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シルビア・スカーレット
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やられっぱなしでいいのか。
チロルのその言葉が耳に届いたとき、私の心の蓋が乱暴に開け放たれたような気がした。
「許せない……。許せない許せない、絶対に許せないっ!!」
自分でも制御できない荒れ狂う感情を吐き出す私を、ニヤリと笑うチロルが見詰める。
「どうして私がこんなに遭わなきゃいけないのっ!? どうして私が2人に恨まれなきゃならないのっ!?」
チロルの瞳に誘われ、私の中から堰を切ったように感情が溢れ出る。
「私はずっとお父様お母様の言う通りにしてきたのにっ! ウェイン様を支えるために生きてきたのにっ! ウェイン様からもオリビアからも裏切られて、お父様お母様も信じてくれなくて、どうして私がこんな目に遭わなきゃいけなかったのよっ!?」
家族のためにウェイン様のために自分を押し殺し、感情を胸にしまいこんで、ただ将来のためにと言われるがままに生きてきた。
なのに、それが苦痛だったですって……? そうして育てた娘を信じなかったですって……!?
「なら私はどうしたら良かったの!? 周囲に望まれるままに生きてきたのに、それで疎まれるなんてふざけるのもいい加減にしてよっ!!」
ふざけないでよっ! だったら私の今までの人生って、いったいなんだったって言うのよ!
お父様お母様に従わなかったことなんて、1度だってなかったじゃないっ!
ウェイン様に何かを望んだ事だって、1度だってなかったじゃないっ!
何が勘当よっ! 何が婚約破棄よっ! 自分の思い通りじゃなかったから要らないって!?
それじゃ私はなんなのよっ!? 私の意志は!? 私の心は!?
「私にだって意思も心もあるのにっ……! 私はっ、私は貴方達の所有物なんかじゃないっ!!」
「ああシルビア。とっても美しいわ……」
自分でもコントロールできない激情の中で、うっとりとしたチロルの声だけがやけに鮮明に耳に残る。
「もっともぉっと、貴女は自分の心の中を吐き出してしていいのよ? 貴女は何も間違ってないのだから」
「私は……間違って、ない……?」
「ご両親の言う事を良く聞いて、努力を怠らず、人を思いやり、常に最善だと思える行動を取り続けてきたんでしょう? そんな貴女が抱く怒りは、きっと何よりも正しいでしょう」
両親の言う事を聞いて、努力もしていつも人を思いやって……。
チロルが、今まで歩んできた私の人生を理解してくれている。私の人生を肯定してくれている……!
「裏切られたんですもの。捨てられたんですもの。奪われたんですもの。貴女は憎んでいいの。恨んでいいの。怒っていいの」
「恨んでも……憎んでも……いい?」
私を捨てた両親を恨んでもいいの?
私を捨てた婚約者と妹を憎んでいいの?
理不尽に奪われた私の人生に、私は燃え盛るように怒ってもいいの……!?
「だって貴女はいつだって正しいんだもの。貴女が抱くその黒い炎は、きっと何より正しく美しいのよ……」
「チ、ロル……!」
チロルの瞳が私を捕らえて離さない。
その深遠から覗くような視線は、まるで私の心の中を直接覗き込んでいるように思えた。
「さぁシルビア、話してちょうだい……。今まで貴女が歩んできた道を……」
燃え滾る怒りの中に、ゾクリとした寒気が背中に走る。
私の心の中を覗きながら、それでも足りずにもっと差し出せとチロルが迫る。
怒りだけでは飽き足らず、私の人生全部を差し出せと、チロルの闇色の瞳が雄弁に語っている。
生まれて初めて燃えるような怒りを覚えたばかりだったのに、チロルの眼差しに私は恐怖を抱いてしまう。
「妹と婚約者とどんなことがあったのか。家族とどのように過ごしてきたのか。包み隠さず、貴女の全てを話しなさい……」
「私の、全てを……」
まるでチロルの瞳に導かれるように、私は全てを話し続けた。
ウェイン様のこと。家族の事。今まで歩んできた人生全部、チロルに明け渡すみたいに。
私が全てを語り続けている間、チロルは静かに微笑んで、闇色の瞳で私を見詰め続けていた――――。
「はぁっ……はぁっ……」
呼吸は乱れ体は重く、叫び続けた喉は焼け付くように痛い……。
全てを話し終えた時、私は異常なまでに疲れきっていた。話をしただけなのに、私の中身が空っぽになってしまったように感じてしまう。
もう、あれほど激しかった怒りすら残っていないよ……。
「シルビア。話してくれてありがとう。今日はもう遅いから休みましょう?」
「はぁっ……はぁっ……チロ、ル……」
頭がぼーっとする。なんだか疲れて頭が働かない。
働かない思考のままで、正面のチロルをぼんやりと眺めることしか出来ない。
「大丈夫。全部話してくれたんだもの。きっと今夜はぐっすりと眠れると思うわ」
朦朧とした頭でも、チロルが私を気遣っているのだけは分かる。
ああ、チロルはいつも本当に優しいなぁ……。
「立てるかしらシルビア? 無理はしないでいいからね」
「う、ん……。ありがと、チロル……」
チロルに肩を貸してもらって、私はなんとかベッドに横になった。
私、なんでこんなに疲れてるんだっけ……。なにか、とても大変なことがあった気がするんだけど……。
なにか考えなければならないことがあった気がする。けれど襲ってくる疲労と睡魔に抗うことが出来ず、私の意識はゆっくりと闇に落ちていった――――。
「……ん。眩し……」
窓から差し込む朝の光に目が覚める。
チロルに肩を借りてベッドまで移動したのは覚えてるけど……。私、あのまま眠ってしまったのね……。
「……あれ」
体を起こそうとした私は、自分の右手が誰かに握られていることに気付く。
私の右手を握る小さな手を視線で辿ると、私のベッドのすぐ横に腰掛けたチロルが、私の手を握ったままですやすやと寝息を立てていた。
「チロル……? なんでここに……?」
「う、ん……?」
思わず声をかけてしまうと、私の声に反応して直ぐに目を開くチロル。
「んー……! はぁ~……」
チロルが少し寝惚けた様子で、背伸びしながら息を吐いた。
「おはよ~シルビア。具合悪かったりしない? 大丈夫かしら?」
私の呟きで目を覚ましたチロルは、何よりも私の心配を優先してくれる。
私が心配だったから、ひと晩中手を握っていてくれたのかな?
