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第6話 九条家への挨拶

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 あの日、どうして私は流れで頷いてしまったのだろう。

 契約結婚――それは互いに利益を得るための関係のはずだった。

 なのに、九条課長はあれ以来、まるで何事もなかったかのように普段通りだった。職場でもいつも通り、淡々と仕事をこなしている。

 私はというと、妙に意識してしまい、無駄に挙動不審になっている気がする。例えば、課長が私の横を通るだけで無意味に背筋を伸ばしたり、何気ない指示にもどこかぎこちなく返事をしてしまったり――。契約とはいえ、結婚した相手なのだという実感が、職場でじわじわと襲ってくる。

「佐倉」

 呼ばれる声に、条件反射でピシッと姿勢を正す。

「は、はい!」

「……報告書の提出、今日までだったはずだが」

「あっ……!」

 机の上に置いたまま、提出しそびれていた書類。――しまった、完全に意識がそっちに向いていたせいで、やるべきことが抜けていた。

「す、すぐにお持ちします!」

 慌てて書類をまとめながら、心の中で頭を抱える。これは明らかに、私の方が意識しすぎているだけだ。九条課長は何も変わらない。私も仕事に集中しなきゃ――!





 そして、十日が経過した。

 日曜日の朝、私は鏡の前でスーツの襟を整えながら、大きく息をつく。

 今日は、九条課長の実家へ行き、正式に「結婚」の挨拶をする日だ。

 私と課長の間で契約が成立したのは十日前。でも、設定上は一年以上交際していることになっている。荒唐無稽な話だが、そうでもしなければ名門・九条家に納得してもらえるはずがない。「十日前から付き合っています。だから結婚します」などと言ったところで、門前払いを食らうのがオチだ。

 それに、私が九条課長の部下になってからは一年以上が経つ。その点だけは、完全な嘘ではない。……いや、やはり無理があることに変わりはないか。

 私は小さく息を吐き、スーツの袖を正す。

「あくまで契約だから、大丈夫……」

 そう自分に言い聞かせる。でも、手を置いたシャツの生地が、少し汗ばむほど緊張しているのがわかる。

 課長の実家――つまりは、名門・九条家。格式の高い家柄であることは、会社でもよく知られている。堅実な経営で知られる一族で、九条課長もまた、その跡取りとしての責任を背負っている。そんな家に「妻」として足を踏み入れることになるなんて、考えたこともなかった。

 契約結婚だから、本来なら気負う必要なんてない。それなのに、どうしてこんなに心臓がバクバクしているんだろう――。

 迎えの車は、九条課長が手配してくれていた。黒塗りの高級車がマンションの前に停まっているのを見て、ますます実感が湧いてくる。

「失礼します……」

 小さく呟いて車に乗り込むと、すでに課長が座っていた。

「準備は万全か?」

 隣に座る彼は、いつものスーツではなく、落ち着いたダークグレーのジャケットを羽織っている。普段のビジネスライクな雰囲気とは違い、どこか柔らかさが感じられた。

「……はい」

 ぎこちない返事をすると、課長はちらりと私の顔を見る。

「緊張しているのか?」

「え?」

「さっきから落ち着かないように見える」

「そ、そんなことありません。課長こそ、平気なんですか?」

「当然だ」

 即答する彼に、思わず肩の力が抜ける。

 ……そうだ、この人はいつだって冷静で、クールで、感情に流されることがない。なら、私もそのスタンスを崩さないようにしないと――。

 車内は静かだった。

 窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、考える。

 これから、私は九条家の人々と顔を合わせる。契約結婚だから、恋愛感情は関係ない。それでも、疑われるようなことがあれば、すぐに破談にされる可能性だってある。

(……もし、破談になったらどうなるんだろう)

 私は唇を噛みながら、スーツの袖をきゅっと握りしめた。

 私には会社という居場所がある。九条家の系列会社である以上、破談になれば肩身が狭くなるのは目に見えているけど、すぐにクビになることはないはずだ。

 けれど――九条課長は? 彼は家業を継ぐ立場にある。今回の結婚も、単なる個人的な事情ではなく、家族の期待を背負っている可能性が高い。もし私たちの「契約」が露見すれば、彼にとって計り知れない不利益が及ぶのは明らかだった。

「……佐倉」

 課長の声にハッとして顔を上げる。

「はい?」

「余計なことは考えなくていい。俺がすべて対応する」

 ……どうしてそんなに自信があるんだろう。まるで、これが最初から決まっていたことのように。

 車はやがて九条家の敷地内へと入っていった。高級住宅街の中でも一際存在感を放つ、日本家屋の門構え。黒塀の向こうに広がる庭園は、隅々まで手入れされており、ただならぬ格式の高さを感じさせる。

「……すごい」

 思わず小さく呟くと、隣に座る九条課長はいつも通り無表情のまま、ゆっくりと車を降りた。

「行くぞ」

 落ち着いた声に促され、私も後に続く。長い石畳を歩くたびに、細かく敷かれた白砂がわずかに音を立てる。

 歴史を感じさせる屋敷の前に立つと、黒塗りの重厚な扉が、音もなく開かれた。

 その瞬間、背筋がぴんと伸びる。

 玄関先には、黒い着物を纏った使用人たちが一列に並んでいた。彼らは無言のまま、一糸乱れぬ動きで深くお辞儀をする。

「お待ちしておりました」

 低く響く声が、静まり返った玄関に重くのしかかる。

 老齢の使用人が一歩前に出て、恭しく頭を下げた。その背後には、整然と並ぶ他の使用人たち。彼らの佇まいには一分の隙もなく、ただそこにいるだけで、九条家という名門の重みを誇示しているようだった。

 しかし、九条課長は微動だにせず、何も気後れした様子がない。

 私はといえば、喉の奥がひどく乾き、手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。

 ここは、正式に「九条家の一員」として迎え入れられるための挨拶をする場。そう思えば、緊張するのは当然だろう。けれど、これは契約結婚だ。本来なら感情を伴うものではない。ビジネスのプレゼンテーションと似たようなもののはず。

 なのに――どうして、こんなに心臓が高鳴っているのか。

「彼女が佐倉だ」

 九条課長の静かな声が、玄関の冷えた空気を切り裂く。

「九条家の一員に迎え入れるにあたり、挨拶に来てもらった。父上が待つ応接間へ案内しろ」

 玲司課長の冷静な声が響く。

 その瞬間、九条家の人々が一斉に私を値踏みするような視線を向けてきた。

 足元からじわりと冷たい汗が滲む。その圧力に耐えきれず、一歩引きたくなる衝動に駆られたが、ここで引いてはいけない。私は会社でも、課長の部下として必死に食らいついてきた。ならば、ここでも毅然とした態度を取らなければ――。

「こちらへ」

 黒い着物を纏った女性使用人が静かに頭を下げると、玲司課長が何事もないように歩き出した。彼の足取りは落ち着いていて、まるでこの場が日常の一部であるかのようだ。

 私は彼の背中を追いかけながら、深く息を吸い込む。胸の奥に広がる緊張感を、どうにか鎮めようとするけれど――無理だった。

 長い廊下の先、応接間の扉が静かに開かれる。その向こうに待つのは、九条家の当主。

 この扉をくぐれば、もう後戻りはできない――。
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