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1巻
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プロローグ あなたは一体誰?
――あんなの、大したことない。
――何言ってるのよ! あのデザインの素晴らしさがわからないの!? 斜面を生かした半地下の寝室も、全面ガラス張りで海が見渡せる広いリビングも、斬新なのにとても落ち着ける雰囲気で、素敵だったわ! あんなデザインができるなんて、素晴らしい才能よ!
――あんなに素敵な作品を生み出したのだから、素敵な恋だったに違いないでしょ! そりゃ叶わなかったのかもしれないけど、それでもこんなに人を感動させる力があるんだから!
――世界中の誰もが否定しても、私が肯定するわよ! あなたの恋は素晴らしかったって!
……そう言った時。その人はなんて答えたのだろう――
ぼんやりとした記憶の中、熱くて滑らかなものに包まれて、どきどきして、気持ち良くて……痛かった、気がした。
***
「……ん……」
微かに水音が聞こえる。ぼうっとしながら重いまぶたを開けると、見覚えのない白い天井が目に入ってきた。
「え……? ここどこ……っ!?」
起き上がろうとした途端、鈍い痛みが身体の奥に走る。え、どうして? と思いつつ上掛けをめくると――
「っ!!!!!!」
(はっ、ははははは裸っ!?)
何も着ていない。しかも、胸の膨らみや太腿に赤い痕が付いている。下腹部が重だるくて、鈍く痛い。
(これって! これって! まさかっ!?)
さあああっと血の気が引く。どう見ても……事後だ。
シャアアア……
(っ! シャワーの音!?)
慌てて辺りを見回すと、ここは大きなダブルベッドがある室内で、音は白いドアの向こうから聞こえてきているようだ。床には、あちらこちらに洋服が散らばっている。自分が着ていたリクルートスーツに交ざった……男物のスラックス。
(あああああああ!)
――その時の私の頭には、「とにかく逃げよう!」としか思い浮かばなかった。大急ぎで服をかき集めて身に着け、服と同じく床に転がっていた肩掛けバッグを拾って、誰かがシャワーを止める前に部屋から飛び出した。
綺麗なホテルのロビーから最寄りの駅まで、全速力で走り抜けた。改札口の前でようやく立ち止まり、はあはあと荒い息を吐く。
「一体……何があったの?????」
何も、覚えてない。でも、肌に残った痕と身体の痛みからして、絶対……ヤッテシマッタ、と思う。
(誰と!? だって、昨日は!)
住宅会社数社が合同で企画した、由緒ある住宅デザイン賞の結果発表日。学生でも応募できたから、何度も練り直したデザインを持ち込み、どきどきしながら発表を待った。発表会場であるホテルの大広間は立ち見する人で溢れていて、小柄な私は前がよく見えなかった。なので、広間のすぐ隣の会議室でも授賞式の映像が見られると聞き、そちらに移動して確認したのだ。会議室のモニターに映された大賞作品は――私のじゃなかった。
――でも、その作品は、本当に素晴らしくて……一目で惚れ込んでしまった。チーム名で呼ばれて前に出た受賞者は背の高い男の人だったけど、その瞬間モニターがおかしくなり、映像が乱れてよく見えなくなった。直接見ようと大広間に移動したけれど、やっぱり満員の人でなかなか会場に入れず、そうこうしているうちに授賞式は終わってしまい、結局彼が誰だったのかはわからないまま。
その後開かれた交流会で会えるかも、と参加して、見たことない洋酒を飲んでみたら意外に美味しくて、つい飲みすぎてしまって――
「……以後、記憶がない……」
がっくりと肩を落とす。ああなっていたってことは、相手は授賞式の参加者である可能性が高いけれど、デザイン会社の社員も出ていたし、スタッフとして参加した学生や一般の聴講者もいたし……知り合いなんて一人もいなかったのに、一体誰とどうなってあんなことに。
「あああああ」
何も思い出せない。誰かと言い合っていたような記憶の欠片しか、自分の中には残っていない。
「初めてだっていうのに……覚えてないなんて……」
酔っ払って初体験して、しかも忘れるなんて、サイアク。こんなの、誰にも言えるわけない。
「とにかく……産婦人科に行かないと」
鈍い痛みはあるけれど、身体の状態からすると、ちゃんと避妊はしてくれていた……と思う。だけど、念のため受診した方がいいよね。
はああああ、と重い溜息をついた私は、スマホで病院を検索した後、これまた重い身体を引き摺って、改札口の中に入っていったのだった。
1 御曹司だからと、容赦しません!
「……今回は穂高のデザインで行こう。緩やかな曲線メインのフォルムが、クライアントもお気に召したようだ。社長以下、役員の評判も非常に良かったぞ」
「ありがとうございます、竹田課長」
(また! 負けた……っ!)
人知れず拳を握り締めた私、三森香苗の目の前で、爽やかな笑顔と共に課長と向き合う男。
身長百五十三センチの私より、余裕で頭一つ分以上背が高いヤツは、茶髪がかった明るい髪に、少し栗色の混ざった不思議な瞳をしていて、鼻筋高く整った顔付きはまるで王子様のようだと社内で評判だ。肩幅も広く、ライトグレーのスーツを着ていても鍛えられた身体がわかる。こちらからは顔が見えないけれど、きっと自慢げな表情をしているに違いない――!
