―海神様伝説―

あおい たまき

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九章 静香の日記

暗雲

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 *ねがった……なかった
 *め……お前
 *奉ずる……尽くす
 *ちげべ……ちがうよ
 *どいなことに……どんなことに

  ***
 昭和二十四年九月九日御天気雨
 清三との接吻が、嫌で嫌で嫌でたまらねがった。身も心も全て、勇さんのものになっちまいてえ。ばば様はおらと清三を結婚させるつもりだかもわかんねえけども、おらは清三とはもう、添えねえ。だども、言えぬ。おらは、ばば様が恐ろしい。






「ほれ、顔さこっちゃ向けろ」
 清三は、畳の間に立って、静香に命を下す。いつもなら、身を預けるはずの静香がこの日は、側に添ってこない。

 清三は、わずかに苛立ちを覚え、静香の元に歩み寄り、手首をとった。清三の温もりに静香の心は、違う違うと、反応する。過剰なそれは、静香に清三の手を振りほどかせた。


「なして拒むだっ」
 清三は平手で何度も静香の頬を張る。頬を張られた反動で、静香は畳に倒れ込んだ。頬の粘膜が切れ、血の匂いが鼻を抜けていく。


「なして、めの心は、おらのもんさなんねえだ。おらはこんなに、めに尽くしてけてっぺ」
 ふうふうと荒く息を吐きながら、清三はいきり立つ。勇と口づけを交わした静香の心は、完全に勇に傾いていた。強いられた清三とのそれは、もはや苦痛でしかない。


「……押し付けと、奉ずることはちげべ」
 知らず知らずに静香はそう口にして、清三を睨みあげていた。その目は、清三を軽蔑し、嫌悪感に満ちあふれている。

 清三の怒りは、どっと沸き上がる。清三は、倒れこんだ静香に馬乗りになるようにして、静香の襟を掴んだ。背を丸めた清三の三白眼が、ぎらぎらと光っていた。


「おらをあんまし怒らせんな、ひでえこたあしたくねえ」
「清三……あんだは変わったよ。おらと接吻する前まで、あんなに優しいあんちゃんだったのに今は関白かんぱくもいいとこでねえか。まだおら、清三の嫁でもなんでもねえよ」


 溢れ出した本音は、静香がずっと、溜め込んできた想いだった。わなわなと震え、鋭い眼光を向ける清三に、静香はまたも、言いのける。


「おらは、今の清三は好きでねえ」
 清三の目に涙が浮かぶ。その涙を押しやるように、清三は静香の脇の畳に拳を突き立て、告げた。

「おらと、めの関係は、禎子様の望みだど。おらのせいでねえ。静香のばば様の望みだ。わかってんのか、禎子様に逆らったら、どいなことになっか。めも、おらも、命はねえかもしれねえだど」




「なら……いっそ、おらを、殺してけれよ清三」
 清三から視線を外し、静香の口から零れ落ちる、心の叫び。


 禎子に逆らえず、わからず屋の清三といつか結ばれて白無垢でも着る事になるのなら、勇と結ばれる事が出来ないのなら。

 きゅっと唇を結んだ静香の目から流れる一筋の涙を見た清三は、力なく、静香の体を降りた。

 やがて清三は、障子を静かに開け、
「今日の事は禎子様に報告すっからな……覚悟しとけよ」と、言い残して、畳の間を去っていく。


 声を必死に抑え、静香は泣く。
 そして、勇の名を呼ばんとする口を両手で押さえて耐えた。誰が聞いているかわからない。禎子に聞かれたら何かしでかすに違いない。それこそ、一巻の終わりだ。


 禎子様に報告すっからな……清三の放った言葉が不安を呼び、静香の心に暗雲を落とした。



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