29 / 35
第29話 九条課長の判断
しおりを挟む
残業を終えたあとも、私はデスクに座ったまま、ぼんやりと考え込んでいた。
蛍光灯の明かりが無機質なデスクの上を白々と照らし、静まり返ったオフィスに乾いた光を落としている。パソコンの画面はすでに暗くなり、開きかけたままのファイルは手つかずのまま放置されていた。積み上げられた書類の端が微かに揺れるのを眺めながら、私は指先でデスクの縁をなぞる。オフィスにはまだ数人の社員が残っていたが、それぞれ自分の作業に没頭しており、時折、キーボードを叩く音や紙をめくる音が微かに響くだけだった。
私は机の端に肘をつきながら、ふっと長い息を吐いた。
このまま、課長と距離ができたままの方がいいんだろうか。
契約結婚――それはあくまで実家への建前で、会社とは関係のない話。だから職場では今まで通り、上司と部下としての距離感を保つのが正しい。余計な誤解を生まず、仕事にも支障が出ないはずだ。それなのに、どうして胸の奥がこんなにもざわつくのだろう。
ふと、以前の光景が頭をよぎる。仕事の合間に交わしていた何気ない会話。疲れたときにふと見せる課長の柔らかな表情。珍しく冗談めかした課長の一言に、つい笑ってしまったあの瞬間――。
……いや、恋しいって何?
胸の奥に広がる違和感に動揺し、無意識のうちに両手を握りしめていた。これはおかしい。契約結婚に感情なんて必要ない。求めるべきではない。なのに、どうしてあの時間がこんなにも愛おしく感じるのだろう。
「はぁ……」
思考の渦から抜け出そうとするように、深いため息をついた。もう帰ろう。これ以上ここにいても、考えがまとまる気がしない。鞄に手を伸ばし、立ち上がろうとした――そのとき、不意に背後から低く落ち着いた声が響いた。
「佐倉」
瞬間、心臓が跳ねた。息が詰まる。まるで時間が一瞬止まったような感覚に襲われながら、私はゆっくりと振り向いた。そこには九条課長が立っていた。オフィスの白い蛍光灯が彼の横顔を照らし、わずかに緩められたネクタイの隙間から覗く喉仏が静かに上下する。普段は冷静沈着な課長の表情が、どこか言いづらそうに曇っていた。その目が真っ直ぐに私を捉え、逃がさない。
「……はい」
思わず返事をする。自分の声が驚くほど弱々しく感じられた。
「……少し、時間あるか」
唐突な申し出に、頭がうまく回らない。なぜ私を? 何の話だろう? 疑問が次々と浮かぶが、それを整理する余裕もなく、反射的に「はい」と答えていた。
課長は私の返事を聞くと、ゆっくりと小さく頷き、「時間差で会社を出るように」と静かに指示を出す。
私はその言葉に従い、数分の間を置いてからビルを出る。夜の冷え込んだ空気が、熱を帯びた頬を優しく撫でた。背後に感じる会社の灯りが、遠ざかるたびに現実感を失わせていく。
指定されたのは、会社近くの落ち着いたバーだった。通りの喧騒から少し離れた場所にひっそりと佇むその店は、控えめな明かりに照らされた木製のドアが特徴的だった。扉の奥からは穏やかなジャズが流れ、重厚な雰囲気が広がっている。私は静かに息を整えながら、そっとドアを押し開けた。
先に到着していた課長は、カウンター席の端に座っていた。琥珀色の液体を満たしたグラスを指先でゆっくりと回しながら、何かを思案するような横顔を見せている。その姿は妙に静かで、声をかけるのをためらわせるものがあった。しかし、私の気配に気づいたのか、課長はゆっくりと顔を上げる。
「……お待たせしました」
そう言いながら、私は隣に腰を下ろした。課長は一度頷いたが、その視線は再びグラスへと戻る。バーの中は落ち着いた空気に包まれており、客の姿もまばらだった。静かな時間が流れる。
しばらく沈黙が続いた。課長はグラスの縁を指でなぞるようにしながら、何かを考えている。その仕草に、私も言葉を探すことができず、ただ前を向いたまま時を待った。
やがて、課長が低く穏やかな声で口を開く。
「……お前に余計な負担をかけていたかもしれない」
「え?」
不意の言葉に、思わず課長を見つめる。彼はグラスを傾けることもせず、ただ静かに続けた。
「俺のせいで、変な噂が広まっているようだ。お前にとって、よくない状況だろう」
……やっぱり、課長も気にしてたんだ。
彼の言葉が、まるで静かな波紋のように胸の奥へと広がる。噂のことなんて、考えないようにしていた。でも、こうして課長の口からはっきりと言葉にされると、否応なく現実として突きつけられる。
「だから、距離を取った方がいいと思った」
その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……課長がそう思うなら、それでいいと思います」
自分で言いながら、どこか違和感があった。でも、それが何なのか、うまく言葉にできない。ただ、喉の奥が苦しくなる感覚だけが、確かにそこにあった。
課長は私の言葉をじっと聞いていたが、しばらくしてから静かに「そうか」とだけ言った。その声音が、妙に遠く感じる。
短い沈黙が流れる。バーの奥でグラスが触れ合う音が微かに響き、カウンターの向こうではバーテンダーが静かにシェイカーを振っていた。それなのに、この場の空気はどこか重く、息苦しい。
何か、言わなきゃ。このままじゃ、もう二度と戻れなくなる気がする。
でも、言葉が出てこなかった。ただただ、胸の奥に絡まったものが解けないまま、時間だけが過ぎていく。
やがて、どちらからともなく席を立った。店を出ると、夜の冷えた空気が肌を刺すようだった。通りには人の流れがあったが、その賑わいとは対照的に、私の心は妙に静かだった。
バーを出て別れたあとも、心の中に妙な寂しさが残り続けていた。まるで、どこかで扉がそっと閉じられる音が聞こえた気がした。もう、二度と開かないかもしれない扉が。
蛍光灯の明かりが無機質なデスクの上を白々と照らし、静まり返ったオフィスに乾いた光を落としている。パソコンの画面はすでに暗くなり、開きかけたままのファイルは手つかずのまま放置されていた。積み上げられた書類の端が微かに揺れるのを眺めながら、私は指先でデスクの縁をなぞる。オフィスにはまだ数人の社員が残っていたが、それぞれ自分の作業に没頭しており、時折、キーボードを叩く音や紙をめくる音が微かに響くだけだった。
私は机の端に肘をつきながら、ふっと長い息を吐いた。
このまま、課長と距離ができたままの方がいいんだろうか。
契約結婚――それはあくまで実家への建前で、会社とは関係のない話。だから職場では今まで通り、上司と部下としての距離感を保つのが正しい。余計な誤解を生まず、仕事にも支障が出ないはずだ。それなのに、どうして胸の奥がこんなにもざわつくのだろう。
ふと、以前の光景が頭をよぎる。仕事の合間に交わしていた何気ない会話。疲れたときにふと見せる課長の柔らかな表情。珍しく冗談めかした課長の一言に、つい笑ってしまったあの瞬間――。
……いや、恋しいって何?