(あいつの背中が私の熱視線で、焦げ焦げに焦げたらいいのにっ……!)
「また穂高だったわねえ。残念ね、香苗」
「冬子」
後ろを振り向くと、ひょいと穂高の方に顔を向ける九条冬子がいた。私より背が高い彼女は艶やかでストレートな黒髪のスレンダー美人で、『モデルの方が向いているんじゃないか』なんて言われていたりする。今もソフトデニムのパンツを、格好良く着こなしていた。
「しっかし、香苗って懲りないわよねえ。いい加減、穂高に突っかかるの、やめたら?」
「なんでよ?」
冬子が横目で穂高を見る。私も釣られて、まだ課長と話している彼を見た。
HODAKA DESIGN COMPANYは、個人住宅を始め、学校や公園などの公共施設、高層ビルのデザインも手がける一流デザイン会社だ。ここ十年は建築以外の分野にも幅を広げている、成長企業の一つ。社長の穂高実は、アジアスポーツ大会が日本で開催された時、メイン会場となった陸上競技場をデザインして有名になった。
……そして穂高優は、私の同期にして社長令息。そう、御曹司ってやつだ。身に着けている時計も靴も高そうだし、スーツだってオーダーメイドだろうし、背が高くて顔が良くて金持ちで……と来た上に、デザイナーとしての才能まで持っている。もの凄く癪だけど、ヤツの才能は本物だ。本当に癪だけど。
(まだ一度も勝てないなんてっ)
今回の案件は、古くなった体育館のリノベーション。今のところ個人住宅しか手がけていない私だけど、思い切って社内コンペに参加してみた。そしたら、何故だか穂高まで参加してきて……結果はご覧の通りだ。
課長と話し終わった穂高がこちらを見た。ふっと口元を歪めて笑うその顔が、非常に小憎たらしい。
「残念だったな、三森。まためげずに参加すればいい」
穂高の視線が私の頭のてっぺんから、足元まで移動する。どうせ私が着ているのは、量販店の桜色セーターに、これまた量販店の白いパンツだよ。
わざわざ目の前に立って、じろじろ見なくてもいいじゃない。私はジト目で彼を見上げる。愛想笑いなんて、してやらないから。
「今度こそ、あんたに勝ってやるんだから! 首洗って待ってなさい、穂高!」
「ああ、楽しみにしてる」
私に向けたにやりとした笑みが、冬子に視線を移した途端、にっこりに変わる。
「九条さんの試みも面白いよね。車関連のデザインはうちも手がけたことがないし、いい経験になると思う」
冬子もにっこりと上品な笑みを返す。
「ありがとう、穂高くん。すぐ売上に結びつかない企画を通してくれた社長に感謝してるわ……あなたにもね」
車大好きで、真っ赤なスポーツカーを乗り回す冬子は、自動車メーカーとコラボして『車内をラグジュアリーな空間に』『いつまでも乗っていたくなる快適な空間』という案件を始めたばかりだ。初の試みだから予算枠は少ないけれど、社長は可能性を認めてくれた――らしい。
(この企画を聞いた時、凄く面白いって思って、冬子とあーだこーだ詰めてたら、穂高が)
……そう。社長にこの企画を紹介してくれたのは、目の前にいるこの男。あっという間に社長や専務(穂高の叔父だ)も巻き込んで、冬子のアイデアを実現可能な案件にまで引っ張り上げたのだ。
こういう時、穂高との格差を感じる。私には、『こうしたら?』ぐらいの案出しや資料作成の手伝いしかできない。でも穂高は、それ以上のことができる。
もやもやと考え事をしていた私の左頬に、ひやりとした何かが触れた。
「三森」
「ふぎゃっ!?」
むにっと頬を引っ張られた私は、思わず変な声を出す。「猫みたいだな、お前」と言った穂高が、人差し指で私の目の下を擦る。
「目の下の隈。また残業してるんだろ。肌の張りもないし、とっとと帰って寝た方がいいんじゃないか? 成長しないぞ」
大きな手をぱっと右手で払い、思い切り背伸びして彼の顔に顔を近づける。
「お・お・き・な・お・せ・わ。大体、もう成長期は過ぎてるわよっ、入社五年目の中堅どころなんだから」
彫りの深い、俳優のような美貌の穂高に、肌ツヤのことを指摘されても、嫌みにしか聞こえない。しかも、私のことチビだって遠回しに言ってるし!
ふん、と鼻息を荒くした私を見下ろす穂高の目が、すっと細くなる。
「……ったく、いつまで経っても」
ぽそっと穂高が呟いた声は、よく聞こえなかった。眉を顰めた穂高はぽんと私の頭の上に右手を置いたかと思うと、そのままくしゃりと髪を乱した。
「俺のライバルだって言うなら、体調管理も怠るな。ヘロヘロのお前に勝ったって、なんの意味もない」
じゃ、と踵を返したヤツは、さっさとその場を去っていく。乱れた頭を「もう!」と文句を言いながら直していた私は、冬子が意味深に私と穂高を見て「本当、あんた達って厄介よねえ……」とこぼしていたことなんて、気が付いていなかった。
***
――艶のある黒髪の、丸みを帯びたボブカット。オン眉の前髪に、丸い目。高くも低くもない鼻に、血行のいい唇。
(……うん、普通)
化粧室の鏡に映る自分の姿は、本当に『普通』だった。穂高に触られた辺りの肌を触ってみると、やっぱりちょっと……潤いが足りない気がした。
(でも目の下の隈って、そんなに目立たないじゃない。穂高って気が付きすぎなんじゃないの!?)
