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第四部
第二十五章 楪、照り輝く 其の三
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◇◆◇
宵の賑やかな虫の音も少し静まる頃、秀忠が首をぐるぐる回しながら、寝所に入ってきた。
ぼんやりした灯りの元、江が平伏して出迎える。
「まだ起きておったのか。先に休んでよいぞ。」
たしなめるような声は、優しい響きであった。
「利勝殿も付き合わされておりますのに、私が眠るわけには参りませぬ。」
柔らかに微笑んで江が言う。
「ほう。そなたはいつからそのように殊勝になった。」
にやにやと笑う秀忠が床へ腰を下ろした。
「御台所にございますれば。」
江がツンとして返事をする。本当は素直に「ご苦労様でございます」と言うはずだったのに、つい、夫の言い方に反応してしまう。
微笑みを浮かべ、横たわろうとする秀忠に、江は慌てて姿勢をただした。
「昼はありがとう存じました。」
「ん?」
「竹千代のことにございます。」
「あぁ。そなたたちはどうも大事にするばかりゆえな。」
ゴロンと横になり、自分の腕で立て肘枕を作ると妻の方へ躯を向ける。
「福がかまいすぎるのです。」
顔をしかめた江の眉間には、薄暮にもわかるほど、立て皺が寄せられていた。
「まぁ、そう言うな。そなたとて厳しゅうはできまい。」
秀忠のりりしい瞳が、優しく江を見上げる。
「…はい。あのようには…」
以前秀忠が言った「導いてやらねば」を目の当たりにして、江がしおらしく答えた。
「であろう? そなたがいくらお転婆と申してもな。」
「あなた様っ!」
「クククッ。そなたのそのような声を聞くのも久方ぶりじゃの。」
「もうっ。知りませぬ。」
しおらしさをみせた妻に、つい夫は憎まれ口を叩く。ぷいと横を向き、床を整える江に秀忠は微笑みながら、声をかけた。
「母は、優しゅうしてくれればよいのじゃ。」
江が、振り向く。
「母は優しゅうしてくれればよい。」
秀忠が不思議そうな顔の妻に繰り返した。
「竹千代はなかなかに男じゃぞ。男を鍛えるは父の役目じゃ。」
竹千代の目を思い出して、秀忠は微笑む。
「それではあなたさまが竹千代に嫌われまする。」
「憎まれ役か?上等じゃ。」
フッと笑った秀忠の脳裏に、ふと家康が浮かんだ。そして、秀頼も。
秀頼殿は、ただ優しゅう育てられたのであろうか……。優しいだけでは……。
「あなたさま?」
ぼんやりとどこかを見つめている夫に、妻が声をかける。秀忠がハッとしたように、苦笑いを浮かべた。
「まぁ、私は竹千代には好かれておらぬしの。」
「何故にございまするか?」
美しい瞳をしばただかせ、江が小首をかしげる。
「気づいておらぬのか?」
秀忠が目を見開き、えっ?と大きく驚いた顔を見せた。
今度は江が夫の様子に驚き、さらに小首をかしげる。
「国松より厳しゅうするからでございまするか?」
江が、どこか自信無さそうに呟いた。
「まこと気づいておらぬのか……クッ……ははは……」
戸惑う妻の可愛らしい様子をじっと見ていた秀忠だが、堪えきれず笑いだし、たまらずに仰向けで大笑いする。
「あなたさま?」
江はその様子に、怒りを通り越して戸惑いを見せた。
「あなたさまっ。」
「そなたらしいのう…クククッ……」
やっと笑いが収まり、秀忠は寝転がったまま再び妻の方を向く。
「もうっ。何故でござりまするか。」
江が頬を膨らませ、また夫に尋ねた。
じっと自分を見つめていた夫が、またゴロリと大の字になった。
「江、そなたはそなたのままでいてくれ。」
天井を向いたまま、秀忠は願う。
「あなたさま?」
「私の傍にいてくれ。」
「何を今さら。いかがしたのでございまするか?」
真顔で天井を向いたままの夫に、江は胸騒ぎを覚えた。
「そういえば、竹千代に『父になにごとかあれば』と仰せでしたね。戦になるのですか?」
秀忠がゆっくりと身を起こし、心配そうな妻に向き合って座る。
「戦などしとうはない。しとうはないのじゃ。」
うつむいて、弱々しく秀忠は首を振った。
「あなたさま……」
「豊臣にちらほらと牢人が流れておる。」
ぼそりと秀忠が呟く。先程まで利勝と額を合わせていた件であった。
江の手が口許を押さえて止まった。
「徳川が戦支度をしていると、思われておる。」