胸の奥に広がる違和感に動揺し、無意識のうちに両手を握りしめていた。これはおかしい。契約結婚に感情なんて必要ない。求めるべきではない。なのに、どうしてあの時間がこんなにも愛おしく感じるのだろう。
「はぁ……」
思考の渦から抜け出そうとするように、深いため息をついた。もう帰ろう。これ以上ここにいても、考えがまとまる気がしない。鞄に手を伸ばし、立ち上がろうとした――そのとき、不意に背後から低く落ち着いた声が響いた。
「佐倉」
瞬間、心臓が跳ねた。息が詰まる。まるで時間が一瞬止まったような感覚に襲われながら、私はゆっくりと振り向いた。そこには九条課長が立っていた。オフィスの白い蛍光灯が彼の横顔を照らし、わずかに緩められたネクタイの隙間から覗く喉仏が静かに上下する。普段は冷静沈着な課長の表情が、どこか言いづらそうに曇っていた。その目が真っ直ぐに私を捉え、逃がさない。
「……はい」
思わず返事をする。自分の声が驚くほど弱々しく感じられた。
「……少し、時間あるか」
唐突な申し出に、頭がうまく回らない。なぜ私を? 何の話だろう? 疑問が次々と浮かぶが、それを整理する余裕もなく、反射的に「はい」と答えていた。
課長は私の返事を聞くと、ゆっくりと小さく頷き、「時間差で会社を出るように」と静かに指示を出す。
私はその言葉に従い、数分の間を置いてからビルを出る。夜の冷え込んだ空気が、熱を帯びた頬を優しく撫でた。背後に感じる会社の灯りが、遠ざかるたびに現実感を失わせていく。
指定されたのは、会社近くの落ち着いたバーだった。通りの喧騒から少し離れた場所にひっそりと佇むその店は、控えめな明かりに照らされた木製のドアが特徴的だった。扉の奥からは穏やかなジャズが流れ、重厚な雰囲気が広がっている。私は静かに息を整えながら、そっとドアを押し開けた。
先に到着していた課長は、カウンター席の端に座っていた。琥珀色の液体を満たしたグラスを指先でゆっくりと回しながら、何かを思案するような横顔を見せている。その姿は妙に静かで、声をかけるのをためらわせるものがあった。しかし、私の気配に気づいたのか、課長はゆっくりと顔を上げる。
「……お待たせしました」
そう言いながら、私は隣に腰を下ろした。課長は一度頷いたが、その視線は再びグラスへと戻る。バーの中は落ち着いた空気に包まれており、客の姿もまばらだった。静かな時間が流れる。
しばらく沈黙が続いた。課長はグラスの縁を指でなぞるようにしながら、何かを考えている。その仕草に、私も言葉を探すことができず、ただ前を向いたまま時を待った。
やがて、課長が低く穏やかな声で口を開く。
「……お前に余計な負担をかけていたかもしれない」
「え?」
不意の言葉に、思わず課長を見つめる。彼はグラスを傾けることもせず、ただ静かに続けた。
「俺のせいで、変な噂が広まっているようだ。お前にとって、よくない状況だろう」
……やっぱり、課長も気にしてたんだ。
彼の言葉が、まるで静かな波紋のように胸の奥へと広がる。噂のことなんて、考えないようにしていた。でも、こうして課長の口からはっきりと言葉にされると、否応なく現実として突きつけられる。
「だから、距離を取った方がいいと思った」
その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……課長がそう思うなら、それでいいと思います」
自分で言いながら、どこか違和感があった。でも、それが何なのか、うまく言葉にできない。ただ、喉の奥が苦しくなる感覚だけが、確かにそこにあった。
課長は私の言葉をじっと聞いていたが、しばらくしてから静かに「そうか」とだけ言った。その声音が、妙に遠く感じる。
短い沈黙が流れる。バーの奥でグラスが触れ合う音が微かに響き、カウンターの向こうではバーテンダーが静かにシェイカーを振っていた。それなのに、この場の空気はどこか重く、息苦しい。
何か、言わなきゃ。このままじゃ、もう二度と戻れなくなる気がする。
でも、言葉が出てこなかった。ただただ、胸の奥に絡まったものが解けないまま、時間だけが過ぎていく。
やがて、どちらからともなく席を立った。店を出ると、夜の冷えた空気が肌を刺すようだった。通りには人の流れがあったが、その賑わいとは対照的に、私の心は妙に静かだった。
