったのだ。
「久遠様……わし、紫花様との約束を破って紅子にひどいことを言ってしまいました。最低じゃ……」
「タケ……」
久遠は自分自身の不甲斐なさを感じているのか、泣きじゃくるタケの頭をなでてやるしかできなかった。
その夜、タケがグズグズと泣きべそをかきながら、いつものように久遠と二人で食事の支度をしていると、ふらふらと足元もおぼつかない紅子が手伝いに来たのだ。
「お母ちゃんはこうしてた」
今にも倒れそうな紅子のもとに駆けつけた久遠とタケは、壊れそうな小さな体をキツく抱きしめた。 そして紅子の助言のおげか、その日出来上がった晩ごはんは、なんとか食べれそうなものだった。
もちろん野菜の切り方は滅茶苦茶。お世辞にもおいしいと言えるものではない。しかし――
「うまいのぉ……」
「紫花の味だ」
「うん……おいしい……お母ちゃんの味、おいしいね」
その時、ずっと悲しみに伏せていた紅子が笑った。
涙でぐちゃぐちゃになりながら、その日の晩ごはんを三人で完食したのだ。どんなに出来が悪くとも、彼らにとっては紛れもなく紫花の味がしたからだった――。
紅子との思い出を語ったタケは鼻をすする。
「わしも久遠様も、子育てというものがわからずたくさん失敗をした。だが、久遠様は溢れるほどの愛情をあの子に注がれた。紅子が結婚してからは関わりも薄くなってしまったが、紅子が亡くなる前にわしと久遠様にかけてくれた言葉は、『ありがとう』じゃった」
――タケ……お父ちゃん、ありがとう。
紅子の死後。紅子の生前の口癖を、タケと久遠
は彼女の子どもたちを通して知った。
自分は幸せにならなくてはいけない。
それが自分の使命だと。
だから、どんな時でも笑顔を絶やさない……と。
紅子はタケと掴み合いの喧嘩をしたあの日の言葉を、死ぬまで忘れてはいなかったのだ。
「あの子は、ずっと疫神と戦い続けておったのじゃ。母を亡くした幼い子どもに『笑え』などと……わしは……」
タケはゴシゴシと目をこすった。
「紅子は、紫花様のような強くて優しい子に育った。愛する者たちに囲まれて、とても安らがな顔をしてあの世に旅立っていったのじゃ。ただ、久遠様は紅子を亡くしたあと、希望の光を失ったようになってしまった……」
「疫神を倒しても、久遠様やタケちゃんを救うことにはならないんだね……。紫花様の魂はどうして戻ってこないんだろう」
久遠から共に戦うことを拒まれたにもかかわらず、小花は久遠を助けたいと願っている。
「小花……お前というやつは」
タケは胸が押し潰されそうな顔で、涙を拭う小花を見つめた。
「心配するな小花。久遠様を救う道は必ずあるはずじゃ。 わしも久遠様も、紫花様のことを決して諦めたりしない。それに、わしは久遠様から力を授っておる。疫神との戦いで役に立てるはずじゃ。お前の命は、あやつには奪わせない」
「タケちゃん……でも、タケちゃんの元の姿って黒猫ちゃん――」
「疫神と戦う時はこっちじゃ!」
タケの周りに突然螺旋を描くような風が舞い上がる。本来の姿、その姿はまさに……
――化け猫!!
妖猫のタケから醸し出される妖気が肌をピリつかせる。上級の妖、本気を出せばこんなものではない。
太い前足がジャリっと地面をこする。大きな顔がぬっと小花に近づいた。 後ろで二本の尻尾がゆらゆらと揺れ動いている。
想像以上の迫力に皆は度肝を抜かれ、小花は思わずたじろいだ。
「ちなみに、人の姿に変わるのは久遠様の力ではなくわしの力じゃ」
再び少女の姿に戻ったタケは、『どうだ、すごいだろ』と勝ち誇ったように腕組みをして片笑んだ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
6
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる