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第27話 九条課長の変化

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 翌日、私はなるべく九条課長を意識しないようにしようと決めていた。仕事に集中すればいい。いつも通り、普通に。けれど――気づけば、つい視線が彼を追ってしまう。

 デスクに向かい、書類を整理する手を動かしながらも、頭の片隅ではずっと考えてしまう。意識しないように、と思えば思うほど、その存在が際立つ。まるで意識を向けることを拒むほどに、逆に引き寄せられるみたいに。まるで、吸い込まれるように。

 ちらりと視線を上げる。九条課長は、変わらず落ち着いた態度で業務を進めていた。デスクに座り、真剣な眼差しで画面に映る資料を見つめ、時折ペンを指先で回しながら思案している。その所作のひとつひとつに無駄がなく、流れるように洗練されている。電話が鳴れば、低く落ち着いた声で応対し、端的で的確な指示を部下に返す。その声には揺らぎがなく、どんな状況でもブレない強さがある。

 その姿は、私がよく知る九条課長だった。けれど――何かが違う。

 胸の奥に生まれた違和感は、小さな波紋となって静かに広がっていく。確信には至らないけれど、どこかほんの少し、微細なずれがある気がする。言葉にはできない、けれど確かに感じる違和感。

 そして、それが決定的になったのは、朝のミーティングのときだった。

 会議室には、パソコンのキーを叩く音、書類をめくる音が微かに響く。壁際のホワイトボードには前回の議事録が書き残され、プロジェクターには最新の資料が投影されていた。私は、いつものように内容を確認し、発言のタイミングを計る。

「ここですが――」

 そう前置きをして、私は意見を述べた。考え抜いた上での発言だったし、いつもなら九条課長は一度頷き、何かしらの反応を返してくれる。

 けれど今回は――

「……そうだな。その点については、検討課題に入れる」

 その返答は、驚くほど淡白だった。

 乾いた声音。ほんのわずかな間があった気がする。必要最低限の言葉を選び、感情を排除するように、ただ事務的に処理するように。そんな話し方だった。

(……あれ?)

 小さな疑問が胸をよぎる。いつもなら、もう少し違う。私の意見に軽く相槌を打ち、時には補足を加え、時には視点を広げるような言葉をくれる。私の考えに寄り添いながら、軌道修正をしてくれる。けれど、今の彼は――まるで、それを避けるようだった。

 私がそう感じてしまうのは、気のせい? 思い込み? それとも……

 ちらりと横目で九条課長を窺う。彼の表情は変わらない。淡々とした態度のまま、資料へ視線を落としている。その横顔は冷静そのもので、取り立てて感情を読み取ることはできなかった。

 けれど、私の中の違和感は、消えない。

 周囲を見渡せば、他の社員たちは何も気にしていない様子だった。誰も彼の態度に違和感を抱いているようには見えない。九条課長はいつもと変わらず、的確に指示を出し、会議を進行していた。

「ここのデータ、少し古いな。最新の数値を反映させてくれ」
「この部分は悪くない。進めて問題ない」

 その声も、言葉も、いつも通り。――なのに。

 心の奥底で、何かが引っかかる。名前のつかない、小さな棘のような感覚。指先に触れれば消えてしまいそうなほど繊細なのに、一度気づいてしまうと、もう無視できない。喉の奥に残る違和感。飲み込んでも消えず、じわじわと広がるそれは、呼吸の隙間から静かに忍び込んでくるようだった。

 九条課長は、他の誰かと話すときは何も変わらない。いや、変わってから変わっていないというか……。ここ最近は、理路整然とした言葉の裏に柔らかさを感じさせる話し方になっていた。だが――今、私に向けられる言葉だけがどこか慎重に選ばれている気がする。

 いや、慎重というより、距離を取るような。

 気のせいかもしれない。いや、そう思いたいだけかもしれない。でも、その可能性にすがるには、違和感があまりにもはっきりしすぎていた。まるで机の上に置かれた書類の端が、ほんのわずかに揃っていないことに気づいてしまったときのような、微細で、それでいて確実に存在するズレ。

 ――昼休憩に入ると、案の定、麻美がすぐに話しかけてきた。

「今日の課長、佐倉に冷たくなかった?」

 隣のデスクから身を乗り出し、興味深そうにこちらを覗き込む。まるで何かのドラマを観察するような、軽い調子。でも、その目はしっかりとこちらを探っている。

「えっ、そうかな?」

 何でもないふうを装って即座に答えたけれど、自分でもわかる。声の調子がどこかぎこちない。言葉に含まれるはずの軽やかさが消えてしまっている。言いながら、無意識に指先を組み合わせ、ゆっくりとほどいた。こうしていると、不安が少しだけごまかせる気がした。

 麻美はそんな私をじっと見つめると、すぐに口元を歪めた。

「ふーん? なんかさ、ちょっと前までは佐倉を特に気にかけてたと思うんだけど」

 その言葉が落ちると同時に、心臓がぎゅっと縮こまるような感覚がした。まるで的確に急所を突かれたような鋭い痛み。思わず息を詰め、喉の奥で言葉が絡まる。

(やっぱり……私だけじゃなくて、周りから見ても変わったんだ……)

 胸の奥に重たいものが沈み込む感覚がする。何気ない日常の一コマのはずなのに、心がざわついて落ち着かない。

 麻美の視線が鋭くなり、探るような色を帯びた。

「まさか……喧嘩した? ついに亀裂が……!」

「そ、そんなわけないでしょ! というか、そもそも喧嘩とか亀裂とかいう間柄でもないし!」

 言葉を急いで繕うが、自分でも気づいてしまう。取り繕えば取り繕うほど、胸のざわつきは収まるどころか、むしろ広がっていくばかりだった。

「ほんとー?」

 麻美は半ば楽しむように、口元をゆがめてニヤリと笑う。その表情が妙に意地悪に見えて、私は思わず視線を逸らした。

「でもさ、ほんとに何もないなら、あの冷徹で公平な課長が、いきなりそんな態度を変える? 佐倉ばっかり気にかけるのも変だけど、その逆も変だよ?」

「……」

 確かに、昨日までは――少なくとも、こんなふうに意図的に距離を取られていると感じたことはなかった。思い返せば、ここ最近の課長は時折自然に話しかけてくれていたし、短い雑談を交わすこともあった。それが今日になって急に素っ気なくなった。目が合いそうになるとすぐ逸らされるし、必要最低限の言葉しか交わさない。まるで線を引かれたみたいに。

 昨日のあの一件が影響しているのだろうか。私の言動が何かまずかった? それとも、課長のほうが何か考えている……?

「……考えすぎかな」

 自分に言い聞かせるように呟いてみる。でも、心の奥に沈殿した違和感は消えない。

 考えれば考えるほど、答えの出ない違和感だけが残った。
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