残業して疲れたな~と思っていると、何故か穂高のチェックが入るのだ。自分だって残業するくせに、あの涼しげな外見が崩れることはなかった。悔しい。
「冬子には親切で優しい貴公子面してるくせに」
さっきだって、私に向けた顔と冬子に向けた顔、全然違ったわよね。なんなの、あの憎たらしい笑い方は。
(大体、穂高って初めっから、私には感じ悪かったわ)
……憧れのこのデザイン会社に就職できて、意気揚々と入社式に参加した私は、そこで穂高と出会った。
「あの頃から穂高ってイケメンだったよね……黙っていれば」
社長の挨拶を最後に入社式が終わると、座っていた新入社員それぞれが席を立ち、あちらこちらで会話の花が咲く。皆やる気溢れる表情を浮かべる中、涼しげな笑みが妙に目立つ男がいた。
すらりと背の高い彼は、特に女性からの注目を浴びていた。明るいグレーのビジネススーツを着てそこに立っているだけなのに、他の同期達とは何かが違うのだ。集団の中心になりながらも、さり気なく周囲に会話を振っている。目をハートマークにした同期女子が、わらわらと集まっていた。
(あんな人、この世に存在するんだ……イメージモデルにして部屋のデザインしてみたいかも)
五メートルほど離れた位置で、横顔や肩から腕のラインをほうほうと観察していた私と、彼の視線がぶつかる。
――その途端。すっと彼の顔から表情が抜け落ちた。私を見る瞳がぎらりと光る。
(えっ?)
なんだろうと首を傾げると、見る見るうちに彼の眼が三角に吊り上がっていく。さっきまでの笑顔はどこへやら、薄い唇がぎゅっと結ばれている。
(何、あの男!? なんで私のこと、睨んでるの!? 会ったことないんだけど!?)
なんなの、私が親の敵みたいな表情してっ!?
むっときた私も睨み返すと、バチバチと火花が散る音が聞こえた気がした。
『ねえ、あの人と知り合い?』
彼の隣にいた女性が話しかけると、男は瞬きをして――元のにこやかな顔に戻る。
『知り合いに似てたんだ。別人だったよ』
ふいと私に背を向けた彼に、何故かカチンときた私も、ふんと鼻息荒く踵を返して立ち去ったのだった。
「……で、まさか同じ部署に配属になるなんて、思ってなかったよね……」
デザイン部は、建築、衣装、化粧品パッケージなどの雑貨類、とデザインする対象物によって部署が分かれているけど、主力は元々社長が手がけていた建築だ。私は希望通り、建築デザイン課に配属されて――同じ課にヤツがいた。
『げ』
目が合った瞬間、思わずそう呟いた私を見る彼の目は、もう普通だった。視線を逸らして、無表情のまま。
何者なのよと思っていたら、皆の前での自己紹介で彼はこう言ったのだ。
『穂高優です。インターンでこちらにお邪魔していましたが、これからは社員としてよろしくお願いいたします』
(穂高!?)
思わず隣に立つ穂高を見上げた。課の人達も親しげに彼に話しかけている。そう言われてよくよく彼の顔を見てみると、皺を取った社長の顔ってこんな感じになりそうだと気が付いた。
(社長の息子……つまり御曹司!?)
道理でちょっとした手の仕草とか、何か違うと思っていた。セレブオーラのせいだったのか。
(だったら、尚更なんであんなに睨まれないといけないのよ。御曹司なんかと知り合う機会なんて、庶民の私にはなかったのに)
むむっと考え込む私の眉間に、とんと人差し指が突き刺さった。
『そんな皺寄せてたら、すぐ老けるぞ』
『ふけっ……ちょっと何……っ、と』
いけないいけない。次は私の自己紹介だ。こんなヤツに足を引っ張られてたまるもんですか!
きっと一瞬穂高を睨んだ私は、課中の注目を浴びながら、にっこりと笑って『三森香苗です。よろしくお願いいたします』と綺麗にお辞儀を決めたのだった。
それから五年。冬子に言わせると、私と穂高がやり合うのは、社内の風物詩になっているらしい。そんなの知らないわよ、向こうがちょっかい出してくるんだから! 私は正々堂々勝負を挑んでいるだけで、あえて近付こうとなんてしてないし!