「ん、おはようチロル。体は平気かな? なんともないと思う」
……本当に、なんともない。
昨晩の事は全て覚えている。ウェイン様の事、オリビアの事、凄くショックで、でも凄く頭にきて、感情のままにチロルに話し続けたことは記憶に焼き付いている。
だけど全てを覚えているのに、昨晩は震えるほどに湧き上がっていた感情が、今は綺麗さっぱり無くなっているように思えた。
「昨日のシルビア、ぐったりしちゃってたから少し心配だったのよ。元気そうで良かった」
私の言葉に、安心したように息を吐くチロル。
そんな彼女の態度が嬉しくて、昨日抱いた炎のような怒りが消えていることも別に気にならなかった。
「さ、起きましょ。そろそろアンが朝食を用意してくれる時間だわ」
「うんっ。すぐ支度するね」
チロルに促されて、ベッドから飛び起きる。
もうすぐ朝食だなんて、ちょっと寝坊しちゃったかなぁ?
穏やかに微笑むチロルの真っ黒な瞳を見ても、今はただ優しげな瞳にしか見えなかった。
普段通りの優しいチロルだ。なら昨夜感じたあの恐ろしさは、いったいなんだったのかしら……?
「それじゃ私は仕事してくるわ」
朝食を食べた後、チロルは直ぐに身支度を整え始める。
流石大商人チロル。私と同い年なのに本当に忙しそうに働いているなぁ。
「シルビアはもう少しアンに付いて、この家の仕事を学んでね」
「うん。チロルもお仕事頑張って」
「ええ、お互い頑張りましょ」
出掛ける前のチロルとお互いを激励し会う。
お互い頑張りましょうかぁ。こんなこと初めて言われたかもしれないなぁ。
「こう見えてアンは私の信頼する使用人なの。彼女の教育を受ければなんの心配も要らないからね」
「勿体無いお言葉です。ですがシルビアもとても優秀で、私以外の者に学んでも一人前になれる素質は充分ですよ」
「あ、ありがとうございますっ……」
淡々とした口調で突然褒められてしまい、少し慌ててしまう。
でもアンさんのメイド教育って9割方体力作りなんだよなぁ……。
でもアンさんが優秀なメイドなのは見ていて疑いようもないし、チロルも信頼していると言ってるんだ。変なところで疑ってる場合じゃないよね。
「チロル。私も早く一人前になって、貴女の助けになるからねっ」
「楽しみにしてるわ。私ってこう見えてすっごく忙しいからさ。早く助けてねっ」
玄関先で仕事に出掛けるチロルを見送る。
昨夜の感情が、まるで夢か幻のように綺麗に抜け落ちている。おかげで気分は晴れやかだ。
……なんで私、昨日はあんなに怒ったんだっけ? 記憶はあるのに感情が思い出せない。おかしいなぁ……?
その後、保護されたマリーも正式にチロルに雇われる事になり、共にアンさんの下で訓練する日々が始まった。
元々男爵家に仕えていたマリーは一定水準の仕事が出来る。マリーと一緒に働くことになって、自分がどれだけ彼女に頼っていたのかと思い知らされた。
「マリー。私今まで貴女に頼りきりだったのね。こうして一緒に働いてみて、初めて貴女のしてくれていた事に気付けたわ。今さらだけど、いつもありがとうマリー」
「お嬢さ……、いえシルビア、気にしないで下さい。私はお給金を貰って、求められている仕事をこなしていただけですから」
マリーの事は大切な友人だと思っていたけれど、やっぱりどこか使用人として見ていたような気がする。
こうして同じ立場になってみて初めて、マリーが普段からどれ程の気配りをしてくれていたのかを痛感した。
「まぁでも、雇い主から感謝されるというのは、使用人にとって最高に嬉しい事かもしれませんね」
「ふふ。貴女の雇い主はもう私じゃないけどね?」
「立場は同じになってしまいましたが、貴女が大切な人であることに変わりありませんよ。お互い無事で何よりでした。これからも宜しくお願いします、シルビア」
「うん。これからも宜しくね、マリー」
立場が変わってもマリーと私の友情は変わらない。これから一緒に頑張ろうねマリー。
マリーがこのお屋敷での生活に慣れ始めたころ、私は客室から使用人部屋に移された。
お部屋は客室よりも狭くなったけれど、マリーと同室になってかえって嬉しかった。
仕事で分からない事を聞いたり、夜はいつも2人で他愛もない話をして過ごした。
そうした毎日を過ごしているうちに、いつしかマリーが私に敬語を使わなくなっていることに気付いて、なんだかとても暖かい気持ちになった。
そんな日々が1ヶ月ほど続いて、私達はようやくお屋敷の外に出ることが許された。
今日チロルは取引先と商談があるらしく、私とマリーがそのお供に抜擢されたのだ!
「あはは。2人とも、そんなに緊張しなくて大丈夫よ」
初めてお屋敷の外で仕事が出来る。
そんな風に意気込む私とマリーをからかうように笑うチロル。
「わ、笑わないでよぉ。初めてのお仕事で緊張するなって方が無理じゃない……!」
「2人は立ち会うだけで充分。2人が何かをすることは無いはずよ」
「え、ええ……? それじゃ私達がついていく意味なんて無いんじゃ……?」
「一応私も大商人ですから? お供の1人や2人連れて居ないと、体裁が悪くって」
そっかぁ。男爵令嬢の私には無縁な話だけど、高位貴族の方々は沢山の使用人を侍らせているものなのかな。
チロルは家名持ちだけど、身分は間違いなく平民。なのに高位貴族みたいな振る舞いをしなくちゃいけないなんて、大変だぁ……。
チロルとマリーと3人で馬車に乗り込み、私の初めてのお仕事が始まった。
体裁を気にしている割には、チロルは必ず自分の方から相手を訪問する。チロルくらいの大商人なら、それこそ男爵家や子爵家を顎で使っていてもおかしくないはずなのに。
『用事があるのだから、自分からご挨拶に伺うのが当たり前でしょう? 私は平民なのだからね』と笑顔で返すチロルは、誰よりも商人らしくもあり、商人らしくないとも感じられた。
馬車の中はプライベートな空間だからね、とチロルが宣言したおかげで、私とマリーはとてもリラックスしておしゃべりに夢中になっちゃった。
そんなだからチロルが馬車の外を気にするまで、仕事のために外出したことすら忘れそうになってたの。
「あ、間もなく到着するみたいね。2人とも、降りる準備を」
「えっ!? うんっ……じゃなかった、はいっ」
チロルの言葉に慌てて返事を返した。
目的地に到着するということは、ここからはプライベートな空間ではないということだ。ここから私はチロルの友人ではなくて、チロルに仕えるメイドとして振舞わなきゃいけない。
馬車の中で3人で話してるのが楽しくて、ついつい気を抜いてしまったなぁ。馬車が止まるのを主人に教えられるなんて、使用人として恥ずかしい話よね。
だけど、横目でマリーを見ると、彼女も少しバツが悪そうな顔をしていた。長年使用人として働いてきたマリーですら、チロルのお喋りに夢中になっちゃったのね。
ふふ、マリーの焦る姿が少し可愛らしい。
けど馬車を降りた瞬間、そんな和やかな気持ちは木っ端微塵に吹き飛ばされてしまった。
「……え? どうし、て?」
馬車から降りるまで、自分が何処に居るのかにも気付かなかった。
目の前の屋敷には見覚えがある。いいえ、忘れるわけがない。
そう、ここはハドレット子爵邸に間違いない……。
愕然とする私の服の袖が引っ張られる。
驚いて振り返ると、真っ青な顔をしたマリーが震えながら私の袖を掴んでいた。
「シルビアもマリーも安心して。今日は本当に商談に来ただけだから」
愕然とする私と怯えるマリーに、何処までも穏やかに語りかけてくるチロル。
そりゃあチロルが安心しろって言うなら危険は無いんだろうけど……。
「でも勿論2人を同行させたのは偶然じゃないわ。私が意図して貴女たち2人を同行させたの」
「えっ?」
「貴女達は当事者としてこの場に立ち会う権利がある。事の顛末を見届ける義務がある。そう思って連れて来たの」
チロルは真剣な表情を浮かべて私とマリーを真っ直ぐに見詰めてくる。
チロルの眼差しはまるで、この場に立ち会うことこそが私達の役割であると言っているかのように感じられた。
「見届ける……? それっていったい、どういう意味なのチロル……?」
「ふふ、それはあとのお楽しみってね」
だけどやっぱりチロルは悪戯っぽく笑って、私の質問には答えてくれなかった。
「大丈夫、安全は約束するわ。私がいる限り、2人に危険が及ぶようなことは絶対に無いから」
「……う、うん」
チロルに真っ直ぐ笑顔を向けられて、私もマリーも少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
貴女がそう言うなら、きっと大丈夫なんだよね?
