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第十一章 松田要とラストプレー

第六話 キックオフ

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 要は久しぶりの海外に多少の不安を覚えていた。現地の料理で腹を壊した友人を何人か知っているし、ついた瞬間風邪をひいてダウンした人も知っている。悩んだ挙句セキュリティゲートを越える土壇場でやはり何か買っておこうと、売店の薬コーナーへ向かった。整腸剤か頭痛薬くらいはあった方がいいだろうかと薬が並ぶ商品棚の前で悩む。

「かな、め……」

急に仁の声が聞こえ、自分に呆れる。出発の連絡をしたくなくて、空港へ着いた瞬間、スマートフォンは電源ごと落とした。本当は連絡したい衝動からくるものかと思ってしまう。

(幻聴か?)

先程門司支社ですれ違ったせいもあるかもしれない。それとも疲れからかだろうかと栄養剤に手を伸ばしかける。こうやって手を伸ばせば届く距離にいたのに、遠くの存在で、簡単な挨拶をするだけで精一杯だった。まだ自分には仁を迎えに行く資格はない、そう言い聞かせてどうにか堪えた。

「要」

(またか)

栄養剤は取らずに結局頭痛薬をとる。それと同時にジャケットが突っ張り、先ほどの幻聴が脳内で鮮明に繰り返される。

(まさか?!)

「えっ?! はっ?! お前、なんで?!」

幻聴ではなかった。振り向きざま、視界の隅にその人物が入った瞬間、手にしていた頭痛薬を落としてしまう。それを拾うこともできずに、ただただ頬を紅潮させて肩で息をする仁から目が離せなかった。

(何でお前がここに?!)

あまりにも驚きすぎて声が出ない。喉に何かが詰まっているようなそんな感じで頭だけを必死に回転させた。落ち着けと言い聞かせ、ようやく口を開いたが、声は発することはなく、再び言葉を失った。

──仁の瞳から雫が落ちたからだ。

 透明な雫はゆっくりと伝い、白く綺麗な肌に線を描いていく。ただの塩辛い液体なのに、それを落としてはいけないと思い、自然と指で拭っていた。熱い頬に、本来の体温を教えてくれる雫の温もり、知っている温度なのに初めて触れる気がした。
 本当はあの新幹線のホームに見送りに来た時もこうやって泣いていたのではないか。やっとこういう所も見せてくれるようになったんだなと浸っていたが、そんな彼のそばに自分はいられないと悲観的な気持ちになっていたら……

「要、俺と結婚しよ」

いきなり現れたことよりも何倍も大きな爆弾を落としてきた。
今まで1度も要に「好き」とも言ったことがない仁のとんでもない発言に要は幻聴だけでなく幻覚まで見え始めたと目眩がした。
そのせいで、プロポーズの返事としては最低な言葉を口走ってしまう。

「あの……佐久間仁さんご本人ですよね?」

到底仁の口から出ない言葉に驚きすぎて、ムードをぶち壊すように本人確認をしてしまった。

「他に要にこんな事言う人いないでしょ」

(あっ、やっぱり仁だ)

その受け答えの仕方に本人であるときちんと理解した。しかし、それなら尚の事、先ほどのセリフには相当な違和感がある。

「えっと……」

 泳ぐ要の瞳に仁が焦りだす。

「ち、ちがう! いや、違くない!! えっと、その…そうじゃなくて。」
 「結婚って……言ったよな? 聞き間違いじゃねーよな? でもそれって……」
「分かってるよ! 実際にはできないことは!! まだそんなに長い期間付き合ってもないし!」
「期間とかは関係ないと思うけどな」
「いやだから……期間も関係なくて……ていうか、そうじゃなくて…その…」

別にできるできないの問題を聞いている訳では無いのに顔を真っ赤にしながらワタワタと弁明する仁。
腕で口元を抑えている。腕の下は真っ赤だ。そこからぼそぼそと

「それくらい一緒にいたいってこと」

と漏らす。
要は、きちんと聞き取れず、目をぱちくりとさせる。それを見て仁は、今度は顔を上げてはっきりと

「要と一緒にいたい。これからもずっと。それくらい愛してる」

と告げた。
仁からの告白に要はようやく現実に追いつき両手で顔を覆う。
「結婚」という単語の幸福の指数の大きさを身体全体で感じる。底から、芯から、桃色の綿あめのようなものが体内を隙間なく埋め、身体が浮いてしまいそうだった。

「もーなんなの、お前」
「う、うるさい!!!」

つまり……

「プロポーズされたのかよ……俺……」

顔を抑えて柄にもなく照れ、両手の中はすごく熱い。
いつかこういうことを言う時が来たとしても、要はそれを口にするのは自分からだと勝手に思い込んでいた。 
好きを通り越して、要に大打撃を与えた仁は、幸せに悶える要を不安げに見つめる。

「ねぇ……」

仁がジャケットをつんつんと引っ張り、要は顔を覆っていた指の隙間から仁を覗く。

「ん?」
「へ、返事は?」

まさか答えがNOだとでも思っているのだろうか。

(ほんと、可愛いんだよな……)

商品を棚に戻し、棚の影に仁を引き寄せる。そして耳元に唇を持っていく。

答えは一つしかない。

心に溢れる温かな、そしてくすぐったい様な気持ちを込めて

「……喜んでお受け致します」

と、返事をする。
髪の毛が逆立つほど嬉しくなった仁だったが、要と目が合うと、いつものポーカーフェイスを気取る。

「じゃ、それだけだから」

そう言って、踵を返そうとする仁の腕を要が掴む。

「待てよ」
「……」
「まだフライトまで時間あるから、もう少し一緒にいよう」
「……うん」

視線を合わさずに返事をした後、少し売店から離れた場所で待ってくれている仁。要が買い物を済ませ駆け寄った時には、さっきの告白などまるで無かったかのように腕を組んで待っていた。ただとても柔らかな表情をしている。二人で 人気の少ない壁際の方へ行き、並んでもたれかかる。

「それにしても驚いた」

まだ夢の中にでもいる気分だ。

「要ほどじゃないよ」
「そうか?」
「君、今まで自分が言ってきた覚えてる?」
「俺なんか言ったっけ?」
 「一発やらせてとか、セフレになろうとか……」
「あったな、そんなことも」
 「あとセフレなのに……好き……とか」

仁の声が中盤で少し小さくなったが、はっきりと聞き取れた二文字が二人の始まりだった。あの言葉を言わなければ、きっとまだセックスフレンドで、今日を迎えることは出来なかっただろう。それこそ永遠の別れになっていたかもしれない。

「しかもやってる最中に」 
「すんません」

(最悪じゃねえか、俺)

「なぁ、仁」
「何?」
「あの柴犬のお巡りさんは?」
「変なあだ名つけないの! ……柴とは別れたよ」

仁の性格上、けりもつけずに来るとは思っていなかったが要は不安だった。もしかすると近くにいるのではとキョロキョロしてしまったほどだ。

「そっか」
「ごめんね、他の人と付き合って」
「いいよ、だってそのお陰で結婚出来たわけだし」
「もー、忘れてよ!」
「忘れねぇよ」
「忘れて! それに最適な言葉がなかったからそう言っただけじゃん!」
「じゃ、結婚しない?」
「する。って、そうじゃなくて!」
「はいはい」
「……でも、しばらく遠くに行っちゃうんだね」
「そうだな」

仁はセキュリティゲートの方を悲しげな表情で見つめる。

「アメリカ……頑張ってね。日本に帰国する時は連絡してよ。逢いに行くから」
「ん? アメリカ?」
「俺も逢いに行くからアメリカまで」
「アメリカ……ああ、俺行かねぇぞ!」
「はっ?」
「いや、だからアメリカ行かねぇって!」

今度は仁が驚く番だった。


◇           ◇              ◇


「俺の勝ちだジョシュア」

 心配するような英語が聞こえるスマートフォンを本人に返す。
嘘くさい微笑みの攻防を繰り返し、要が退職という最後の切り札を出しても、ヴェネットは微笑んでいた。
しかし、その微笑みはすぐに崩れスマートフォンの通話を重たく切断した。

