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第29話 九条課長の判断

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 残業を終えたあとも、私はデスクに座ったまま、ぼんやりと考え込んでいた。

 蛍光灯の明かりが無機質なデスクの上を白々と照らし、静まり返ったオフィスに乾いた光を落としている。パソコンの画面はすでに暗くなり、開きかけたままのファイルは手つかずのまま放置されていた。積み上げられた書類の端が微かに揺れるのを眺めながら、私は指先でデスクの縁をなぞる。オフィスにはまだ数人の社員が残っていたが、それぞれ自分の作業に没頭しており、時折、キーボードを叩く音や紙をめくる音が微かに響くだけだった。

 私は机の端に肘をつきながら、ふっと長い息を吐いた。

 このまま、課長と距離ができたままの方がいいんだろうか。

 契約結婚――それはあくまで実家への建前で、会社とは関係のない話。だから職場では今まで通り、上司と部下としての距離感を保つのが正しい。余計な誤解を生まず、仕事にも支障が出ないはずだ。それなのに、どうして胸の奥がこんなにもざわつくのだろう。

 ふと、以前の光景が頭をよぎる。仕事の合間に交わしていた何気ない会話。疲れたときにふと見せる課長の柔らかな表情。珍しく冗談めかした課長の一言に、つい笑ってしまったあの瞬間――。

 ……いや、恋しいって何?

 胸の奥に広がる違和感に動揺し、無意識のうちに両手を握りしめていた。これはおかしい。契約結婚に感情なんて必要ない。求めるべきではない。なのに、どうしてあの時間がこんなにも愛おしく感じるのだろう。

「はぁ……」

 思考の渦から抜け出そうとするように、深いため息をついた。もう帰ろう。これ以上ここにいても、考えがまとまる気がしない。鞄に手を伸ばし、立ち上がろうとした――そのとき、不意に背後から低く落ち着いた声が響いた。

「佐倉」

 瞬間、心臓が跳ねた。息が詰まる。まるで時間が一瞬止まったような感覚に襲われながら、私はゆっくりと振り向いた。そこには九条課長が立っていた。オフィスの白い蛍光灯が彼の横顔を照らし、わずかに緩められたネクタイの隙間から覗く喉仏が静かに上下する。普段は冷静沈着な課長の表情が、どこか言いづらそうに曇っていた。その目が真っ直ぐに私を捉え、逃がさない。

「……はい」

 思わず返事をする。自分の声が驚くほど弱々しく感じられた。

「……少し、時間あるか」

 唐突な申し出に、頭がうまく回らない。なぜ私を? 何の話だろう? 疑問が次々と浮かぶが、それを整理する余裕もなく、反射的に「はい」と答えていた。

 課長は私の返事を聞くと、ゆっくりと小さく頷き、「時間差で会社を出るように」と静かに指示を出す。

 私はその言葉に従い、数分の間を置いてからビルを出る。夜の冷え込んだ空気が、熱を帯びた頬を優しく撫でた。背後に感じる会社の灯りが、遠ざかるたびに現実感を失わせていく。

 指定されたのは、会社近くの落ち着いたバーだった。通りの喧騒から少し離れた場所にひっそりと佇むその店は、控えめな明かりに照らされた木製のドアが特徴的だった。扉の奥からは穏やかなジャズが流れ、重厚な雰囲気が広がっている。私は静かに息を整えながら、そっとドアを押し開けた。

 先に到着していた課長は、カウンター席の端に座っていた。琥珀色の液体を満たしたグラスを指先でゆっくりと回しながら、何かを思案するような横顔を見せている。その姿は妙に静かで、声をかけるのをためらわせるものがあった。しかし、私の気配に気づいたのか、課長はゆっくりと顔を上げる。

「……お待たせしました」

 そう言いながら、私は隣に腰を下ろした。課長は一度頷いたが、その視線は再びグラスへと戻る。バーの中は落ち着いた空気に包まれており、客の姿もまばらだった。静かな時間が流れる。

 しばらく沈黙が続いた。課長はグラスの縁を指でなぞるようにしながら、何かを考えている。その仕草に、私も言葉を探すことができず、ただ前を向いたまま時を待った。

 やがて、課長が低く穏やかな声で口を開く。

「……お前に余計な負担をかけていたかもしれない」

「え?」

 不意の言葉に、思わず課長を見つめる。彼はグラスを傾けることもせず、ただ静かに続けた。

「俺のせいで、変な噂が広まっているようだ。お前にとって、よくない状況だろう」

 ……やっぱり、課長も気にしてたんだ。

 彼の言葉が、まるで静かな波紋のように胸の奥へと広がる。噂のことなんて、考えないようにしていた。でも、こうして課長の口からはっきりと言葉にされると、否応なく現実として突きつけられる。

「だから、距離を取った方がいいと思った」

 その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。

「……課長がそう思うなら、それでいいと思います」

 自分で言いながら、どこか違和感があった。でも、それが何なのか、うまく言葉にできない。ただ、喉の奥が苦しくなる感覚だけが、確かにそこにあった。

 課長は私の言葉をじっと聞いていたが、しばらくしてから静かに「そうか」とだけ言った。その声音が、妙に遠く感じる。

 短い沈黙が流れる。バーの奥でグラスが触れ合う音が微かに響き、カウンターの向こうではバーテンダーが静かにシェイカーを振っていた。それなのに、この場の空気はどこか重く、息苦しい。

 何か、言わなきゃ。このままじゃ、もう二度と戻れなくなる気がする。

 でも、言葉が出てこなかった。ただただ、胸の奥に絡まったものが解けないまま、時間だけが過ぎていく。

 やがて、どちらからともなく席を立った。店を出ると、夜の冷えた空気が肌を刺すようだった。通りには人の流れがあったが、その賑わいとは対照的に、私の心は妙に静かだった。

 バーを出て別れたあとも、心の中に妙な寂しさが残り続けていた。まるで、どこかで扉がそっと閉じられる音が聞こえた気がした。もう、二度と開かないかもしれない扉が。
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