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春風〜第五章【沙月の思い】
しおりを挟むあのとき、直哉くんが庇ってくれなかったら……
私はきっと、あのまま尚也に――
隣でお酒を口にする直哉くんの横顔を見ながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。頬に浮かぶ赤みは、きっとお酒のせいだけじゃない。
「――ねぇ、直哉くん。初めて会った時のこと、覚えてる?」
思わず口をついた言葉に、彼は少し驚いた表情で、こちらを見る。少し悩むような顔をして、けれど、すぐに目を細めて、懐かしそうに笑った。
私も、よく覚えてるよ――
あれは、私が高校に入学して、まだ間もない、春頃だった。
新しい制服に袖を通して、まだ慣れない通学路を一人で歩いていた日。駅前の自販機で飲み物を買おうとしたその時、数人の男子に絡まれた。
「おーい、君、カワイイじゃん、どこの学校?」
「ねぇねぇ、良かったら、一緒にお茶しない? ちょっとだけでいいからさ」
「……ちょっと、や、やめてください……」
周囲の人は気づいても、見て見ぬふりで、通り過ぎていく。制服を引っ張られて、怖くて声も出なかった。
そんな中、誰かが割って入った。
「……おい、やめろよ」
決して大きくはない背中。
その後ろ姿から聞こえてきた、恐怖を押し殺したような震え混じりの低い声。けれど、どこか優しさの滲む声だった。
「……あ? なんだ、お前」
「……この子、困ってるだろ。人呼ばれたくないなら、放っておいてやれよ」
背中の主は、画面に110と表示されたスマホを握り、男達と向き合う。
「チッ……うぜーな。行こうぜ」
男子たちは舌打ちしながら、あっけなく離れていった。
この時、私の目の前にいた男の子が――直哉くんだった。
少し照れたように、おずおずと笑って、「平気?」と聞いてくれた彼に、私はただ頷くことしかできなかった。
あの日から、私は彼のことが気になってしかたがなかった。
同じ学校、同じ電車。
少しずつ、距離が縮まり、彼のことを知っていくうちに、私は彼に恋をした。
勇気を出して、気持ちを伝えた。彼は優しく笑って「俺も同じ気持ちだよ」と言ってくれた。
そうして、私たちは、付き合うことになった。
放課後のベンチ、コンビニのチョコパン、通学路の小さな橋。
どんな時間も、どんな景色も、彼といるだけで特別になった。
ーーでも、幸せな時間は、ずっと続かなかった。
両親の転勤で、急に引っ越すことになった。
「離れても大丈夫」って思ってた。スマホもあるし、手紙だって書ける。
でも、進級や受験が始まると、ただでさえ不器用な私は、連絡するタイミングを失っていった。
時間が経つほど、「いまさら連絡しても迷惑かも」って怖くなった。
そのまま、私たちは自然と、離れていってしまった。
そして、大学に入って、私は一人暮らしを始めた。
寂しさが、空気のようにまとわりついていた毎日。
そんなときに出会ったのが、サークルの先輩だった『尚也』だった。
最初は、直哉くんと、同じような空気を纏っていると思った。
優しそうで、頼りがいがあって、何より名前の響きが似ていた。
『なおや』という名を呼ぶことで、私は無意識に、あの頃の気持ちを引き寄せようとしていたのかもしれない。
気づけば、私はその人と付き合っていた。
でも、その優しさも、時間とともに薄れていった。
大学卒業が近づくころには、素行が荒くなり、言葉も態度も変わっていた。
今では、金の無心や感情的な束縛、そして無神経な要求が増えていた。
あれが本性だったんだと思う。優しかったのは最初だけ。
私は、あの頃のぬくもりにすがっていただけだった。
そんなときに、直哉くんと再会した。
あの駅前。偶然、声を掛けてくれた彼を見た瞬間――
心の中にしまっていた何かが、溶けていくのが分かった。
そして、今日、駅前のベンチで、尚也が来た時の事も――
「よっ、沙月!」
「……尚也」
直哉くんが、飲み物を買いに行ってくれている間に、アイツがやって来て、楽しかった気分は、一瞬で、冷めてしまっていた。
「今日は用事があるから、会えないって言ったよね……何しに来たの?」
「悪かったよ、でもさ……ちょっと連絡しなかったくらいで、そんな怒んなって……てかさ、実は、今晩飲み会があってさ、その金を貸してくれねーかなと思ってさ?」
「えぇ~?」
尚也が、何故、どんな用事で来たのかと思えば、また金の無心だった。
(今日は……今日こそは、ちゃんと言わないと……)
「前も言ったけど、もう貸せるお金なんてないわよ!」
「頼む! そこを何とかさぁ?」
「嫌よ。この前も似たような事、言って、返してないじゃない!?」
「まぁまぁ、俺とお前の仲じゃんか、なっ?」
尚也はそう言いながら、ねっとりとした手つきで、私の肩に手を回してくる。
「……ちょっと、やめてよ!?」
尚也が金の無心をする時は、こちらの気分を害さないように下手に出てくるが、今日はいつもよりも、しつこい感じがした。そしてーー
「てか、お前、今日はやけに色っぽいじゃん。見てると……抑えきれなくなりそうなんだけど? 近くにホテルあるし、お互いに仲直りしねぇか?」
「……っ……いい加減にしてよ!?」
私は、尚也が肩に回していた手がいやらしい動きをして、私の胸を触ろうとしてきた為、尚也を突き飛ばす。
そこからは、突き飛ばされ、怒り出した尚也と口論になってしまい、怒りで真っ赤な顔をした尚也が、私を殴ろうと拳を上げる。
殴られるーー
そう思った、その時ーー
目の前に、初めて会った時と同じ、決して、大きくはない、けれども、私にとっては、頼りがいのある彼の背中が、私の目に映った。
――彼は、変わっていなかった。
今日のデート中も、一緒に雑貨屋やカフェを回っている時、彼がさりげなく椅子を引いてくれたり……そして私を庇ってくれた姿も――
初めて会ったあの日から……私が好きだった時のまま、優しくて、真っ直ぐで。
私は、もう一度、彼を好きになった。
……いや、違う。
好きになったんじゃなくて、気づいたんだ。
私は、ずっと『直哉』のことが、好きだったんだ。
だけど、まだ、言えない。
今の私が、好きって、その言葉を口にしていいのか、分からなくて、彼に拒絶されたらと思うと、怖かったーー。
バーの帰り道、別れ際の交差点。
直哉は「じゃあ、今日はありがとう。楽しかった」と笑って、帰ろうとした。
――このまま帰ったら、きっと私は、また後悔する。
そう思うと、咄嗟に、彼の腕を掴んでいた。
「……まだ、帰らないで」
彼が驚いたように振り返る。
私は、掴んだその手を、自分の胸元にそっと押し当てた。
「……もう少しだけ、一緒にいたい……」
自分の心臓が、彼の手の下で高鳴っているのが分かる。
言葉にはできないけれど――この気持ちだけは――嘘じゃない
春の夜風が、二人の間をやさしく撫でていった。
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