「はぁ……分かった」

自分に言い聞かせるようにもう一度「分かったよ、俺の負けだ」と、本当に負けを認め、 両手を上にあげ降参ポーズをとる。

「やられたな」
「へへへ、やっぱり俺の勝ちだな」

細く微笑む要を前に、上げられた腕が力なく下がる。

「そこまでして帰りたいのかい?」
「ああ。悪いな」
「やられたよ。まっ、そういうとんでもない所がまたいいのだけどね。それを弊社に活かして欲しかったよ」

訴えかける様にこちらを見てくるが、それで決意が変わるほど生ぬるい気持ちで辞表を出したつもりはない。あの紙切れ一枚で、元上司が悲しみ、会社は人材を失い、そして自分は生活基盤を失うことは分かっている。それでも得られるたった一つの者のためにもここは譲れない。

「お前だけじゃなくて、この日本支社にも迷惑かけることになったことについては反省している」
「けど、帰るだろ?」
「あたり前だろ」

感極まったアメリカ人から乾いた拍手を送られる。

「そこまで意思が硬いならもう俺は諦める。だが、君は門司支社にとってなくてはならない存在だ。そこは俺も重々承知している。俺の一存で勝手に出向させた挙句、退職にまで追い込んだとなると、今後の会社どうしの関係も悪くなりかねない」
「門司支社とそっちの会社はコンテナ共有してるだけだろ? それだけなら……」
「コストは1ドルでも安くなるに越したことはないよ」

ニヤリと笑う彼は、経営者の顔をしていた。

「約束しよう、必ず君を門司支社に戻す……が、しかし、条件がある」
「なんだよ」
「まず、この話の存在は記憶から消しておいてくれ。日本人ひとり捕まえられなかったとなれば俺の汚点だ。君が少しでも漏らせば即アメリカに連れていく」
「言っとくけど、もう部長達は知ってたぞ?」
「そこはどうにか口止めしておくさ。それと……」
「まだあるのかよ」
「要、先日インドの会社と契約したよね? 実はインド市場と契約が成立したのは今回が初めてだ。そこでだ、これを機にインドへも市場を拡大していこうと思っている。それに一役かってくれ。それが上手く行けば門司支社へ戻そう」

なぜ、最後の最後までこうも偉そうなのかと要は感心してしまう。それにこの期に及んで、まだ利益のために動こうとしているあたりやはりこの男の大物さがしれる。転んでもただでは起きないようだ。

しかし、それで確実に戻れるなら選択肢は一つしかない。

「分かった。主にどんなことをしたらいい?」
「OK.とりあえず市場調査かな。そのあと契約先の工場探しに……」
「市場調査からってことは、本当に一からかよ」

どれほどかかることか。市場調査や契約先を探すだけでも相当な時間が必要だ。

「市場調査ついでに工場の見学も一緒にやって来てよ! そして報告書提出! その後は引き継ぎで回してもらって構わないよ。4月に復帰したいなら急がないとね」
「ってことは……」
「週末からインドに出張よろしく」

さっきまで焦りを見せていた人間とは思えないほどのにこやかな笑顔に、結局最後は持っていかれたと悔しくなる。

「お前の勝ちじゃねぇか」
「引き分けということにしておこう。君にもメリットはある。十分だろ?」
「本当に、何もかも急な男だな」
「君の辞表提出の速さに比べたらどうってことない」
「残念だったな。いいぜ、その話受けるよ」

眉を下げて「複雑だな」と残念そうな顔をするヴェネットだったが、その目はもう遠くのインドを見ていた。

「交渉成立だ。本当は入社の契約書にサインさせるはずだったのにね」
「紙の無駄遣いさせちまったな」
「その通りだ。では、俺はのこのこと手ぶらでアメリカに帰るとするよ」
「手ぶらじゃないだろ」
「ああ、そうか。インドという新市場のお土産付き……いや、ちょっとした拾い物付きかな」

要と新市場ならどう考えても後者がデカイ土産のはずなのに、そう言われると少し照れくさい。

「Goodbye要!」

最後はこちらに表情を見せずに会議室から出ていくヴェネットの背中を要は見送った。

「──って事があって」

話し終えると仁は口をあんぐりと開けていた。

「で、今からインドに行くってわけ。ちなみにさっき会社にいたのは村崎部長に出した辞表を返してもらうため」

先週、辞表を提出した時にはそれはとても悲しい顔をさせてしまったのに、1週間でこれだ。呆れられるかとも思ったが村崎はとても喜んでくれ、「また、一緒に仕事ができるな」と背中を叩いてくれたのだ。

「ありえない! 辞表出すなんて!」
「そうでもしてお前のそばにいたかったんだよ!」
「それに、戻ってくるなら言ってくれても良かったじゃん!」
「今からインドだぞ? しばらく日本離れるし、福岡と愛知でも遠距離ダメだったのに、インドとなると何も言えないだろ」
「……もう大丈夫だよ」

顔つきの変わった仁に安心感もあるが、途端にインドに行くのが億劫になってしまう。

「あと、柴に俺のこと任せるって言ったんでしょ?」
「あいつ余計なこと言いやがったな……俺が帰ってくるまで頼むってお願いした。もちろん、福岡帰ったら容赦しないで、奪ってたけど」
「なにそれ意味わかんない」
「いいだろ、別に。で?」
「で?」
「もちろん奪われてくれるだろ?」
「仕方なくね……インド行くのにいいの?」
「何が?」
「だから、その……俺のアレを受け入れて」

顔を赤くしながら心配そうな顔をしてくる。こうも自信なさげにされると、今まで自分の愛が伝わっていなかったのかとこちらが不安になる。

「あー、プロポーズ?」

ニヤニヤして聞けば鬼の形相に睨まれるが、どうもない。

「もう!!」
「悪い、悪い。断るわけないだろあんな事言われたら。すげぇ、嬉しかった。ありがとう」

鬼が人に戻る。

「ぜってぇ、忘れねぇ。お前も忘れんなよ」
「さぁ? 俺はもう忘れちゃった」
「はいはい」

今度は天邪鬼になった恋人の頭を撫で、腕腕時計に目をやる。

「……そろそろ行くわ」
「うん」

声から寂しさが伝わる。

「仁」
「何?」

壁にもたれていた仁の肩を下に押して座らせる。そしてトランクを死角にして唇にキスをした。

「好きだ。愛してる。もう、手放さないから」
「……うん」

大人しいからともう一度唇を寄せるが「誰かに見られたらどうすんの!」と叱責され 二回目は不発に終わる。

「トランクで隠れてるからいいだろ!」
「そういう問題じゃない!」
「ちぇっ」

要は仕方なく舌打ちをして立ち上がるが、中腰になったあたりで再び袖を引っ張られる。

 「うおっ!」

チュッ と、頬に柔らかく火照ったものが押し付けられた。

「はい! いってらっしゃい!」

すぐさま唇は離れ、背中をグイグイとセキュリティゲートの方へ押してくる。
要は慌ててトランクを引っ掴む。

「ちょっ! お前、今日なんでそんなにズルいことばっかすんだよ!」
「うるさい、うるさい、うるさい! ほらさっさと行く!」

セキュリティゲートの前まで仁はずっと背中を押し続けて顔は見せなかった。

「仁、また連絡してくれよ」
「……うん」
「お土産何がいい?」
「そんなことよりきちんと市場調査しておいで!」
「へいへい、仕事人間なのは相変わらずだな。恋人より仕事だもんな、お前は!」
「そうだね。でも今は……要が一番かな」
「?!」

本当に今、目の前にいるのは佐久間仁なのかと言いたくなるほどの彼に、抱きつぶしたいほどの愛しさが込み上げる。

「いいか、仁! そのデレ、俺が帰国するまでもたしとけよ!」
「デレてない!」

いつもの恋人に戻りどこか落ち着く反面、さっきのような姿はもう見れないかもしれないという残念さもある。けれど、二度と会えなくなることに比べれば、二度と触れることが出来なくなることに比べれば、少しの間離れることも、さっきの彼を見られなくても我慢ができる。

「じゃ、行ってくるわ」
「いってらっしゃい」

──二人は新しいスタートを切った。
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