バーを出て別れたあとも、心の中に妙な寂しさが残り続けていた。まるで、どこかで扉がそっと閉じられる音が聞こえた気がした。もう、二度と開かないかもしれない扉が。
47
あなたにおすすめの小説
定時で帰りたい私と、残業常習犯の美形部長。秘密の夜食がきっかけで、胃袋も心も掴みました
藤森瑠璃香
恋愛
「お先に失礼しまーす!」がモットーの私、中堅社員の結城志穂。
そんな私の天敵は、仕事の鬼で社内では氷の王子と恐れられる完璧美男子・一条部長だ。
ある夜、忘れ物を取りに戻ったオフィスで、デスクで倒れるように眠る部長を発見してしまう。差し入れた温かいスープを、彼は疲れ切った顔で、でも少しだけ嬉しそうに飲んでくれた。
その日を境に、誰もいないオフィスでの「秘密の夜食」が始まった。
仕事では見せない、少しだけ抜けた素顔、美味しそうにご飯を食べる姿、ふとした時に見せる優しい笑顔。
会社での厳しい上司と、二人きりの時の可愛い人。そのギャップを知ってしまったら、もう、ただの上司だなんて思えない。
これは、美味しいご飯から始まる、少し大人で、甘くて温かいオフィスラブ。
冷徹社長の「契約」シンデレラ~一夜の過ちから始まる溺愛ルート!? 嘘つきな私と不器用な御曹司のオフィスラブ~
藤森瑠璃香
恋愛
派遣社員の桜井美月は、ある夜、会社の懇親会で泥酔し、翌朝目覚めると隣には「氷の彫刻」と恐れられる若き社長・一条蓮がいた。まさかの一夜の過ち(実際には何もなかったが、美月は勘違い)に青ざめる美月に、蓮は「責任は取る。だがこれは恋愛ではない、契約だ」と、彼の抱えるある事情のため、期間限定で恋人のフリをするよう持ちかける。破格の報酬と蓮の真剣な様子に、美月は契約を受け入れる。
学園では婚約者に冷遇されていますが、有能なので全く気になりません。〜学園でお山の大将されてても、王宮では私の方が有能ですから〜
織り子
恋愛
王都カラディナにある国立魔術学園では、満十六歳の生徒たちの社交界デビューを兼ねた盛大なパーティーが開かれていた。
侯爵令嬢タレイア・オルトランは、婚約者である第二王子アスラン・オグセリアの迎えを待つも、結局ひとりで会場へ向かうことになる。
学園では身分の差がないとはいえ、アスランが公然とタレイアを侮辱し続けてきたことで、彼女は生徒たちから冷笑と蔑視の的となっていた。しかしタレイアは、王城で政務を担ってきた聡明さと矜持を失わず、毅然と振る舞う。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
退屈扱いされた私が、公爵様の教えで社交界を塗り替えるまで
有賀冬馬
恋愛
「お前は僕の隣に立つには足りない」――そう言い放たれた夜から、私の世界は壊れた。
辺境で侍女として働き始めた私は、公爵の教えで身だしなみも心も整えていく。
公爵は決して甘やかさない。だが、その公正さが私を変える力になった。
元婚約者の偽りは次々に暴かれ、私はもう泣かない。最後に私が選んだのは、自分を守ってくれた静かな人。
いい加減こっち見ろよ!〜見た目だけだとフラれ続ける私は、どうやら幼馴染の執着愛に気づいていなかったようです。〜
こころ ゆい
恋愛
保育士の八重と外科医の一生は、小学生の頃からの幼馴染。
傍から見れば、儚く清楚に見えるらしい八重は、実は外見にそぐわぬ性格をしていた。
そのせいで、見た目につられて告白してくる男性たちは、ことごとく彼女の中身を知って離れていく。
フラれる度に、やけ食いややけ酒に付き合ってもらっている一生は優しいが、懲りずに同じような恋愛を繰り返す八重に呆れている....と思っていたら?
「....八重の可愛さは、そんなもんじゃないんです。....誰も気付かなくていい。俺だけが知ってればいい」
ーーどうやら、かなり愛されていたようです?
※じれじれ・執着・溺愛 ラブストーリー。🌱
※この物語は、全て作者の想像で描かれたフィクションです。実際の場所・建物・人物とは関係ありません。🌱
※HOTランキング入りしました。(最高47位でした)全ては、読者の皆様のおかげです。心より感謝申し上げます。今後も精進して参ります。🌱
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる