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第4話 葛藤

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 残業を終え、帰宅した私。

 でも、あのときのことが、ずっと頭を離れない。

 契約結婚。そんな突拍子もない話を、九条課長はいたって真面目な顔で持ちかけてきた。

 ――「意味がわかりません」「そんなの、ありえません」

 そう言うつもりだった、実際、喉元まで言葉は出かかっていた。

 でも――。

 私が返答する前に、課長はすべてを言い終え、何事もなかったかのように帰ってしまった。

 ぽつんと取り残された私は、デスクの上の書類を見つめながら、しばらく呆然としていた。

 時計を見れば、すでに終電が近い時間。慌てて帰路についたものの、電車の揺れに身を任せているうちに、次第に課長の言葉がじわじわと頭に染み込んできた。

 そして家のドアを開けた瞬間、ふっと肩の力が抜けた。

 ――両親からの結婚圧。それがどれほどのストレスになっているか、私はよく知っている。

 実家に帰るたび、母は決まって「早くいい人を見つけなさい」と小言を言い、父は「結婚も仕事のうちだ」と、仕事に絡めてくる。親戚が集まれば、決まって「そろそろいい年頃じゃない?」と探りを入れられる。

 何度「まだその予定はない」と返しても、まるで聞く耳を持たない。適当に流そうとしても、「いい人紹介しようか?」と勝手に話を進められることもある。まるで、私自身の意志なんてどうでもいいみたいに。

 うんざりしていた。本当に、ずっと、うんざりしていた。

 こんな会話の繰り返しに、どれほどの時間を費やしただろう。まともに話すのも億劫で、最近は実家に帰ることすら減っていた。

 でも――もし、課長の提案を受け入れたら? 「結婚しました」と報告すれば、それだけで親の圧力から解放されるかもしれない。もう、無理にお見合いの話を押しつけられることもなくなる。

 それだけじゃない。課長はこうも言っていた。

 ――「報酬は十分に用意する」

 妙に現実的で、割り切った提案。結婚なんて、本来は好きな人とするもので、報酬云々の話ではないはずなのに。

 けれど、課長はそういう人だった。感情に流されることなく、すべてを合理的に判断する。損得で考え、最適解を導き出す。

 ――九条玲司。

 仕事ができる上に、若くして課長にまで昇進し収入も高い。さらに言えば、親会社の御曹司であり、実家も相当な資産家らしい。つまり、結婚相手としては申し分のないスペックを持つ。

「……」

 冷静に考えてみると、条件は悪くない。むしろ、一般的には願ってもない話なのかもしれない。

 お金の心配もないし、結婚さえすれば、両親のプレッシャーからも解放される。合理的に考えれば、受け入れる理由はいくつもある。

 ──それでも、踏み切れないのはなぜ?

 ベッドに寝転がりながら、スマホを握りしめる。天井をぼんやりと見つめながら、脳内で何度も繰り返されるのは、九条課長のあの冷静な声。

 ――「お前なら信用できるからな」

 あのときの課長は、いつもと変わらず淡々としていた。冗談めかすこともなければ、照れも戸惑いもない。ただ淡々と、必要な条件を提示し、取引相手を選ぶように私に提案した。それが、むしろ私の迷いを深くした。

 もし、あのとき課長が少しでも感情を見せていたら? 例えば、少し照れくさそうに「実は、俺は君のことが……」なんて言っていたら?

 それなら、即座に断れたはずだ。「ありえません!」と即答して、気まずさを残しながらも、この話はそこで終わっていたはず。

 だけど、課長はそんなことは一切言わなかった。あくまで合理的に、淡々と、無駄のない言葉で提案をしてきた。そこに、私情はまるで感じられなかった。

 ──だからこそ、私は悩んでいる。これは「求婚」ではなく、「交渉」。そう割り切れば、答えを出すのは簡単なはずなのに。

「はぁ……」

 スマホを握ったまま、深いため息が漏れる。

 画面には何も映っていない。ただホーム画面の時計が、無情に時間だけを刻んでいく。

 もう、とっくに深夜。疲れているはずなのに、眠気はまったくこない。契約結婚なんて、ありえない話のはずなのに。普通なら、即座に「無理です」と言って終わる話なのに。どうしてこんなにも考えてしまうんだろう。

 断る理由なら、いくらでもある。結婚は、本来好きな人とするもの。ビジネスの延長で考えるなんて、おかしい。それに、いくら課長が仕事ができて、高収入で、家柄も申し分なくても……だからといって、結婚相手として見られるかは別の話だ。

 なのに、私はまだ答えを出せずにいる。どうして?

 スマホの画面がふっと暗くなる。

 ぼんやりと映る、自分の顔。

 そこには、思った以上に迷いを抱えた自分がいた。
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