それでもマリーは少し怯えが拭いきれないようではあったけれど、なんとか屋敷に入る気持ちにはなったようだった。
私とマリーは覚悟を決め、チロルと共にハドレット邸に足を踏み入れた。
「おおお! クラート嬢! よくぞ、よくぞ来てくれた!」
お屋敷に到着すると、中にはウェイン様とオリビアが待っていた。まるでチロルのことしか目に入っていないかのようなウェイン様の雰囲気に違和感を覚える。
なんだかウェイン様もオリビアも憔悴しきっているように見えて、私の記憶にある2人の姿と重ならない。
「ささ、どうぞ腰を下ろして欲しい。我がハドレット家は、貴女を心から歓迎しているぞ!」
「平民の我が身には勿体無いお言葉で御座いますわ。過分なご配慮、痛み入ります」
……ウェイン、様? いったいなにが……?
あの日、パーティ会場で見せた、傲慢さを感じるほどの自信は微塵も残っていない。まるでチロルに媚び諂っているかのようにしか見えないわ……。
ウェイン様のこんなお姿、婚約者として連れ添ってきた私でも見たことがないよ……。
ウェイン様の対面に腰を下ろしたチロル。
私とマリーは侍女なので、そんなチロルの後ろに立つ。
「まずはウェイン様、オリビア様。この度はご婚約、誠におめでとうございます」
「うむ。祝福の言葉、ありがたく頂戴しよう」
挨拶代わりにウェイン様とオリビアの婚約を祝福するチロル。
2人が正式に婚約、か。
そう聞いても、今の私にはなんの感情も湧いてこない。どうしてなんだろう……?
「まったく、せっかく愛するオリビアと婚約できたというのに、明るい報せはこれだけというのは歯痒いものだ」
そしてウェイン様は使用人になど興味が無いと言わんばかりに、私にもマリーにも一切目を向けてこない。
ウェイン様の隣りにいるオリビアも俯いたままで、私たちはおろかチロルとすら未だに目を合わせていないように見える。
祝福の言葉を受け取ったのに、当事者のオリビアがいつまで経っても返答しないので、ウェイン様は少し苛立たしげにオリビアに返事を促した。
「……オリビア。お前も挨拶しなさい」
「あ、あの、挨拶が遅れて済みません……! この度ウェイン様と正式に婚約させていただいた、オリビア・スカーレットと申しますっ……!」
慌てて顔を上げて、挨拶の言葉を捲し立てるオリビア。
「チロル様のお話はよく耳にしております。祝福の言葉、本当にありがとうござっ……います」
一瞬言葉に詰まったけれど、すぐに取り繕ったためか、ウェイン様は気に留めなかったみたい。
どうやらオリビアは私とマリーに気付いたようね。いえ、気にしないウェイン様がどうかしてるんだけど……。
「まぁ。オリビア様のお耳にどんなお声が届いているのか少々不安ですね。良いお話だといいのですが」
「さてクラート嬢。挨拶はこれくらいにしておこう」
チロルがオリビアと会話しようとするのを少し乱暴に遮るウェイン様。
その様子は横暴と言うよりも、なんだか焦りを感じさせた。
「貴女もお察しのようだが、我がハドレット家は現在少々忙しい状況が続いていてね。あまり時間が取れないのだ」
「これはこれは失礼致しました。それでは本題に移らせて頂きましょう」
にこやかだった雰囲気を一変させ、商売人の雰囲気を纏うチロル。
「失礼を承知で言わせて頂きます。これは風の噂に聞いた話ではありますが、現在ハドレット商会は商売があまり上手くいっていないとか。これは本当でしょうか?」
え、ハドレット商会の経営が上手くいっていない?
そう言えば私がハドレット商会を手伝うことになったのも、業績不振がきっかけだったような……。
「……ああ。事実だ。クラート嬢の聞いた話に間違いはない。現在我がハドレット商会は、破産の危機を迎えている……」
え、破産……!? それは流石に初耳だ……!
チロルの言葉を苦々しげに認めたウェイン様は、しかし次の瞬間表情を一変させてチロルを問い質す。
「だからこそクラート嬢からの便りには驚かされたのだ! あの手紙の件は本当なのか!?」
「勿論ですよ。ウェイン様には以前大変便宜を図っていただきましたからね。そのご恩返しと、婚約祝いだと思って頂ければ幸いです」
言いながらチロルは1枚の書類を取り出す。
ここからじゃ内容までは確認できないけど……。何かの契約書、かな?
「先日ご連絡差し上げた通り、我がイーグルハート商会は、ハドレット商会に対して、業務提携をご提案させていただきます」
「あ、ありがたい! 本当にありがたい! 直接クラート嬢の口から聞くことが出来て、これでようやく安心できるというものだ……!」
チロルが提示した書類をひったくるようにして、その内容を興奮した様子で何度も読み返しているウェイン様。
チロルとウェイン様が業務提携ですって……? いったいなんの話をしているの……?
嬉しそうなウェイン様とは対照的に、オリビアは下唇を噛んで膝の上の両手を硬く握り締めている。その姿は、悔しくて堪らないといった様子だ。
ウェイン様とオリビアの温度差。イーグルハート商会とハドレット商会の突然の業務提携。
これがチロルの言っていた事の顛末? 何がなんだか分からないよ。
チロル……。貴女いったいなにをしたの?
チロルのその言葉が耳に届いたとき、私の心の蓋が乱暴に開け放たれたような気がした。
「許せない……。許せない許せない、絶対に許せないっ!!」
自分でも制御できない荒れ狂う感情を吐き出す私を、ニヤリと笑うチロルが見詰める。
「どうして私がこんなに遭わなきゃいけないのっ!? どうして私が2人に恨まれなきゃならないのっ!?」
チロルの瞳に誘われ、私の中から堰を切ったように感情が溢れ出る。
「私はずっとお父様お母様の言う通りにしてきたのにっ! ウェイン様を支えるために生きてきたのにっ! ウェイン様からもオリビアからも裏切られて、お父様お母様も信じてくれなくて、どうして私がこんな目に遭わなきゃいけなかったのよっ!?」
家族のためにウェイン様のために自分を押し殺し、感情を胸にしまいこんで、ただ将来のためにと言われるがままに生きてきた。
なのに、それが苦痛だったですって……? そうして育てた娘を信じなかったですって……!?
「なら私はどうしたら良かったの!? 周囲に望まれるままに生きてきたのに、それで疎まれるなんてふざけるのもいい加減にしてよっ!!」
ふざけないでよっ! だったら私の今までの人生って、いったいなんだったって言うのよ!
お父様お母様に従わなかったことなんて、1度だってなかったじゃないっ!
ウェイン様に何かを望んだ事だって、1度だってなかったじゃないっ!
何が勘当よっ! 何が婚約破棄よっ! 自分の思い通りじゃなかったから要らないって!?
それじゃ私はなんなのよっ!? 私の意志は!? 私の心は!?
「私にだって意思も心もあるのにっ……! 私はっ、私は貴方達の所有物なんかじゃないっ!!」
「ああシルビア。とっても美しいわ……」
自分でもコントロールできない激情の中で、うっとりとしたチロルの声だけがやけに鮮明に耳に残る。
「もっともぉっと、貴女は自分の心の中を吐き出してしていいのよ? 貴女は何も間違ってないのだから」
「私は……間違って、ない……?」
「ご両親の言う事を良く聞いて、努力を怠らず、人を思いやり、常に最善だと思える行動を取り続けてきたんでしょう? そんな貴女が抱く怒りは、きっと何よりも正しいでしょう」
両親の言う事を聞いて、努力もしていつも人を思いやって……。
チロルが、今まで歩んできた私の人生を理解してくれている。私の人生を肯定してくれている……!
「裏切られたんですもの。捨てられたんですもの。奪われたんですもの。貴女は憎んでいいの。恨んでいいの。怒っていいの」
「恨んでも……憎んでも……いい?」
私を捨てた両親を恨んでもいいの?
私を捨てた婚約者と妹を憎んでいいの?
理不尽に奪われた私の人生に、私は燃え盛るように怒ってもいいの……!?
「だって貴女はいつだって正しいんだもの。貴女が抱くその黒い炎は、きっと何より正しく美しいのよ……」
「チ、ロル……!」
チロルの瞳が私を捕らえて離さない。
その深遠から覗くような視線は、まるで私の心の中を直接覗き込んでいるように思えた。
「さぁシルビア、話してちょうだい……。今まで貴女が歩んできた道を……」
燃え滾る怒りの中に、ゾクリとした寒気が背中に走る。
私の心の中を覗きながら、それでも足りずにもっと差し出せとチロルが迫る。
怒りだけでは飽き足らず、私の人生全部を差し出せと、チロルの闇色の瞳が雄弁に語っている。
生まれて初めて燃えるような怒りを覚えたばかりだったのに、チロルの眼差しに私は恐怖を抱いてしまう。
「妹と婚約者とどんなことがあったのか。家族とどのように過ごしてきたのか。包み隠さず、貴女の全てを話しなさい……」
「私の、全てを……」
まるでチロルの瞳に導かれるように、私は全てを話し続けた。
ウェイン様のこと。家族の事。今まで歩んできた人生全部、チロルに明け渡すみたいに。
私が全てを語り続けている間、チロルは静かに微笑んで、闇色の瞳で私を見詰め続けていた――――。
「はぁっ……はぁっ……」
呼吸は乱れ体は重く、叫び続けた喉は焼け付くように痛い……。
全てを話し終えた時、私は異常なまでに疲れきっていた。話をしただけなのに、私の中身が空っぽになってしまったように感じてしまう。
もう、あれほど激しかった怒りすら残っていないよ……。
「シルビア。話してくれてありがとう。今日はもう遅いから休みましょう?」
「はぁっ……はぁっ……チロ、ル……」
頭がぼーっとする。なんだか疲れて頭が働かない。
働かない思考のままで、正面のチロルをぼんやりと眺めることしか出来ない。
「大丈夫。全部話してくれたんだもの。きっと今夜はぐっすりと眠れると思うわ」
朦朧とした頭でも、チロルが私を気遣っているのだけは分かる。
ああ、チロルはいつも本当に優しいなぁ……。
「立てるかしらシルビア? 無理はしないでいいからね」
「う、ん……。ありがと、チロル……」
チロルに肩を貸してもらって、私はなんとかベッドに横になった。
私、なんでこんなに疲れてるんだっけ……。なにか、とても大変なことがあった気がするんだけど……。
なにか考えなければならないことがあった気がする。けれど襲ってくる疲労と睡魔に抗うことが出来ず、私の意識はゆっくりと闇に落ちていった――――。
「……ん。眩し……」
窓から差し込む朝の光に目が覚める。
チロルに肩を借りてベッドまで移動したのは覚えてるけど……。私、あのまま眠ってしまったのね……。
「……あれ」
体を起こそうとした私は、自分の右手が誰かに握られていることに気付く。
私の右手を握る小さな手を視線で辿ると、私のベッドのすぐ横に腰掛けたチロルが、私の手を握ったままですやすやと寝息を立てていた。
「チロル……? なんでここに……?」
「う、ん……?」
思わず声をかけてしまうと、私の声に反応して直ぐに目を開くチロル。
「んー……! はぁ~……」
チロルが少し寝惚けた様子で、背伸びしながら息を吐いた。
「おはよ~シルビア。具合悪かったりしない? 大丈夫かしら?」
私の呟きで目を覚ましたチロルは、何よりも私の心配を優先してくれる。
私が心配だったから、ひと晩中手を握っていてくれたのかな?
「ん、おはようチロル。体は平気かな? なんともないと思う」
……本当に、なんともない。
昨晩の事は全て覚えている。ウェイン様の事、オリビアの事、凄くショックで、でも凄く頭にきて、感情のままにチロルに話し続けたことは記憶に焼き付いている。
だけど全てを覚えているのに、昨晩は震えるほどに湧き上がっていた感情が、今は綺麗さっぱり無くなっているように思えた。
「昨日のシルビア、ぐったりしちゃってたから少し心配だったのよ。元気そうで良かった」
私の言葉に、安心したように息を吐くチロル。
そんな彼女の態度が嬉しくて、昨日抱いた炎のような怒りが消えていることも別に気にならなかった。
「さ、起きましょ。そろそろアンが朝食を用意してくれる時間だわ」
「うんっ。すぐ支度するね」
チロルに促されて、ベッドから飛び起きる。
もうすぐ朝食だなんて、ちょっと寝坊しちゃったかなぁ?
穏やかに微笑むチロルの真っ黒な瞳を見ても、今はただ優しげな瞳にしか見えなかった。
普段通りの優しいチロルだ。なら昨夜感じたあの恐ろしさは、いったいなんだったのかしら……?
「それじゃ私は仕事してくるわ」
朝食を食べた後、チロルは直ぐに身支度を整え始める。
流石大商人チロル。私と同い年なのに本当に忙しそうに働いているなぁ。
「シルビアはもう少しアンに付いて、この家の仕事を学んでね」
「うん。チロルもお仕事頑張って」
「ええ、お互い頑張りましょ」
出掛ける前のチロルとお互いを激励し会う。
お互い頑張りましょうかぁ。こんなこと初めて言われたかもしれないなぁ。
「こう見えてアンは私の信頼する使用人なの。彼女の教育を受ければなんの心配も要らないからね」
「勿体無いお言葉です。ですがシルビアもとても優秀で、私以外の者に学んでも一人前になれる素質は充分ですよ」
「あ、ありがとうございますっ……」
淡々とした口調で突然褒められてしまい、少し慌ててしまう。
でもアンさんのメイド教育って9割方体力作りなんだよなぁ……。
でもアンさんが優秀なメイドなのは見ていて疑いようもないし、チロルも信頼していると言ってるんだ。変なところで疑ってる場合じゃないよね。
「チロル。私も早く一人前になって、貴女の助けになるからねっ」
「楽しみにしてるわ。私ってこう見えてすっごく忙しいからさ。早く助けてねっ」
玄関先で仕事に出掛けるチロルを見送る。
昨夜の感情が、まるで夢か幻のように綺麗に抜け落ちている。おかげで気分は晴れやかだ。
……なんで私、昨日はあんなに怒ったんだっけ? 記憶はあるのに感情が思い出せない。おかしいなぁ……?
その後、保護されたマリーも正式にチロルに雇われる事になり、共にアンさんの下で訓練する日々が始まった。
元々男爵家に仕えていたマリーは一定水準の仕事が出来る。マリーと一緒に働くことになって、自分がどれだけ彼女に頼っていたのかと思い知らされた。
「マリー。私今まで貴女に頼りきりだったのね。こうして一緒に働いてみて、初めて貴女のしてくれていた事に気付けたわ。今さらだけど、いつもありがとうマリー」
「お嬢さ……、いえシルビア、気にしないで下さい。私はお給金を貰って、求められている仕事をこなしていただけですから」
マリーの事は大切な友人だと思っていたけれど、やっぱりどこか使用人として見ていたような気がする。
こうして同じ立場になってみて初めて、マリーが普段からどれ程の気配りをしてくれていたのかを痛感した。
「まぁでも、雇い主から感謝されるというのは、使用人にとって最高に嬉しい事かもしれませんね」
「ふふ。貴女の雇い主はもう私じゃないけどね?」
「立場は同じになってしまいましたが、貴女が大切な人であることに変わりありませんよ。お互い無事で何よりでした。これからも宜しくお願いします、シルビア」
「うん。これからも宜しくね、マリー」
立場が変わってもマリーと私の友情は変わらない。これから一緒に頑張ろうねマリー。
マリーがこのお屋敷での生活に慣れ始めたころ、私は客室から使用人部屋に移された。
お部屋は客室よりも狭くなったけれど、マリーと同室になってかえって嬉しかった。
仕事で分からない事を聞いたり、夜はいつも2人で他愛もない話をして過ごした。
そうした毎日を過ごしているうちに、いつしかマリーが私に敬語を使わなくなっていることに気付いて、なんだかとても暖かい気持ちになった。
そんな日々が1ヶ月ほど続いて、私達はようやくお屋敷の外に出ることが許された。
今日チロルは取引先と商談があるらしく、私とマリーがそのお供に抜擢されたのだ!
「あはは。2人とも、そんなに緊張しなくて大丈夫よ」
初めてお屋敷の外で仕事が出来る。
そんな風に意気込む私とマリーをからかうように笑うチロル。
「わ、笑わないでよぉ。初めてのお仕事で緊張するなって方が無理じゃない……!」
「2人は立ち会うだけで充分。2人が何かをすることは無いはずよ」
「え、ええ……? それじゃ私達がついていく意味なんて無いんじゃ……?」
「一応私も大商人ですから? お供の1人や2人連れて居ないと、体裁が悪くって」
そっかぁ。男爵令嬢の私には無縁な話だけど、高位貴族の方々は沢山の使用人を侍らせているものなのかな。
チロルは家名持ちだけど、身分は間違いなく平民。なのに高位貴族みたいな振る舞いをしなくちゃいけないなんて、大変だぁ……。
チロルとマリーと3人で馬車に乗り込み、私の初めてのお仕事が始まった。
体裁を気にしている割には、チロルは必ず自分の方から相手を訪問する。チロルくらいの大商人なら、それこそ男爵家や子爵家を顎で使っていてもおかしくないはずなのに。
『用事があるのだから、自分からご挨拶に伺うのが当たり前でしょう? 私は平民なのだからね』と笑顔で返すチロルは、誰よりも商人らしくもあり、商人らしくないとも感じられた。
馬車の中はプライベートな空間だからね、とチロルが宣言したおかげで、私とマリーはとてもリラックスしておしゃべりに夢中になっちゃった。
そんなだからチロルが馬車の外を気にするまで、仕事のために外出したことすら忘れそうになってたの。
「あ、間もなく到着するみたいね。2人とも、降りる準備を」
「えっ!? うんっ……じゃなかった、はいっ」
チロルの言葉に慌てて返事を返した。
目的地に到着するということは、ここからはプライベートな空間ではないということだ。ここから私はチロルの友人ではなくて、チロルに仕えるメイドとして振舞わなきゃいけない。
馬車の中で3人で話してるのが楽しくて、ついつい気を抜いてしまったなぁ。馬車が止まるのを主人に教えられるなんて、使用人として恥ずかしい話よね。
だけど、横目でマリーを見ると、彼女も少しバツが悪そうな顔をしていた。長年使用人として働いてきたマリーですら、チロルのお喋りに夢中になっちゃったのね。
ふふ、マリーの焦る姿が少し可愛らしい。
けど馬車を降りた瞬間、そんな和やかな気持ちは木っ端微塵に吹き飛ばされてしまった。
「……え? どうし、て?」
馬車から降りるまで、自分が何処に居るのかにも気付かなかった。
目の前の屋敷には見覚えがある。いいえ、忘れるわけがない。
そう、ここはハドレット子爵邸に間違いない……。
愕然とする私の服の袖が引っ張られる。
驚いて振り返ると、真っ青な顔をしたマリーが震えながら私の袖を掴んでいた。
「シルビアもマリーも安心して。今日は本当に商談に来ただけだから」
愕然とする私と怯えるマリーに、何処までも穏やかに語りかけてくるチロル。
そりゃあチロルが安心しろって言うなら危険は無いんだろうけど……。
「でも勿論2人を同行させたのは偶然じゃないわ。私が意図して貴女たち2人を同行させたの」
「えっ?」
「貴女達は当事者としてこの場に立ち会う権利がある。事の顛末を見届ける義務がある。そう思って連れて来たの」
チロルは真剣な表情を浮かべて私とマリーを真っ直ぐに見詰めてくる。
チロルの眼差しはまるで、この場に立ち会うことこそが私達の役割であると言っているかのように感じられた。
「見届ける……? それっていったい、どういう意味なのチロル……?」
「ふふ、それはあとのお楽しみってね」
だけどやっぱりチロルは悪戯っぽく笑って、私の質問には答えてくれなかった。
「大丈夫、安全は約束するわ。私がいる限り、2人に危険が及ぶようなことは絶対に無いから」
「……う、うん」
チロルに真っ直ぐ笑顔を向けられて、私もマリーも少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
貴女がそう言うなら、きっと大丈夫なんだよね?