(穂高目当ての女子達に、色々言われたこともあったなあ)
穂高と話す機会が何故か多い私は、嫉妬めいた悪口なんかもよく言われた。特に受付のお姉さん、あからさまな穂高狙いで色々言ってたんだけど――そういえば、最近見かけなくなったよね、彼女。他にも色々と言う人がいたけど、最近はぱったりいなくなった。
「喧嘩が多すぎて、これは違うって認めてもらったのかも?」
鬱陶しかったので、これはこれで良しとしよう。ぱんと両手で両頬を叩き、気合を入れ直した私は、負けるもんかと闘志を燃やしつつ、洗面所を後にした。そしてその後――課長から呼ばれたのだ。
「三森、穂高と組んでコンペに出ないか?」
――と。
***
「え、穂高と組むって……どういうことですか?」
MAX六人の小会議室。穂高と並んで長机についている私。その机を挟んで座った竹田課長が、ほれとバインダークリップで挟んだ資料をそれぞれに渡してきた。
「これ……」
資料を読み進めていくうちに、思わずごくりと唾を呑んでいた。今まで手がけたことのない公共事業。駅前の、古くなったビルや商店街の再開発案件だ。
「あの付近一帯にあるビルには、元々大手スーパーが入っていたんだ。だが、そのスーパーが事業不振で撤退してからはテナントも入らず、ほぼ空き状態。人が入らない建物は傷みも早い。耐震性が問題になり、市議会でビルは撤去、再開発が認可された」
「……新聞に載っていましたね。市で久々の大型案件だと」
資料を見る穂高の横顔は、至って冷静だ。
「建築会社はすでに入札で決まっているが、建物を含めた駅ロータリー周辺のデザインは別のコンペとなった。どうやら市民投票も実施するらしい。うちも何案かは出す予定だが」
「その一つを俺と三森で担当するということでしょうか?」
(あんたとペアだなんて、真っ平ゴメンよっ!)
咄嗟に口を開きかけた私だったけれど――右隣で穂高がじっと見ている資料のページが目に入った。
それは、今回取り壊しが決まっているビル付近の写真。薄ら汚れた灰色のコンクリートが年季を感じさせる。そのビルの谷間に小さな店が軒を並べる横町があるようだけど、そちらもシャッターが下りていたり、テナント募集中のポスターが入り口に貼られていたりする店が多い。
(ここを甦らせて、もう一度人が集う場所にする……)
個人住宅だけでなく、もっと大きな建築を手がけたいと思っていた私にとって、これはチャンスだ。ペアの相手が穂高だということは最高に気に入らないけど、仕事自体はやりがいがありそう、ううん、きっとある。だけど穂高だし、喧嘩ばっかりになるんじゃ。
「で? 三森はどうする? 俺はこの案件を手がけたい」
考え込んでいた私は、穂高の声で我に返る。きっと睨み付けると、彼はふっと自信ありげに口元を緩めた。
「自信がないのか? まあ、三森は大型案件のデザインなんて、まだ関わったことがないからな」
(自信がない!?)
カチンときた私は、思わず叫んでいた。
「何言ってるのよ! 私もやるに決まってるでしょうが!」
途端、穂高の笑みが深くなる。すっと竹田課長の方を向いた穂高は、更に笑みを深めてこう言った。
「課長、三森もこの通り、やる気ですので。この案件は俺達二人に任せてください」
「げ」
「おお、そうか!」
私の声は課長の声に重なり消えてしまう。
「いや~お前達、能力的に良いペアになると思っていたんだが、いかんせん喧嘩も多かったからなかなか勧められなくてなあ。互いの長所を生かして頑張ってほしい」
嬉しそうな竹田課長を前に――私にできたことは、ただ一つ。
「はい」
「……はい」
穂高の声にワンテンポ遅れて同意することだけだった。
***
会社の屋上はちょっとした広場になっていて、人工の小川が流れ、木陰ができるぐらいの木々も植わっている。今の季節は桜の花が満開だ。そこのベンチに冬子と二人、腰かけてのランチタイム。冬子は白のVネックセーターにデニムパンツ姿、私は白の長袖Tシャツにデニムパンツと、まるでお揃いのような格好だった。
天気も良く、この時間帯は暑くも寒くもない、ちょうどいい気温。だけど、なんだかもやっとする。
「凄いじゃない、香苗! 前から住宅以外のデザインもやりたいって言ってたものね。頑張りなさいよ!」
コンペに出ることにした、と冬子に言うと、彼女は私の肩をバンバン叩きながら笑った。
「うん、アリガトウ」
答える私の声はビミョーで、冬子は眉を顰めて私を見た。
「……なんで、そんなにテンション低いの? ……もしかして、原因は穂高?」
「……ううっ……穂高のこっちを馬鹿にしたみたいな笑みを見る度に殴りたくなるの、もう三日も我慢してるのよっ……!」
課長との会議後『ちょっと話がある』と穂高に腕を掴まれ、連れていかれたのは資料室。
『これとあれと……それからこれ』
ドサドサドサっと分厚いファイルが私の手に積まれた。
『お、もっ……』
『今回と類似した過去案件の資料だ。今週は今の仕事の調整、来週から作業を開始するから、それまでに確認しておけよ』
じゃ、と右手を軽く挙げた穂高は、私に背を向けて歩き出した。
『ちょっと、穂高!』
私が思わず声を上げると、振り返った彼はふん、と鼻で嗤った。
『これくらい、三森なら読みこなせるだろ? 曲がりなりにも、俺のライバルを名乗るなら』
『当ったり前じゃない! これくらいどーってことないわよっ!』
カチンときて、ついつい言い返してしまった私を見る穂高の目は……絶対笑ってた。
『お前と組むの、楽しみにしてる。失望させるなよ、ライバルさん?』
そう言ったヤツの顔は……それはそれは良い笑顔だった……
――あんなの、大したことない。
――何言ってるのよ! あのデザインの素晴らしさがわからないの!? 斜面を生かした半地下の寝室も、全面ガラス張りで海が見渡せる広いリビングも、斬新なのにとても落ち着ける雰囲気で、素敵だったわ! あんなデザインができるなんて、素晴らしい才能よ!
