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第5話 お前が一番いい。……俺の妻になれ
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翌日。
とりあえずは、いつも通りの一日が始まった。朝のミーティング、書類整理、取引先とのやりとり。
どれも普段と変わらない仕事のはずなのに――。
……気になる。九条課長の視線が。
いつも通り、クールで隙のない態度。周囲の誰もが、その完璧な仕事ぶりを当然のように受け入れている。
けれど。
たった一度、「契約結婚」なんて言葉を聞いてしまったせいで、意識してしまう。今までは何とも思わなかった、視線の向け方や仕草。
――私のこと、見てる?
そんなはずないのに、そう錯覚してしまう。
考えすぎだ。仕事に集中しなきゃ。そう思って気を引き締める。
けれど、ふと顔を上げるたびに、デスク越しの九条課長の姿が視界に入る。
スマートにペンを走らせる手。電話口で短く的確に指示を出す低い声。書類に目を通す横顔の、隙のない美しさ。
改めて見ると、この人はやっぱり完璧すぎる。見た目も、仕事ぶりも。
だからこそ、昨日の話が、なおさら現実味を持てない。
――どうして、私なの?
そんな疑問がまた、心の奥に沈殿する。仕事に集中しようとすればするほど、ふとした拍子に考えが戻ってしまう。
そうして悩みながら仕事をしていたせいか、時間が過ぎるのが早く感じた。いつの間にか、一日の仕事が終わろうとしている。
昨日頑張ったおかげで、今日は余裕があった。珍しく定時で帰れそう――。
そう思った、その瞬間。
「佐倉、これを今日中に頼む」
不意に差し出された書類の束。
……え? このタイミングで、今日中?
思わず時計を見る。終業時間まで、あと20分もない。
九条課長は、仕事の采配が緻密な人だった。いつも適切な分量を、適切なタイミングで割り振る。だから、当日、それも終業直前になって新たな急ぎの仕事を振られるなんて、今まで一度もなかった。
「……わかりました」
違和感を覚えながらも、私は素直に受け取る。新たに振られた仕事は、20分で終わるようなものではなかった。
気づけば今日も残業。オフィスに残るのは全体の二割ほど。時間が経つにつれ、同僚たちは次々と帰路につく。
ふと顔を上げると、隣の席も、その向こうの席も、空っぽになっていた。もう、遠くの離れた席にチラホラ数人がいるぐらいだ。
でも、さすがに私が最後にはならないだろう。さっきの仕事もそろそろ終わりが見えてきて――
「佐倉、すまないがこれも頼む」
再び差し出される書類。
「……え?」
声に出すつもりはなかったのに、つい漏れてしまった。
また追加の仕事。終わりそうになるたびに、九条課長が新しい仕事を振ってくる。
九条課長が謝罪するのは珍しい。彼はミスらしいミスをしない。部下への仕事は、お願いではなく指示だ。仕事なのでやって当然。”頼む”という言葉ぐらいは使うが、”すまない”という言葉はほとんど聞いたことがなかった。
私は違和感を覚えつつも、素直に受け取った仕事を進めていく。
やがて、気づけばオフィスには私と九条課長だけ。昨日と同じ状況になっていた。
静まり返った室内に、時計の針の音だけが響く。不自然なほど、二人きり。
「……ひょっとして、わざとですか?」
言ってしまった。言うつもりはなかったのに、いつもの九条課長と違い過ぎたせいだ。
「何の話だ?」
九条課長が顔を上げる。
「突発的に仕事を命じるなんて珍しいじゃないですか。まるで、私に残業させたかったみたいな……」
「そんなわけがないだろう。くだらないことを言うな」
九条課長は、クールな表情のまま、一蹴する。けれど、その目がわずかに揺れた気がした。
……図星?
昨日と同じく、静寂がオフィスに広がる。九条課長は、一瞬視線を落とし、そして改めて私の方を見た。
「昨日の契約結婚のことだが」
思わず息をのむ。けれど、動揺を悟られないように、私は努めて平静を装った。
「その件は検討中です。私が思うに、他に良い女性はたくさんいるはずですが」
できるだけ冷静に、言葉を紡ぐ。
そう――これは、ただの打算的な話。私と九条課長の間に、感情なんて関係ないはず。
だから、私は静かに、距離を取ろうとした。
その瞬間――。
不意に、手首を掴まれる。強くはない。けれど、確かに拒めない力で。
「お前が一番いい。……俺の妻になれ」
心臓が、大きく跳ねる。
――え?
信じられなくて、九条課長を見上げる。
彼の瞳が、近い。冷徹で合理的な、それでいて隙のない瞳。
けれど、今は――。
ほんのわずかだけど、熱を帯びているような気がして――。
ドクン。
心臓が、ひときわ大きく鳴る。
この人、冷静沈着で、仕事にしか興味がないと思っていたのに。
……なんで、こんなに近いの?
視線をそらそうとするのに、逃げられない。さっきも、公私混同みたいな仕事の割り振りをしてきた。普通なら、ただただムカつくだけの話。でも、九条課長がやると、不思議と腹立たしさよりも、戸惑いが勝る。合理的なはずの彼が、どうしてあんなに非合理なことをしたのだろう?
(……え、これ本当にただの契約の話……?)