それでもマリーは少し怯えが拭いきれないようではあったけれど、なんとか屋敷に入る気持ちにはなったようだった。
私とマリーは覚悟を決め、チロルと共にハドレット邸に足を踏み入れた。
「おおお! クラート嬢! よくぞ、よくぞ来てくれた!」
お屋敷に到着すると、中にはウェイン様とオリビアが待っていた。まるでチロルのことしか目に入っていないかのようなウェイン様の雰囲気に違和感を覚える。
なんだかウェイン様もオリビアも憔悴しきっているように見えて、私の記憶にある2人の姿と重ならない。
「ささ、どうぞ腰を下ろして欲しい。我がハドレット家は、貴女を心から歓迎しているぞ!」
「平民の我が身には勿体無いお言葉で御座いますわ。過分なご配慮、痛み入ります」
……ウェイン、様? いったいなにが……?
あの日、パーティ会場で見せた、傲慢さを感じるほどの自信は微塵も残っていない。まるでチロルに媚び諂っているかのようにしか見えないわ……。
ウェイン様のこんなお姿、婚約者として連れ添ってきた私でも見たことがないよ……。
ウェイン様の対面に腰を下ろしたチロル。
私とマリーは侍女なので、そんなチロルの後ろに立つ。
「まずはウェイン様、オリビア様。この度はご婚約、誠におめでとうございます」
「うむ。祝福の言葉、ありがたく頂戴しよう」
挨拶代わりにウェイン様とオリビアの婚約を祝福するチロル。
2人が正式に婚約、か。
そう聞いても、今の私にはなんの感情も湧いてこない。どうしてなんだろう……?
「まったく、せっかく愛するオリビアと婚約できたというのに、明るい報せはこれだけというのは歯痒いものだ」
そしてウェイン様は使用人になど興味が無いと言わんばかりに、私にもマリーにも一切目を向けてこない。
ウェイン様の隣りにいるオリビアも俯いたままで、私たちはおろかチロルとすら未だに目を合わせていないように見える。
祝福の言葉を受け取ったのに、当事者のオリビアがいつまで経っても返答しないので、ウェイン様は少し苛立たしげにオリビアに返事を促した。
「……オリビア。お前も挨拶しなさい」
「あ、あの、挨拶が遅れて済みません……! この度ウェイン様と正式に婚約させていただいた、オリビア・スカーレットと申しますっ……!」
慌てて顔を上げて、挨拶の言葉を捲し立てるオリビア。
「チロル様のお話はよく耳にしております。祝福の言葉、本当にありがとうござっ……います」
一瞬言葉に詰まったけれど、すぐに取り繕ったためか、ウェイン様は気に留めなかったみたい。
どうやらオリビアは私とマリーに気付いたようね。いえ、気にしないウェイン様がどうかしてるんだけど……。
「まぁ。オリビア様のお耳にどんなお声が届いているのか少々不安ですね。良いお話だといいのですが」
「さてクラート嬢。挨拶はこれくらいにしておこう」
チロルがオリビアと会話しようとするのを少し乱暴に遮るウェイン様。
その様子は横暴と言うよりも、なんだか焦りを感じさせた。
「貴女もお察しのようだが、我がハドレット家は現在少々忙しい状況が続いていてね。あまり時間が取れないのだ」
「これはこれは失礼致しました。それでは本題に移らせて頂きましょう」
にこやかだった雰囲気を一変させ、商売人の雰囲気を纏うチロル。
「失礼を承知で言わせて頂きます。これは風の噂に聞いた話ではありますが、現在ハドレット商会は商売があまり上手くいっていないとか。これは本当でしょうか?」
え、ハドレット商会の経営が上手くいっていない?
そう言えば私がハドレット商会を手伝うことになったのも、業績不振がきっかけだったような……。
「……ああ。事実だ。クラート嬢の聞いた話に間違いはない。現在我がハドレット商会は、破産の危機を迎えている……」
え、破産……!? それは流石に初耳だ……!
チロルの言葉を苦々しげに認めたウェイン様は、しかし次の瞬間表情を一変させてチロルを問い質す。
「だからこそクラート嬢からの便りには驚かされたのだ! あの手紙の件は本当なのか!?」
「勿論ですよ。ウェイン様には以前大変便宜を図っていただきましたからね。そのご恩返しと、婚約祝いだと思って頂ければ幸いです」
言いながらチロルは1枚の書類を取り出す。
ここからじゃ内容までは確認できないけど……。何かの契約書、かな?
「先日ご連絡差し上げた通り、我がイーグルハート商会は、ハドレット商会に対して、業務提携をご提案させていただきます」
「あ、ありがたい! 本当にありがたい! 直接クラート嬢の口から聞くことが出来て、これでようやく安心できるというものだ……!」
チロルが提示した書類をひったくるようにして、その内容を興奮した様子で何度も読み返しているウェイン様。
チロルとウェイン様が業務提携ですって……? いったいなんの話をしているの……?
嬉しそうなウェイン様とは対照的に、オリビアは下唇を噛んで膝の上の両手を硬く握り締めている。その姿は、悔しくて堪らないといった様子だ。
ウェイン様とオリビアの温度差。イーグルハート商会とハドレット商会の突然の業務提携。
これがチロルの言っていた事の顛末? 何がなんだか分からないよ。
チロル……。貴女いったいなにをしたの?
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