――あんなに素敵な作品を生み出したのだから、素敵な恋だったに違いないでしょ! そりゃ叶わなかったのかもしれないけど、それでもこんなに人を感動させる力があるんだから!
――世界中の誰もが否定しても、私が肯定するわよ! あなたの恋は素晴らしかったって!
……そう言った時。その人はなんて答えたのだろう――
ぼんやりとした記憶の中、熱くて滑らかなものに包まれて、どきどきして、気持ち良くて……痛かった、気がした。
***
「……ん……」
微かに水音が聞こえる。ぼうっとしながら重いまぶたを開けると、見覚えのない白い天井が目に入ってきた。
「え……? ここどこ……っ!?」
起き上がろうとした途端、鈍い痛みが身体の奥に走る。え、どうして? と思いつつ上掛けをめくると――
「っ!!!!!!」
(はっ、ははははは裸っ!?)
何も着ていない。しかも、胸の膨らみや太腿に赤い痕が付いている。下腹部が重だるくて、鈍く痛い。
(これって! これって! まさかっ!?)
さあああっと血の気が引く。どう見ても……事後だ。
シャアアア……
(っ! シャワーの音!?)
慌てて辺りを見回すと、ここは大きなダブルベッドがある室内で、音は白いドアの向こうから聞こえてきているようだ。床には、あちらこちらに洋服が散らばっている。自分が着ていたリクルートスーツに交ざった……男物のスラックス。
(あああああああ!)
――その時の私の頭には、「とにかく逃げよう!」としか思い浮かばなかった。大急ぎで服をかき集めて身に着け、服と同じく床に転がっていた肩掛けバッグを拾って、誰かがシャワーを止める前に部屋から飛び出した。
綺麗なホテルのロビーから最寄りの駅まで、全速力で走り抜けた。改札口の前でようやく立ち止まり、はあはあと荒い息を吐く。
「一体……何があったの?????」
何も、覚えてない。でも、肌に残った痕と身体の痛みからして、絶対……ヤッテシマッタ、と思う。
(誰と!? だって、昨日は!)
住宅会社数社が合同で企画した、由緒ある住宅デザイン賞の結果発表日。学生でも応募できたから、何度も練り直したデザインを持ち込み、どきどきしながら発表を待った。発表会場であるホテルの大広間は立ち見する人で溢れていて、小柄な私は前がよく見えなかった。なので、広間のすぐ隣の会議室でも授賞式の映像が見られると聞き、そちらに移動して確認したのだ。会議室のモニターに映された大賞作品は――私のじゃなかった。
――でも、その作品は、本当に素晴らしくて……一目で惚れ込んでしまった。チーム名で呼ばれて前に出た受賞者は背の高い男の人だったけど、その瞬間モニターがおかしくなり、映像が乱れてよく見えなくなった。直接見ようと大広間に移動したけれど、やっぱり満員の人でなかなか会場に入れず、そうこうしているうちに授賞式は終わってしまい、結局彼が誰だったのかはわからないまま。
その後開かれた交流会で会えるかも、と参加して、見たことない洋酒を飲んでみたら意外に美味しくて、つい飲みすぎてしまって――
「……以後、記憶がない……」
がっくりと肩を落とす。ああなっていたってことは、相手は授賞式の参加者である可能性が高いけれど、デザイン会社の社員も出ていたし、スタッフとして参加した学生や一般の聴講者もいたし……知り合いなんて一人もいなかったのに、一体誰とどうなってあんなことに。
「あああああ」
何も思い出せない。誰かと言い合っていたような記憶の欠片しか、自分の中には残っていない。
「初めてだっていうのに……覚えてないなんて……」
酔っ払って初体験して、しかも忘れるなんて、サイアク。こんなの、誰にも言えるわけない。
「とにかく……産婦人科に行かないと」
鈍い痛みはあるけれど、身体の状態からすると、ちゃんと避妊はしてくれていた……と思う。だけど、念のため受診した方がいいよね。
はああああ、と重い溜息をついた私は、スマホで病院を検索した後、これまた重い身体を引き摺って、改札口の中に入っていったのだった。
1 御曹司だからと、容赦しません!
「……今回は穂高のデザインで行こう。緩やかな曲線メインのフォルムが、クライアントもお気に召したようだ。社長以下、役員の評判も非常に良かったぞ」
「ありがとうございます、竹田課長」
(また! 負けた……っ!)
人知れず拳を握り締めた私、三森香苗の目の前で、爽やかな笑顔と共に課長と向き合う男。
身長百五十三センチの私より、余裕で頭一つ分以上背が高いヤツは、茶髪がかった明るい髪に、少し栗色の混ざった不思議な瞳をしていて、鼻筋高く整った顔付きはまるで王子様のようだと社内で評判だ。肩幅も広く、ライトグレーのスーツを着ていても鍛えられた身体がわかる。こちらからは顔が見えないけれど、きっと自慢げな表情をしているに違いない――!
