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第一章 十年後の七月

第五話 予感

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 顎がとれるほど性器を咥えさせられた福山が帰宅したのは日付が変わる手前だった。

1LDKの部屋は荒れている。掃除などする暇はない。床には参考書やプリントが散乱している。キッチンにはコップだけ、昨日は弁当で済ませた。今日は食べる気が起きない。

「気持ち悪い……」

汚れた精液だけが注がれた胃袋を押さえつける。途端に嘔吐したくなったが、あの白い液体がもう一度喉を通るのが苦痛で、水をコップに注がず、水道から直で流し込んで蓋をした。
昼の暑さを残したままの水道水は生温く、結局シンクに吐いてしまった。
吐瀉物は視界に入れず、排水口に消す。
手の甲で口を拭い、タオルを探すがなかった。仕方なくポケットを濡らしながら一日の皺がついたハンカチを出す。

——カサッ

「ん? ああ、宇野の連絡先か」

床に落下したメモ用紙を拾い上げる。右上がりの独特な字は綺麗とは言い難い。だが手書き特有の気持ちが籠った線の集まりに、気が付けばスマートフォンを手にしていた。

春の大会で本部席に飛んできたサッカーボールが当たり、画面の液晶にはヒビが入っている。まだ反応し、買い替える時間もとれない為、現役で頑張ってもらっている。
まるで自分を労わる様にヒビに指を這わせた後、メモ用紙の番号に電話をかけた。

ワン切りでいいかとも思ったが、ワンコールめで宇野は出た。

『はい』

仕事の声だろうか。昼間の宇野からは想像もできない低さに胸が騒ぐ。

「あっ、俺。福山だ」
『せんせー!』

急に声のテンションが上がる。
電話口では10年前の教室の風景が広がっているようで胸がつっかえる。

「今日はありがとうな」
『俺、どうでした?』
「上手に自転車に乗っていたな」

宇野は自転車講習で、危険運転の実演をしていた。

『そりゃ乗れますよ!』

心が穏やかになる。卒業しているとはいえ、やはり教え子の声と言うのは福山を背伸びさせてくれる。

「元気そうで良かったよ」
『先生も!』

それを聞いてあの3人が揃った状態でも自分が普通にできていたのだと安堵する。

『そういえば辻本先生まだいるんですね』
「一度転勤になったよ。今年戻ってきたんだ」
『先生は?』
「俺はまだ一度も転勤はしてないな。もう10年務めているから今年はなるかな?」
『ええー、先生がいなくなるの寂しいですよお……ふあ』

寂しそうな声が間延びする。

「眠いのか?」
『少しだけ。先生も遅くまでお疲れ様です』
「警察官の方が大変だろ」
『でもやりがいがあるから苦じゃないです。成ってよかった。先生、本当にありがとうございました』

何がありがとうなのかは聞かない。
進路指導の事か? それともあの事件の事か?
福山は聞かずに逃げた。

「他のやつらには会っているのか?」
『忙しいからほとんど会っていません。でも、同窓会の話が出てたから会うかも。先生は? 来ないんですか?』
「そんな話は聞いてない」
『まだあまり計画進んでないんですかね。先生も呼ぶって言っていたから、絶対に来てくださいね! その時、また会いたいです! それか本当に飲みに行きましょうよ!』
「そのうちな」

 学生時代の思い出に触れる前に電話を切ってしまいたかった。宇野も宇野で睡魔の限界が来たようで最後は消え入りそうな声で挨拶をして電話は何事もなく終わった。

「同窓会か……」

楽しみでもある。だが、宇野に会うのは怖い。あの時の事を思い出したくはない。

鬩ぎ合う葛藤。それも最後には宇野同様に睡魔に負け、福山は眠りに落ちた。

 浅い眠りは福山を夢の淵に誘う。

起きた時、内容は覚えていなかったが、何処かの駐輪場でバイクの陰に隠れて誰かと身体を重ねている夢だった気がする。相手の顔は分からない。視界には灰色がかった更半紙がチラついていた。

 でも、もう覚えていない。


◇         ◇         ◇

 それからしばらくして。
宇野の言う通り同窓会の話が舞い込んできた。既に夏休みに入り、生徒がほとんどいない校舎の廊下で、教え子の声に耳を傾ける。相手は学級委員長をしていた生徒。彼から連絡を貰い日時を確認する。

「8月……夏休み中か」
『それなら先生も来れるんじゃないかなって』

優しい生徒たちの気遣いに心が弾む。

「分かった。どうにか時間を作るよ」
『よろしくお願いします!』
「また連絡するわ」

宇野と連絡した時に危惧していた事など忘れ、軽率に約束をしてしまう。真面目な性格上、福山は意地でも時間を作る。
もう少し適当な性格ならば、断っていただろうし、辻本の件も10年も続いていなかっただろう。

性格だけはどうにもならない。
未来ある生徒たちの心を変えようと躍起になる教師の考えとしては矛盾している。

(そもそも、教師なのに恋人でもない男とやってる時点で……)

とことん消極的な思考が脳内を埋め尽くす。

「いかんな。仕事、仕事……」

職員室へと戻る。
そして夏期課外に向けた受験対策プリント作業を始めた。

「初日は頭の体操がてら連立方程式でも解かすか」

参考書を何冊かデスクの本棚から抜き取りページをめくる。軽やかに動く右手の腕時計に視線を落とす。

「あと2時間か……」

あと2時間で昼だ。
今日は午後の練習の為、あと2時間で作り終えなければならない。スケジュールを脳内で簡単に組み立てながらも手は止めない。
週末はいよいよ夏の大会だ。気が抜けない。だが受験生の指導もある。

「今年も熱い夏になるな」

教師としてはこれほど有難くやりがいのある夏はない。


——だが、今年の夏、福山に更なる試練が振りかかる。

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