「そんな……そのようなこと……初姉上は…」
ポツポツと語られる将軍の言葉に、江は絶句する。
江の目がウロウロと泳ぎ、秀忠は大きな溜め息をついた。
「常高院様は淀の方様と話をしてくれたようじゃ。」
秀忠はかなり早い時点、「牢人が流れているらしい」ということを耳にした時点で、大坂城に腰を据えた常高院には文を出している。
「ではなぜ……」
うろたえる江を秀忠がちらりと見て、重い口を開く。
「『豊臣を頼ってきてくれるものを無下にはできぬ』と仰せとか。」
「茶々姉上らしい。」
優しい茶々を思い出し、江の顔に思わず柔らかな微笑みが浮かんだ。
「しかし、このままでは……。牢人どもが大阪城に溢れかえれば親父も見過ごすまい…どうすればよいのじゃっ。」
秀忠の拳が、ガンと畳を叩く。力を込めた腕が、ふるふると震えた。
(秀頼殿はなにゆえ牢人を追い出さぬ…。それを教える男は、諌める男は、おらぬのか…)
秀忠が奥歯をクッと噛み締める。
「戦などしとうない。誰も幸せにならぬ。」
絞り出すような、なにかに抗う声であった。
「あなたさま。」
「兵も民も田畑も失うだけじゃ。」
うつむき加減の秀忠の顔が悔しそうに歪んだ。
(この方は……)
江がハッとする。
関ヶ原の戦の後に「戦など嫌じゃ」と言った方とは違う。
敵を攻めあぐんで悔し涙を流した人とは違う。
もう「戦のない世」のさらに先を見ているのじゃ。
天下万民が幸せな世を……。
「あなたさま、江は傍におりまする。誰一人いなくなっても。」
思わず秀忠の大きな手を取る。温かな手の温もりに江が微笑んだ。
「江……」
妻の微笑みに、秀忠は涙がにじみそうな瞳を返す。
「お疲れなのでございましょう。おやすみなされませ。竹千代には見せられませぬな。剣を握られた時とは別人にござりまする。」
心配そうな顔をしながらも、少しおかしそうに江は微笑んで見せる。
「でも、そんなあなたさまが愛しゅうございます。」
江が恥ずかしそうに早口で言い、頬を染めて微笑んだ。
「『二つ文字』か?」
その微笑みに、秀忠もいつもの顔に戻り、また不思議な言葉を発する。
「なんでございまするか?その『二つ文字』とは」
以前にも聞いたことのある言葉に、江が怪訝な顔をした。
******
【牢人】浪人。
宵の賑やかな虫の音も少し静まる頃、秀忠が首をぐるぐる回しながら、寝所に入ってきた。
ぼんやりした灯りの元、江が平伏して出迎える。
「まだ起きておったのか。先に休んでよいぞ。」
たしなめるような声は、優しい響きであった。
「利勝殿も付き合わされておりますのに、私が眠るわけには参りませぬ。」
柔らかに微笑んで江が言う。
「ほう。そなたはいつからそのように殊勝になった。」
にやにやと笑う秀忠が床へ腰を下ろした。
「御台所にございますれば。」
江がツンとして返事をする。本当は素直に「ご苦労様でございます」と言うはずだったのに、つい、夫の言い方に反応してしまう。
微笑みを浮かべ、横たわろうとする秀忠に、江は慌てて姿勢をただした。
「昼はありがとう存じました。」
「ん?」
「竹千代のことにございます。」
「あぁ。そなたたちはどうも大事にするばかりゆえな。」
ゴロンと横になり、自分の腕で立て肘枕を作ると妻の方へ躯を向ける。
「福がかまいすぎるのです。」
顔をしかめた江の眉間には、薄暮にもわかるほど、立て皺が寄せられていた。
「まぁ、そう言うな。そなたとて厳しゅうはできまい。」
秀忠のりりしい瞳が、優しく江を見上げる。
「…はい。あのようには…」
以前秀忠が言った「導いてやらねば」を目の当たりにして、江がしおらしく答えた。
「であろう? そなたがいくらお転婆と申してもな。」
「あなた様っ!」
「クククッ。そなたのそのような声を聞くのも久方ぶりじゃの。」
「もうっ。知りませぬ。」
しおらしさをみせた妻に、つい夫は憎まれ口を叩く。ぷいと横を向き、床を整える江に秀忠は微笑みながら、声をかけた。
「母は、優しゅうしてくれればよいのじゃ。」
江が、振り向く。
「母は優しゅうしてくれればよい。」
秀忠が不思議そうな顔の妻に繰り返した。
「竹千代はなかなかに男じゃぞ。男を鍛えるは父の役目じゃ。」
竹千代の目を思い出して、秀忠は微笑む。
「それではあなたさまが竹千代に嫌われまする。」
「憎まれ役か?上等じゃ。」
フッと笑った秀忠の脳裏に、ふと家康が浮かんだ。そして、秀頼も。
秀頼殿は、ただ優しゅう育てられたのであろうか……。優しいだけでは……。
「あなたさま?」
ぼんやりとどこかを見つめている夫に、妻が声をかける。秀忠がハッとしたように、苦笑いを浮かべた。
「まぁ、私は竹千代には好かれておらぬしの。」
「何故にございまするか?」
美しい瞳をしばただかせ、江が小首をかしげる。
「気づいておらぬのか?」
秀忠が目を見開き、えっ?と大きく驚いた顔を見せた。
今度は江が夫の様子に驚き、さらに小首をかしげる。
「国松より厳しゅうするからでございまするか?」
江が、どこか自信無さそうに呟いた。
「まこと気づいておらぬのか……クッ……ははは……」
戸惑う妻の可愛らしい様子をじっと見ていた秀忠だが、堪えきれず笑いだし、たまらずに仰向けで大笑いする。
「あなたさま?」
江はその様子に、怒りを通り越して戸惑いを見せた。
「あなたさまっ。」
「そなたらしいのう…クククッ……」
やっと笑いが収まり、秀忠は寝転がったまま再び妻の方を向く。
「もうっ。何故でござりまするか。」
江が頬を膨らませ、また夫に尋ねた。
じっと自分を見つめていた夫が、またゴロリと大の字になった。
「江、そなたはそなたのままでいてくれ。」
天井を向いたまま、秀忠は願う。
「あなたさま?」
「私の傍にいてくれ。」
「何を今さら。いかがしたのでございまするか?」
真顔で天井を向いたままの夫に、江は胸騒ぎを覚えた。
「そういえば、竹千代に『父になにごとかあれば』と仰せでしたね。戦になるのですか?」
秀忠がゆっくりと身を起こし、心配そうな妻に向き合って座る。
「戦などしとうはない。しとうはないのじゃ。」
うつむいて、弱々しく秀忠は首を振った。
「あなたさま……」
「豊臣にちらほらと牢人が流れておる。」
ぼそりと秀忠が呟く。先程まで利勝と額を合わせていた件であった。
江の手が口許を押さえて止まった。
「徳川が戦支度をしていると、思われておる。」
「そんな……そのようなこと……初姉上は…」
ポツポツと語られる将軍の言葉に、江は絶句する。
江の目がウロウロと泳ぎ、秀忠は大きな溜め息をついた。
「常高院様は淀の方様と話をしてくれたようじゃ。」
秀忠はかなり早い時点、「牢人が流れているらしい」ということを耳にした時点で、大坂城に腰を据えた常高院には文を出している。
「ではなぜ……」
うろたえる江を秀忠がちらりと見て、重い口を開く。
「『豊臣を頼ってきてくれるものを無下にはできぬ』と仰せとか。」
「茶々姉上らしい。」
優しい茶々を思い出し、江の顔に思わず柔らかな微笑みが浮かんだ。
「しかし、このままでは……。牢人どもが大阪城に溢れかえれば親父も見過ごすまい…どうすればよいのじゃっ。」
秀忠の拳が、ガンと畳を叩く。力を込めた腕が、ふるふると震えた。
(秀頼殿はなにゆえ牢人を追い出さぬ…。それを教える男は、諌める男は、おらぬのか…)
秀忠が奥歯をクッと噛み締める。
「戦などしとうない。誰も幸せにならぬ。」
絞り出すような、なにかに抗う声であった。
「あなたさま。」
「兵も民も田畑も失うだけじゃ。」
うつむき加減の秀忠の顔が悔しそうに歪んだ。
(この方は……)
江がハッとする。
関ヶ原の戦の後に「戦など嫌じゃ」と言った方とは違う。
敵を攻めあぐんで悔し涙を流した人とは違う。
もう「戦のない世」のさらに先を見ているのじゃ。
天下万民が幸せな世を……。
「あなたさま、江は傍におりまする。誰一人いなくなっても。」
思わず秀忠の大きな手を取る。温かな手の温もりに江が微笑んだ。
「江……」
妻の微笑みに、秀忠は涙がにじみそうな瞳を返す。
「お疲れなのでございましょう。おやすみなされませ。竹千代には見せられませぬな。剣を握られた時とは別人にござりまする。」
心配そうな顔をしながらも、少しおかしそうに江は微笑んで見せる。
「でも、そんなあなたさまが愛しゅうございます。」
江が恥ずかしそうに早口で言い、頬を染めて微笑んだ。
「『二つ文字』か?」
その微笑みに、秀忠もいつもの顔に戻り、また不思議な言葉を発する。
「なんでございまするか?その『二つ文字』とは」
以前にも聞いたことのある言葉に、江が怪訝な顔をした。
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【牢人】浪人。
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