(あいつの背中が私の熱視線で、焦げ焦げに焦げたらいいのにっ……!)
「また穂高だったわねえ。残念ね、香苗」
「冬子」
後ろを振り向くと、ひょいと穂高の方に顔を向ける九条冬子がいた。私より背が高い彼女は艶やかでストレートな黒髪のスレンダー美人で、『モデルの方が向いているんじゃないか』なんて言われていたりする。今もソフトデニムのパンツを、格好良く着こなしていた。
「しっかし、香苗って懲りないわよねえ。いい加減、穂高に突っかかるの、やめたら?」
「なんでよ?」
冬子が横目で穂高を見る。私も釣られて、まだ課長と話している彼を見た。
HODAKA DESIGN COMPANYは、個人住宅を始め、学校や公園などの公共施設、高層ビルのデザインも手がける一流デザイン会社だ。ここ十年は建築以外の分野にも幅を広げている、成長企業の一つ。社長の穂高実は、アジアスポーツ大会が日本で開催された時、メイン会場となった陸上競技場をデザインして有名になった。
……そして穂高優は、私の同期にして社長令息。そう、御曹司ってやつだ。身に着けている時計も靴も高そうだし、スーツだってオーダーメイドだろうし、背が高くて顔が良くて金持ちで……と来た上に、デザイナーとしての才能まで持っている。もの凄く癪だけど、ヤツの才能は本物だ。本当に癪だけど。
(まだ一度も勝てないなんてっ)
今回の案件は、古くなった体育館のリノベーション。今のところ個人住宅しか手がけていない私だけど、思い切って社内コンペに参加してみた。そしたら、何故だか穂高まで参加してきて……結果はご覧の通りだ。
課長と話し終わった穂高がこちらを見た。ふっと口元を歪めて笑うその顔が、非常に小憎たらしい。
「残念だったな、三森。まためげずに参加すればいい」
穂高の視線が私の頭のてっぺんから、足元まで移動する。どうせ私が着ているのは、量販店の桜色セーターに、これまた量販店の白いパンツだよ。
わざわざ目の前に立って、じろじろ見なくてもいいじゃない。私はジト目で彼を見上げる。愛想笑いなんて、してやらないから。
「今度こそ、あんたに勝ってやるんだから! 首洗って待ってなさい、穂高!」
「ああ、楽しみにしてる」
私に向けたにやりとした笑みが、冬子に視線を移した途端、にっこりに変わる。
「九条さんの試みも面白いよね。車関連のデザインはうちも手がけたことがないし、いい経験になると思う」
冬子もにっこりと上品な笑みを返す。
「ありがとう、穂高くん。すぐ売上に結びつかない企画を通してくれた社長に感謝してるわ……あなたにもね」
車大好きで、真っ赤なスポーツカーを乗り回す冬子は、自動車メーカーとコラボして『車内をラグジュアリーな空間に』『いつまでも乗っていたくなる快適な空間』という案件を始めたばかりだ。初の試みだから予算枠は少ないけれど、社長は可能性を認めてくれた――らしい。
(この企画を聞いた時、凄く面白いって思って、冬子とあーだこーだ詰めてたら、穂高が)
……そう。社長にこの企画を紹介してくれたのは、目の前にいるこの男。あっという間に社長や専務(穂高の叔父だ)も巻き込んで、冬子のアイデアを実現可能な案件にまで引っ張り上げたのだ。
こういう時、穂高との格差を感じる。私には、『こうしたら?』ぐらいの案出しや資料作成の手伝いしかできない。でも穂高は、それ以上のことができる。
もやもやと考え事をしていた私の左頬に、ひやりとした何かが触れた。
「三森」
「ふぎゃっ!?」
むにっと頬を引っ張られた私は、思わず変な声を出す。「猫みたいだな、お前」と言った穂高が、人差し指で私の目の下を擦る。
「目の下の隈。また残業してるんだろ。肌の張りもないし、とっとと帰って寝た方がいいんじゃないか? 成長しないぞ」
大きな手をぱっと右手で払い、思い切り背伸びして彼の顔に顔を近づける。
「お・お・き・な・お・せ・わ。大体、もう成長期は過ぎてるわよっ、入社五年目の中堅どころなんだから」
彫りの深い、俳優のような美貌の穂高に、肌ツヤのことを指摘されても、嫌みにしか聞こえない。しかも、私のことチビだって遠回しに言ってるし!
ふん、と鼻息を荒くした私を見下ろす穂高の目が、すっと細くなる。
「……ったく、いつまで経っても」
ぽそっと穂高が呟いた声は、よく聞こえなかった。眉を顰めた穂高はぽんと私の頭の上に右手を置いたかと思うと、そのままくしゃりと髪を乱した。
「俺のライバルだって言うなら、体調管理も怠るな。ヘロヘロのお前に勝ったって、なんの意味もない」
じゃ、と踵を返したヤツは、さっさとその場を去っていく。乱れた頭を「もう!」と文句を言いながら直していた私は、冬子が意味深に私と穂高を見て「本当、あんた達って厄介よねえ……」とこぼしていたことなんて、気が付いていなかった。
***
――艶のある黒髪の、丸みを帯びたボブカット。オン眉の前髪に、丸い目。高くも低くもない鼻に、血行のいい唇。
(……うん、普通)
化粧室の鏡に映る自分の姿は、本当に『普通』だった。穂高に触られた辺りの肌を触ってみると、やっぱりちょっと……潤いが足りない気がした。
(でも目の下の隈って、そんなに目立たないじゃない。穂高って気が付きすぎなんじゃないの!?)
残業して疲れたな~と思っていると、何故か穂高のチェックが入るのだ。自分だって残業するくせに、あの涼しげな外見が崩れることはなかった。悔しい。
「冬子には親切で優しい貴公子面してるくせに」
さっきだって、私に向けた顔と冬子に向けた顔、全然違ったわよね。なんなの、あの憎たらしい笑い方は。
(大体、穂高って初めっから、私には感じ悪かったわ)
……憧れのこのデザイン会社に就職できて、意気揚々と入社式に参加した私は、そこで穂高と出会った。
「あの頃から穂高ってイケメンだったよね……黙っていれば」
社長の挨拶を最後に入社式が終わると、座っていた新入社員それぞれが席を立ち、あちらこちらで会話の花が咲く。皆やる気溢れる表情を浮かべる中、涼しげな笑みが妙に目立つ男がいた。
すらりと背の高い彼は、特に女性からの注目を浴びていた。明るいグレーのビジネススーツを着てそこに立っているだけなのに、他の同期達とは何かが違うのだ。集団の中心になりながらも、さり気なく周囲に会話を振っている。目をハートマークにした同期女子が、わらわらと集まっていた。
(あんな人、この世に存在するんだ……イメージモデルにして部屋のデザインしてみたいかも)
五メートルほど離れた位置で、横顔や肩から腕のラインをほうほうと観察していた私と、彼の視線がぶつかる。
――その途端。すっと彼の顔から表情が抜け落ちた。私を見る瞳がぎらりと光る。
(えっ?)
なんだろうと首を傾げると、見る見るうちに彼の眼が三角に吊り上がっていく。さっきまでの笑顔はどこへやら、薄い唇がぎゅっと結ばれている。
(何、あの男!? なんで私のこと、睨んでるの!? 会ったことないんだけど!?)
なんなの、私が親の敵みたいな表情してっ!?
むっときた私も睨み返すと、バチバチと火花が散る音が聞こえた気がした。
『ねえ、あの人と知り合い?』
彼の隣にいた女性が話しかけると、男は瞬きをして――元のにこやかな顔に戻る。
『知り合いに似てたんだ。別人だったよ』
ふいと私に背を向けた彼に、何故かカチンときた私も、ふんと鼻息荒く踵を返して立ち去ったのだった。
「……で、まさか同じ部署に配属になるなんて、思ってなかったよね……」
デザイン部は、建築、衣装、化粧品パッケージなどの雑貨類、とデザインする対象物によって部署が分かれているけど、主力は元々社長が手がけていた建築だ。私は希望通り、建築デザイン課に配属されて――同じ課にヤツがいた。
『げ』
目が合った瞬間、思わずそう呟いた私を見る彼の目は、もう普通だった。視線を逸らして、無表情のまま。
何者なのよと思っていたら、皆の前での自己紹介で彼はこう言ったのだ。
『穂高優です。インターンでこちらにお邪魔していましたが、これからは社員としてよろしくお願いいたします』
(穂高!?)
思わず隣に立つ穂高を見上げた。課の人達も親しげに彼に話しかけている。そう言われてよくよく彼の顔を見てみると、皺を取った社長の顔ってこんな感じになりそうだと気が付いた。
(社長の息子……つまり御曹司!?)
道理でちょっとした手の仕草とか、何か違うと思っていた。セレブオーラのせいだったのか。
(だったら、尚更なんであんなに睨まれないといけないのよ。御曹司なんかと知り合う機会なんて、庶民の私にはなかったのに)
むむっと考え込む私の眉間に、とんと人差し指が突き刺さった。
『そんな皺寄せてたら、すぐ老けるぞ』
『ふけっ……ちょっと何……っ、と』
いけないいけない。次は私の自己紹介だ。こんなヤツに足を引っ張られてたまるもんですか!
きっと一瞬穂高を睨んだ私は、課中の注目を浴びながら、にっこりと笑って『三森香苗です。よろしくお願いいたします』と綺麗にお辞儀を決めたのだった。
それから五年。冬子に言わせると、私と穂高がやり合うのは、社内の風物詩になっているらしい。そんなの知らないわよ、向こうがちょっかい出してくるんだから! 私は正々堂々勝負を挑んでいるだけで、あえて近付こうとなんてしてないし!