胸の奥に、小さな疑念が芽生える。
まるで、それを待っていたかのように――。
九条課長の指が、わずかに私の手首を強く握った。
確かめるように。
逃がさない、とでも言うように。
とりあえずは、いつも通りの一日が始まった。朝のミーティング、書類整理、取引先とのやりとり。
どれも普段と変わらない仕事のはずなのに――。
……気になる。九条課長の視線が。
いつも通り、クールで隙のない態度。周囲の誰もが、その完璧な仕事ぶりを当然のように受け入れている。
けれど。
たった一度、「契約結婚」なんて言葉を聞いてしまったせいで、意識してしまう。今までは何とも思わなかった、視線の向け方や仕草。
――私のこと、見てる?
そんなはずないのに、そう錯覚してしまう。
考えすぎだ。仕事に集中しなきゃ。そう思って気を引き締める。
けれど、ふと顔を上げるたびに、デスク越しの九条課長の姿が視界に入る。
スマートにペンを走らせる手。電話口で短く的確に指示を出す低い声。書類に目を通す横顔の、隙のない美しさ。
改めて見ると、この人はやっぱり完璧すぎる。見た目も、仕事ぶりも。
だからこそ、昨日の話が、なおさら現実味を持てない。
――どうして、私なの?
そんな疑問がまた、心の奥に沈殿する。仕事に集中しようとすればするほど、ふとした拍子に考えが戻ってしまう。
そうして悩みながら仕事をしていたせいか、時間が過ぎるのが早く感じた。いつの間にか、一日の仕事が終わろうとしている。
昨日頑張ったおかげで、今日は余裕があった。珍しく定時で帰れそう――。
そう思った、その瞬間。
「佐倉、これを今日中に頼む」
不意に差し出された書類の束。
……え? このタイミングで、今日中?
思わず時計を見る。終業時間まで、あと20分もない。
九条課長は、仕事の采配が緻密な人だった。いつも適切な分量を、適切なタイミングで割り振る。だから、当日、それも終業直前になって新たな急ぎの仕事を振られるなんて、今まで一度もなかった。
「……わかりました」
違和感を覚えながらも、私は素直に受け取る。新たに振られた仕事は、20分で終わるようなものではなかった。
気づけば今日も残業。オフィスに残るのは全体の二割ほど。時間が経つにつれ、同僚たちは次々と帰路につく。
ふと顔を上げると、隣の席も、その向こうの席も、空っぽになっていた。もう、遠くの離れた席にチラホラ数人がいるぐらいだ。
でも、さすがに私が最後にはならないだろう。さっきの仕事もそろそろ終わりが見えてきて――
「佐倉、すまないがこれも頼む」
再び差し出される書類。
「……え?」
声に出すつもりはなかったのに、つい漏れてしまった。
また追加の仕事。終わりそうになるたびに、九条課長が新しい仕事を振ってくる。
九条課長が謝罪するのは珍しい。彼はミスらしいミスをしない。部下への仕事は、お願いではなく指示だ。仕事なのでやって当然。”頼む”という言葉ぐらいは使うが、”すまない”という言葉はほとんど聞いたことがなかった。
私は違和感を覚えつつも、素直に受け取った仕事を進めていく。
やがて、気づけばオフィスには私と九条課長だけ。昨日と同じ状況になっていた。
静まり返った室内に、時計の針の音だけが響く。不自然なほど、二人きり。
「……ひょっとして、わざとですか?」
言ってしまった。言うつもりはなかったのに、いつもの九条課長と違い過ぎたせいだ。
「何の話だ?」
九条課長が顔を上げる。
「突発的に仕事を命じるなんて珍しいじゃないですか。まるで、私に残業させたかったみたいな……」
「そんなわけがないだろう。くだらないことを言うな」
九条課長は、クールな表情のまま、一蹴する。けれど、その目がわずかに揺れた気がした。
……図星?
昨日と同じく、静寂がオフィスに広がる。九条課長は、一瞬視線を落とし、そして改めて私の方を見た。
「昨日の契約結婚のことだが」
思わず息をのむ。けれど、動揺を悟られないように、私は努めて平静を装った。
「その件は検討中です。私が思うに、他に良い女性はたくさんいるはずですが」
できるだけ冷静に、言葉を紡ぐ。
そう――これは、ただの打算的な話。私と九条課長の間に、感情なんて関係ないはず。
だから、私は静かに、距離を取ろうとした。
その瞬間――。
不意に、手首を掴まれる。強くはない。けれど、確かに拒めない力で。
「お前が一番いい。……俺の妻になれ」
心臓が、大きく跳ねる。
――え?
信じられなくて、九条課長を見上げる。
彼の瞳が、近い。冷徹で合理的な、それでいて隙のない瞳。
けれど、今は――。
ほんのわずかだけど、熱を帯びているような気がして――。
ドクン。
心臓が、ひときわ大きく鳴る。
この人、冷静沈着で、仕事にしか興味がないと思っていたのに。
……なんで、こんなに近いの?
視線をそらそうとするのに、逃げられない。さっきも、公私混同みたいな仕事の割り振りをしてきた。普通なら、ただただムカつくだけの話。でも、九条課長がやると、不思議と腹立たしさよりも、戸惑いが勝る。合理的なはずの彼が、どうしてあんなに非合理なことをしたのだろう?
(……え、これ本当にただの契約の話……?)
胸の奥に、小さな疑念が芽生える。
まるで、それを待っていたかのように――。
九条課長の指が、わずかに私の手首を強く握った。
確かめるように。
逃がさない、とでも言うように。
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