(穂高目当ての女子達に、色々言われたこともあったなあ)
穂高と話す機会が何故か多い私は、嫉妬めいた悪口なんかもよく言われた。特に受付のお姉さん、あからさまな穂高狙いで色々言ってたんだけど――そういえば、最近見かけなくなったよね、彼女。他にも色々と言う人がいたけど、最近はぱったりいなくなった。
「喧嘩が多すぎて、これは違うって認めてもらったのかも?」
鬱陶しかったので、これはこれで良しとしよう。ぱんと両手で両頬を叩き、気合を入れ直した私は、負けるもんかと闘志を燃やしつつ、洗面所を後にした。そしてその後――課長から呼ばれたのだ。
「三森、穂高と組んでコンペに出ないか?」
――と。
***
「え、穂高と組むって……どういうことですか?」
MAX六人の小会議室。穂高と並んで長机についている私。その机を挟んで座った竹田課長が、ほれとバインダークリップで挟んだ資料をそれぞれに渡してきた。
「これ……」
資料を読み進めていくうちに、思わずごくりと唾を呑んでいた。今まで手がけたことのない公共事業。駅前の、古くなったビルや商店街の再開発案件だ。
「あの付近一帯にあるビルには、元々大手スーパーが入っていたんだ。だが、そのスーパーが事業不振で撤退してからはテナントも入らず、ほぼ空き状態。人が入らない建物は傷みも早い。耐震性が問題になり、市議会でビルは撤去、再開発が認可された」
「……新聞に載っていましたね。市で久々の大型案件だと」
資料を見る穂高の横顔は、至って冷静だ。
「建築会社はすでに入札で決まっているが、建物を含めた駅ロータリー周辺のデザインは別のコンペとなった。どうやら市民投票も実施するらしい。うちも何案かは出す予定だが」
「その一つを俺と三森で担当するということでしょうか?」
(あんたとペアだなんて、真っ平ゴメンよっ!)
咄嗟に口を開きかけた私だったけれど――右隣で穂高がじっと見ている資料のページが目に入った。
それは、今回取り壊しが決まっているビル付近の写真。薄ら汚れた灰色のコンクリートが年季を感じさせる。そのビルの谷間に小さな店が軒を並べる横町があるようだけど、そちらもシャッターが下りていたり、テナント募集中のポスターが入り口に貼られていたりする店が多い。
(ここを甦らせて、もう一度人が集う場所にする……)
個人住宅だけでなく、もっと大きな建築を手がけたいと思っていた私にとって、これはチャンスだ。ペアの相手が穂高だということは最高に気に入らないけど、仕事自体はやりがいがありそう、ううん、きっとある。だけど穂高だし、喧嘩ばっかりになるんじゃ。
「で? 三森はどうする? 俺はこの案件を手がけたい」
考え込んでいた私は、穂高の声で我に返る。きっと睨み付けると、彼はふっと自信ありげに口元を緩めた。
「自信がないのか? まあ、三森は大型案件のデザインなんて、まだ関わったことがないからな」
(自信がない!?)
カチンときた私は、思わず叫んでいた。
「何言ってるのよ! 私もやるに決まってるでしょうが!」
途端、穂高の笑みが深くなる。すっと竹田課長の方を向いた穂高は、更に笑みを深めてこう言った。
「課長、三森もこの通り、やる気ですので。この案件は俺達二人に任せてください」
「げ」
「おお、そうか!」
私の声は課長の声に重なり消えてしまう。
「いや~お前達、能力的に良いペアになると思っていたんだが、いかんせん喧嘩も多かったからなかなか勧められなくてなあ。互いの長所を生かして頑張ってほしい」
嬉しそうな竹田課長を前に――私にできたことは、ただ一つ。
「はい」
「……はい」
穂高の声にワンテンポ遅れて同意することだけだった。
***
会社の屋上はちょっとした広場になっていて、人工の小川が流れ、木陰ができるぐらいの木々も植わっている。今の季節は桜の花が満開だ。そこのベンチに冬子と二人、腰かけてのランチタイム。冬子は白のVネックセーターにデニムパンツ姿、私は白の長袖Tシャツにデニムパンツと、まるでお揃いのような格好だった。
天気も良く、この時間帯は暑くも寒くもない、ちょうどいい気温。だけど、なんだかもやっとする。
「凄いじゃない、香苗! 前から住宅以外のデザインもやりたいって言ってたものね。頑張りなさいよ!」
コンペに出ることにした、と冬子に言うと、彼女は私の肩をバンバン叩きながら笑った。
「うん、アリガトウ」
答える私の声はビミョーで、冬子は眉を顰めて私を見た。
「……なんで、そんなにテンション低いの? ……もしかして、原因は穂高?」
「……ううっ……穂高のこっちを馬鹿にしたみたいな笑みを見る度に殴りたくなるの、もう三日も我慢してるのよっ……!」
課長との会議後『ちょっと話がある』と穂高に腕を掴まれ、連れていかれたのは資料室。
『これとあれと……それからこれ』
ドサドサドサっと分厚いファイルが私の手に積まれた。
『お、もっ……』
『今回と類似した過去案件の資料だ。今週は今の仕事の調整、来週から作業を開始するから、それまでに確認しておけよ』
じゃ、と右手を軽く挙げた穂高は、私に背を向けて歩き出した。
『ちょっと、穂高!』
私が思わず声を上げると、振り返った彼はふん、と鼻で嗤った。
『これくらい、三森なら読みこなせるだろ? 曲がりなりにも、俺のライバルを名乗るなら』
『当ったり前じゃない! これくらいどーってことないわよっ!』
カチンときて、ついつい言い返してしまった私を見る穂高の目は……絶対笑ってた。
『お前と組むの、楽しみにしてる。失望させるなよ、ライバルさん?』
そう言ったヤツの顔は……それはそれは良い笑顔だった……
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